半色 七

「前播磨守殿の御嫡男が捕縛されましたぞ」
 と、重盛に告げてきたのは、叔父・頼盛であった。
「は、それは……」
 と云いながら、重盛の胸のうちには疑問がわき上がっていた。
 何故、この叔父は、自分にかの小冠者の話をするのだろう?
「私の郎党の――平宗清と云うものが、美濃にて捕えましての」
 重盛の心の声に答えるように、頼盛は云い、目を細めてふふと笑った。
「聞けば、なかなかに見目好い冠者殿であるとか……宗清め、すっかりほだされたとみえて、我が母に“亡き右馬助殿に瓜ふたつにて候”などと書き送って参りましたぞ」
「右馬助殿に」
 父に齢の近かった、右馬助・家盛にか。
 それでは、その宗清とやら云う郎党は、よくよく池禅尼のことをわきまえているのだろう。
 “祖父”忠盛の正妻にして、叔父・頼盛の母たる池禅尼は、かつて讃岐院――院の兄君にして、保元の乱に敗れ、讃岐に配流となった――の皇子の乳母をつとめていたことがあり、また近親に故・鳥羽院の寵臣などもあったことから、鳥羽院の寵妃であった美福門院、その娘である八条院とも繋がりがあり、祖父亡きいまも、平家一門の中では隠然たる力を持ち続けていた。それは、父・清盛にしても無視できぬほどのもので、実際、右中将・成親などは禅尼の縁続きであったのだが、重盛と、何よりも禅尼の懇願とによって、罪一等を減じられ、遠流でもなく解官にとどめられたほどであった。
 その池禅尼が、かの小冠者の罪を減じるために動く、となれば、父は中々厳しいことになるだろう、とは、重盛も思わずにはいられなかった。
「……禅尼は、慈悲深くてあらせられます故な」
 胸中の様々な思いを滲ませぬよう、注意深くそう応える。
 叔父は、いかにも己の郎党の小知恵のように、禅尼と小冠者の話をするが――ことはそれだけにとどまらぬのではないか、と重盛には思えたのだ。
 宮中の繋がりが多い故に、かの禅尼が動くとなれば、その後ろに、かの小冠者の母方の祖父である熱田大宮司藤原季範や、上西門院あたりの姿が見えるような気がしてならぬのだ。いや、それのみではない、もしかすると一の院や、当今なども……?
 ――いやいや。
 先走りすぎている、と、その考えを慌てて振り払う。
 いかに傍近くあったとて、罪人は罪人、その罪を免れさせようなどとは、いかに院や当今であっても思われはするまい。
 ――しかし、“右馬助殿に瓜ふたつにて候”とは……
 その平宗清とやら云う男、かの小冠者にほだされている故かは知らぬが、中々に知恵が回るとみえる。
 何となれば、池禅尼は祖父の没後に髪を下ろして出家したのだが、かの女がもっぱらに弔っているのは、夫・忠盛に非ず、夭逝した息子・家盛であるとは、まことしやかに云われることであったからだ。
 頼盛の郎党であれば、むろん、禅尼に関するそのような話も聞き及んでいたに違いない。であればこそ、宗清とやらは、“右馬助殿に瓜ふたつにて候”などと、頼盛に対して書き送ったのであろう。
 平家一門のうちで未だ大きな力を持つ禅尼の心を動かすのに、かの女が未だに惜しみ悲しみたる右馬助・家盛に、“瓜ふたつ”の小冠者がある、と聞けば――たとえ熱田大宮司や上西門院の懇願に心を動かされることがなかったとしても、そのことに押されて考えを変えることがないとも限らぬではないか。
「ほんに、母にも困ったものです」
 重盛の胸中を知ってか知らずか、叔父はそう云って、ふわりと笑んだ。
「先だっても、あちらこちらから謀反人の助命嘆願の書状を受け取っていた様子。兄上に面倒をおかけ致すことになる故お慎み下されと申しましても、あの様子でございますから、の」
 と云って、父のもとへ乗りこんできた時の禅尼の様子を思い出したか、ふふと笑う。
「はぁ……」
 重盛は、曖昧に笑い返すしかない。
「まぁ、私の申し上げることなど、兄上に届くこともございますまいから、私といたしましては、煩わされることものうて宜しいのでございますが、の」
 自嘲とも何ともつかぬ言葉に、どう返して良いものやらわからず、沈黙する。
 お気に召さるな、と云って、頼盛は帰っていったが――
 小冠者が叔父の手のものに捕えられたと云うことは、喉にかかった小骨のように、重盛の頭の片隅にかかっていた。
 もしも、小冠者が、己の所業をあの叔父に告げたなら――そう思うと、杞憂だとは知りながらも、波立つ心を抑えられぬのだ。
 もやもやとしたものを抱えながら、重盛は、蟄居中の成親を見舞いにいった。
 成親は、幾分やつれ気味ながら、概ね元気そうな様子で、重盛を抱きかかえんばかりに迎えてくれた。
「しがらみ故とは云え、大変なことを致してしまいました故、これしきの御沙汰で済みましたは、大変な僥倖と喜んでおりますよ――むろん、これもひとえに池禅尼様と左馬頭殿の御口添えがあればこそと存じおりまするが」
 そう云って、そっと涙を拭うように、袖を目許に押しあてる。
「こうなっては、気にかかるは一の院の御ことにございまする――御鍾愛であられた水無瀬参議殿や信西入道殿をなくされ、また、聞けば粟田口参議殿や新大納言殿に無体をはたらかれたとの話ではございませぬか。院が、どれほど御嘆き、御怒りあそばされたか、どれほど口惜しく思されたかと思うと、私は、心が痛んでなりませぬ」
「……院も、右中将様が御傍にないことを、御淋しゅう思されておられるご様子――私も、お早いお戻りを心待ちにしておりまする」
 ところで、と、重盛は別の話に水を向けた。
「少々お訊ね致したき儀が……我が叔父、尾張守のことにございます」
尾張殿の……私にわかることにございましょうかの」
「私よりはご存知なのではありますまいか。――叔父は、宮中にて、どのあたりに知己を持っておりましょうか」
「はて……」
 成親は、考えこむ風でまなざしを逸らした。あるいはそれは、重盛にどの程度までを話したものかと思案する風でもあった。
 ややあって、
「……公卿のうちは存じませぬが、尾張殿は、池禅尼様のころよりのよしみで、八条院様とは親しくなさっておられるご様子。それ故に、八条院様まわりの方々とは、繋がりをお持ちなのではございますまいか」
 ――無難な返答だな。
 と思わずにいられなかったが、成親には成親の立場がある。流罪を解官にとどめてくれた恩のある池禅尼の子に関して、迂闊なことを云うわけにもゆかぬのだろう。
 ――しかし、八条院様、か……
 八条院と云えば、院の前の帝にして、弟君でもあった近衛帝――わずか十七で崩じられた――の同腹の内親王であられる。そのあとを受けて登極なされたのが今の一の院であり、その直後に讃岐院が起こされたのが、いわゆる保元の乱であったのだ。
 八条院は、当今の准母であり、また故・鳥羽院と美福門院の荘園を所有してもおられるため、宮中における力は並々ならぬものがあった。一の院が院政を敷くことができたのも、この女院の力があればこそ、と云うのは、知らぬものとてない事実であったのだ。
 その八条院と、叔父が繋がりを持っている、と云うことは、よくよく考えてみれば、中々厄介なことであると云えただろう。
 何となれば、父にあるのは、院や当今の近臣と云う立場ではなく、武力と、大宰大弐と云う官職のみ、一方の叔父は、院と当今、双方の後ろ盾である女院のつてがある。となれば、いずれ叔父が力を蓄えて、父や自分を圧倒せぬとも限らぬではないか。
 考え過ぎだと思いたいのは山々だったが、残念ながら、ことこのような件に関しては、考えても考え過ぎると云うことがないのが常であったのだ。
 重盛は重く吐息して、もうひとつの懸念を持ち出した。
「……実は、その叔父の郎党が、かの小冠者を捕えた由にございまして」
「何と、尾張殿の郎党がでござりまするか」
 成親は、さらに考えこむようなそぶりを見せた。
「何ぞ、拙いことでも?」
「……その郎党を通じて、我らの狼藉が、尾張殿に知れは致しますまいかの」
「そのようなことを、仮にも源氏の御嫡男が申されましょうか」
「ですが、直截に申されずとも、言葉の端々ににおうことでもございましょう。その郎党とやらが気づくかは知れませぬが――あり得ぬ、とは申せますまい」
「――確かに、左様でございまするな」
 そうして、それを宗清と云う郎党が、叔父に告げでもしたならば?
 叔父は――重盛に、一体何と云ってくるのだろうか?
「――それは、確かに拙うございますな」
 それも、主に重盛が。
 父や自分に含むところのあるだろう叔父が、自分のなした狼藉を知れば、何やら難癖をつけてこないとも限らぬではないか。
 否――叔父は確実に、何やら云ってくるだろう。但しそれは“難癖”などではなく、皮肉などのかたちをとって、自分に圧力をかけてくる。そうなるに違いないと云う予感があった。
「……拙う、ございますな……」
 きり、と唇を噛むが、もはやいかんともし難かった。
 願わくば、かの小冠者が重盛の所業について、何もこぼさぬようにと祈るばかりだ。
 だが――
 その願いは、すぐに虚しいものとなった。
 幾日かののち、叔父が再び重盛の許を訪ねてきたのだ。
「実は、母よりの使いを頼まれまして、の」
 にこやかに云った叔父は、池禅尼の要件を切り出してきた。
「例の播磨守殿の御嫡男、右兵衛佐殿のことにございます。案の定、母がほだされましての、兄上にかけ合ったのでございまするが、どうも不首尾であったようでございまして」
「……それで、何ゆえ私めの許に?」
 父に対する力など、重盛よりも池禅尼の方が強いのだ。その禅尼が失敗したのであれば、自分などの出る幕はない。こうと心に決めた父を、動かすなど、院や当今以外にはなし得ぬことなのだ。
「そうは云われるが、左馬頭殿には、上つ方より件のこと、何やら御云い含めがございましたのではありますまいか」
 そう云われて、ぎょっとする。
 確かに、小冠者の助命を父に働きかけよと云う命はあった。それも、一の院と当今との二方からである。どちらも、御立場故に、おもてだっての命ではなかった――特に、当今は――が、上西門院も同じ願いであるのでしかと頼む、とまで云われたとなっては、重盛としても否とは云い難かったのだ。
 だが、それをちらつかせてみたとても、義朝の係累の一掃を望む父は、法を楯にとって撥ねつけるに違いなかった。
「……私の方も同様でございましての。八条院様より、佐殿の助命を願うてくれとの仰せ――熱田大宮司殿のお嘆きに、御心を動かされてのこととは存じますが……」
 そのようなわけでしての、と叔父は微笑んだ。
「私と致しましても、果たさぬわけにはゆかぬのでございまするよ。――したが、兄上は私の申す様などお聞き入れにはなりますまい。……左馬頭殿、ひとつお骨折り戴けませぬかな?」
「……そも、禅尼様のお言葉に肯首せなんだ父が、私ごときの申すように耳を傾けるとも思えませぬが」
 かの小冠者のために動きたくなどない、と云う心もあったのは事実だが、それにしても、この言葉は本心からのものであった。
 父は、子どもらの云うことに易々と頷くような、甘い男でなどありはしなかった。義母であり、出世の恩もある池禅尼の言葉を容れなかった父が、まして重盛などの云うところを聞き入れるとは到底思われぬ。せいぜいが、怒鳴りつけられて終わり、と云ったところであるだろう。
「そこを、是非にもお願い致したいのです」
「無理をおっしゃる」
「……したが、貴殿の身がかかるとなれば、無理とはおおせになりますまい」
 叔父の声にひやりとしたものは混じり、重盛はぞっとしてその顔を見た。
 叔父は、相変わらず微笑んでいる。だが、そのまなざしに、笑む唇に、確かに冷ややかな毒が含まれていると思うのは、重盛の気のせいなどではあり得まい。
「実は先だって、佐殿にお会い致しましての。……貴殿の御名を申しましたらば、お顔が白うなって、涙をおこぼしになって、お目にかかりとうないと申されましたぞ。貴殿――佐殿に何をなされました?」
 檜扇が突きつけられる――小刀の切っ先を突きつけるように。
 何も、などとは、云える空気ではなかった。
「いたいけな小冠者に、狼藉を働かれましたろう。可哀想に、佐殿はすっかり怯えておられるご様子。――貴殿が、年端もゆかぬ冠者殿に、かような狼藉を働かれたとなれば……あの兄上とて、何をかはおっしゃることとなりましょうな……?」
「……!!」
 そのようなことになれば――重盛は戦慄した。
 父は、身辺に隙を見せぬことによって、ゆっくりと、だが着実に、己の地歩を固めてきた人間だった。それ故に、小狡い手段を取ることを嫌いはせぬが――卑怯なふるまいまでを肯定するとも思われなかった。
 廃嫡される、とまでは思いたくなかったが、さりとて下には大和守となった基盛や、遠江守となった宗盛などが控えている。重盛を廃し、そちらを嫡子に立てることも、父には可能であるのだ。
「……尾張殿には、私に何をなせと……?」
 食いしばった歯の間から、軋る声で問いかけるが、叔父は扇をひらりと翻しただけだった。
「はて、私の申しましたは、大したことでもござりませぬ――左馬頭殿から兄上に、佐殿の助命を申し上げて戴きたいのでござりまするよ」
「私の申すようなど、父は聞き入れは致しますまい」
「それでも、私が申すよりはお耳に届きましょうぞ」
 ひらりひらりと扇を翻す、小刀を玩ぶかのような仕種。
「宜しいではござりませぬか、一の院などからの御依頼もございましょう。そのあたりを強く申し上げれば、兄上とても無碍にはなされますまいよ」
 ふふと笑う、いかにも楽しげな声で。
 重盛は、強く強く唇を噛んだ。
 この叔父の云いなりになるのは業腹だったが、もとはと云えば己の蒔いた種、已むを得ぬことなのだ。
「……相わかりました」
 終に、重盛は折れた――折れざるを得なかった。
「したが、先にも申しましたとおり、父が私ごときの言を容れるとも思われませぬ。……不首尾に終わりましても、お恨みめさるなよ……?」
「無論のこと」
 叔父は晴れ晴れと云って、檜扇を閉じた。
「左馬頭殿より申し上げて戴ければ、そののち、母が再び助命を申しました時に、折れて下さり易くなりましょう故」
 何と云うことだ、と、重盛は思わずにはいられなかった。
 叔父は、父が重盛の言葉を退けることも織りこんだ上で、更にそののち、池禅尼にひと押しさせるつもりなのだ。やんごとない筋の方々が、これほどにも小冠者の助命を願っているのだと、そのようなことを陰に陽にちらつかせて見せながら。
 ――これが、公家と云うものなのか……
 武力一辺倒の他の平家のものたちにはない、政を為す力と云うものなのか。
 手強い、と思う。父や自分などの武辺のものたちは、この先いかに栄耀を極めようと、ついに最後のところでは公家に敵うことはないのではないか――院が、かつて自分と小冠者を秤にかけたように、平家もいずれ、他の一門と秤にかけられることになるのではないか。
「それでは、宜しうお頼申しましたぞ」
 叔父は云って、微笑んで去っていった。
 残された重盛の胸中は、敗北感でいっぱいであった。
 だが、仕方がない、父にかけ合ってみなくてはならぬ。そうとも、父を何としても説得しろと云われたわけではない、叔父は、不首尾でも構わぬと云ったではないか――
 だが、してやられたと云う思いは、どうやっても消え去りはしなかった。
 ともかくも、父に会わねばならぬ。
 重盛は、苦い息をついて、父に宛てた書状を認めるため、硯箱に手を伸ばした。


† † † † †


重盛の話、続き〜。
頼盛殿活躍中!


やー、頼盛殿本領発揮ですね!
そう、こう云う頼盛殿ですよ! 性格悪かったりなんだり、やっちゃえやっちゃえ!
書いててすっごい楽しかった! まァ、重盛が駄目(怖い)ってのが大きいんですけどね、でも楽しかったよ!
あ、そうそう、作中で“八条院”とか云ってますが、ホントはこの時期まだ院号宣下されてないので、翮子(この字だっけ?)内親王だか法内親王(“法親王”って云い方はあるけど、“法内親王”って云うんだろうか……)のはず。院号宣下は1161年12月らしいです。
って云うか、天皇の准母って、何て呼ばれてたんでしょうね……上西門院の場合は“大宮様”だったけど、八条院もそうだったんでしょうか……


そうそう、先日、金沢文庫でやってる運慶展を見て(何か、運慶の改修した東寺の仏像の中から、空海が入れたと思しき仏舎利が出てきてたそうですね……東寺の改修って、文覚上人が総指揮だったそうですが、あの人真言宗だったのか――って、神護寺はそうなんだっけ、結局、最澄は手を引いたのか?)、ついでだからと鎌倉へ行ったのですが。
鶴岡さんにご挨拶して、ふと思い立って、義時の墓を探しに行ったのです。
が。
……えーと、佐殿の墓の傍なんだよね? 行ってみたけど(佐殿の墓はスルー)、見あたらねェ。
脇の階段っぽいのを伝っていくと、ありゃ、カジキマグロ、もとい大江広元の墓に出るなァ。
この辺とか? と思いながら石段を下り(カジキマグロの墓も、するっとスルー)、参道を歩いていくと、途中の崖(?)のところにやぐらがあって、その中に墓が――えーと、これ?
いや、だけどこれ、えっらいことになってるぞ? ペットボトルとかたくさん転がってて、墓所というよりゴミ捨て場的な? 確かに卒塔婆には“義……”とか書いてあるっぽいけど、しかし、墓も多宝塔系じゃなく新しいっぽいし、違うんじゃね?
……でもなァ、カジキマグロの墓の下の空き地って、多分ここが昔の法華堂跡だと思う(大蔵御所の後ろって云うと、今の白旗神社のところよりもこっちだと思うし、周囲より2mほど高い土地、って云うのも、お堂がありそうなカンジが――それに、参道を、敢えて崖沿いに大きく迂回させてるのって、何かこの場所に憚りがあるのかなーとか……だって、三浦一族滅亡の地って、法華堂じゃん)ので、敢えてここに一般の墓はつくらんと思うんですよねー。
っつーか、もしもここがホントに法華堂跡で、佐殿の墓所跡でもある(三浦一族の墓所でもあるわけだが)とすれば――その近くに義時の墓ってのは、まァありそうなハナシではあるんだけどね。
っつーか、もしそうなら、義時、どんだけ佐殿のこと好きだったの、と思わずにはいられないのですが。
しかし、あのゴミの山……もしも義時の墓だとしたら、含むところは死ぬほどあるけど、哀れだよなァ……<追記ここから>とか思ってたら、怪情報で、義時の墓は、カジキマグロの墓の東側の山腹に、藪に埋もれてあるらしいと云うお話が(その辺に葬れと大ゴネしたらしいと云う噂)。冬場の下草の枯れてる時期じゃないとみつからないらしいです。でもって、その近くに、何故か“よしときさん”(←ひらがな表記)というやぐらがあるとか云う話も……いつからかはわからないけれど、むかしから“よしときさん”と呼ばれてるのだそうな。
で、どっかにそう云う記事ないかなー、と思ってぐぐってみたら、“鎌倉 よしときさん”で引っかかったブログがあった! ……が、ちょっと待って、このブログだと、“よしときさん”の横にもうひとつ(空の)やぐらがあるとか書いてあるぞ。じゃあ、麓の方のあのやぐら(+墓標)は何だ?
……ここで考えられるのは、もともとは“よしときさん”かその隣りのやぐらに実際に義時が葬られていたのを、カジキマグロの墓を整備するあたりか何かに麓のやぐら(例のゴミ溜め)に移し、元のところは名前だけ“よしときさん”として残された、と。だって、江戸初期までは結構墓碑って多宝塔形式が多い(松島・天麟院の伊達宗泰の墓とか)のに、あのゴミ溜めのなかの墓は現在のものに近い形をしてましたからね。あれは江戸中期以降だと思うんですよ(中期、ってのは典拠はないんですが――会津のかっちゃんの墓は、既に現行の形態だしな)。カジキマグロの墓は、大名家の先祖なので、会津の歴代藩主廟と同形式にしてあるんじゃないかと。
ってことは、改葬された可能性が高いとは云え、やっぱあのゴミ溜めやぐらは義時の……?
そう云えば、カジキマグロは法名“覚阿”でしたっけね。毛利家が安政五年に立てた燈篭に、名前が刻んでありましたよ……


あ、そうそう、『半色』は、次の八章目で完結します。もう下書き上がってるもん、今度はマジです。
これが終わったら、多分カジキマグロ=広元の話を書くかな……そのあとが佐殿sideの話になるかと思われます。
政子の話も書きたいのがあるので、まだまだ鎌倉。
ま、空海とかも入りますけどね(笑)。
宜しくお付き合い下さいませ。


この項終了。
次は、小休止前(結局、川口行かなきゃかも……)の四郎たんの話で〜。