高野山灌頂記。 其の一

ってわけで、行ってきました高野山
お暇と興味がおありの方は、続きをどうぞ〜。



唐突に、高野山
や、このところすっごいくさくさしてた(ええ、仕事の相方の件で)のと、海辺の舞踏会の参加を見送った(だって、春がなかったから、職場内の競争率が……!)のと、あと厚生休暇があったのに入れてなかったから、じゃあ四、五、六日とまとめて休みをもらって、高野山胎蔵界結縁灌頂に行ってくるか! と云う。



えー、三日の夜、舞踏会に参加された倉敷在住姉妹様+沖田番で中野の旨飯屋でたらふく食った(15%offで¥5,000-overって、久しぶり……)後、11:15西新宿発の夜行バスで奈良へ(←え)。バス停の場所間違えたり、運転手さんに嘘の情報を教えられたりしてばたばたしつつも、何とか滑り込みセーフ。
夜行バスは慣れてるので、少なくとも最初の4時間ぐらいは爆睡出来ます。後は、運転手さんの交代時なんかに途切れ途切れに目が醒めるんですが……
東名高速が渋滞で、中央道に迂回したため、JR奈良駅到着は、定刻の30分遅れの7:00ごろ。
駅でかるく顔を洗い、荷物をコインロッカーに入れて、モスで朝飯(きんぴらライスバーガー+ホットゆず)の後、いざ出発!



とりあえずは、(近いところで)興福寺から。
興福寺の南円堂は、空海のアドバイス藤原内麻呂(冬嗣のパパ)が建てたそうですが――とあるサイトさんで“(冬嗣と)空海とのメモリアル”的なことが書いてあり、「そうだっけ?」とか思いながら見にきたのです。
御本尊は不空羂索観音だそうですが、お参りは出来たけど、御本尊は拝見できず。
ちぇーと思いながら、公開中らしき北円堂へ――しかし、こちらも開扉はまだ。
金堂も開いてますが、拝観料いるし、後でいいや(国宝館が開いたら前後して入ろうかなーと云う←考えが甘い)、とか思って、猿沢の池を通って、元興寺へ。



元興寺は、泰範がかつて修業した(っつーか籍を置いてた)お寺ですね。
しかし、9時前なので、こちらも閉まってる……
仕方がない、東大寺大仏殿は早かったはず、とか思って、東大寺方面へてくてく歩く。
や、東大寺ももちろん今回の目的のひとつです。だって、困った阿闍梨別当だったり、聖武天皇を祀る(?)“天皇殿”とか云うのがあるそうなので。
聖武天皇の祥月命日は五月二日で、それに合わせて二日三日と、東大寺内と陵墓とで供養があったようなのですが、行ったの四日だからね……



えーと、まずは東大寺内の真言院へ。
ここは、阿闍梨別当になった時に、東大寺密教化を図るために建てた真言道場だと云うことなのですが。
えーと、真言院の半分くらいが勘学院と云うのになってまして、どうも平日とかは、一般向けの仏教講座とかもやってるらしい。
が、特に公開されてるわけでもないのか、それとも祝日(なんだよねェ)だからなのか、立ち入りはできないっぽい感じ。
中を伺いつつも、とりあえず門のあたりをうろうろだけして、大仏殿へ。
流石は大仏様、割と早い時間であるにもかかわらず、結構なにぎわいです。
何となく、伽藍が全体に小さくなったような気がするのは、私が最後にここに来たのが中3の時だったからか? いや、でも、中3から身長とか伸びてないはずなんだけど……うーむ。
ぐるぐるっと回り、“ここで毎朝理趣経が読まれてるのかァ”(←そこ?)とか感慨に耽りつつ、大仏殿を出る。
次は二月堂。



二月堂は、例のお水取りの時に、大松明がばっさばっさと振られる、あそこですね。うむ、確かに階段の上。
何と云うこともなく(←え)お参りして、途中のお茶屋でぜんざい、とか思いつつ、うっかり別の下り口から下りる――オイ。
でもって、また何となく法華堂=三月堂へ。
ところがどっこい、これが改修中と云うか、仏像が改修中で、何体かは見れるけど、肝心の不空羂索観音が工房にいっちゃってるだと……! 今回、不空羂索観音には縁がないのだな……
えー、弁財天と梵天帝釈天、日天・月天は見れましたが、後はみんな工房行きだそうで、みれませんでした……しくしく(泣)。
微妙に寂しくなりながら、行基堂→講堂跡→正倉院(柵の外から)と見て、じゃあ、と戒壇院へ。



戒壇院は、面倒な阿闍梨とか最澄とかが具足戒とか受けたと云う場所です(そう云やァ、阿闍梨具足戒授けたのって、元興寺の泰信と云う坊さんだとか――この人って、泰範と相弟子だったりするのかな?)。
えーと、もちろんたびたび戦火で焼かれた東大寺のことですから、戒壇院も比較的新しい(っても、近世に入るかどうかぐらいだとは思いますが)建物です。
えーと、中に多宝塔があって、鑑真がもたらしたと云う釈迦如来弥勒菩薩の二像の複製(?)が安置されており。その周りに四天王とかが配されてるようなカンジ。
しかし、多宝塔って――この形式って、確か困った阿闍梨が考え付いた建築様式らしいのですが……やっぱ結構密教入ってるんだなァ、東大寺。そう云えば三月堂とかでも、各仏像の説明書きの横に、各尊の真言が書かれてたもんなァ。華厳では、厳密には真言陀羅尼とか関係ないと思うので、やっぱこれって阿闍梨の影響なのかなァと思いました。



でもって、たらっと歩いて、再び真言院の前に。
一応写真を撮り(しかし、“華厳宗 真言院”って札がかかってましたが、やっぱ何かオカしい……)、天皇殿が屋根だけでも見えないかなーと、東大寺本坊(旧東南院)のまわりをぐるっと歩く。が、屋根の端っこすら見えやしねェ。
沖田番と後で話をしてたら、「聖武天皇もプライド高そうですからねェ、“阿闍梨の旅のついでに見ようとなんかするな!!”とかそう云うカンジなんじゃねェですかい」と云うコメントをくれました。まァ、否定はできんな。でもって、阿闍梨も“よそ見するな!!”とか云うんだよね。面倒くせェ連中だ。
ところで、後日古本市で『東大寺事典』(東京堂出版)をちら見してたら、真言院の人間は、東大寺の通常のお勤めには係わらなくてもよかった的なことが書いてあったんですが――本当なのかな? 本当だとしたら、どんだけ重んじられてたのか密教、って云うか、どんだけ最澄が怖かったの華厳宗、ってカンジがして、可笑しいと云うか何と云うか。だって一応“華厳宗 真言院”なのに!
何かこう、仏教界もいろいろあるんですねェ……



12:00になったので、屋台でたこ焼きを食い(蕎麦屋があったけど、見つけた時には開いてなく、開いた時間には、もう遠かった)、托鉢の坊さん(密教系だった)に御布施して、たらっと興福寺へ戻る。
お昼の沖田番とTelしながらですが、行ってみたら、国宝館は入場規制で、60分待ちだって……! TDLのアトラクションかよ!!!
まァ、阿修羅とかはこないだ国立博物館で見たから良いや、とか云って、南円堂前をたらっと通過し、元興寺へ。
たいは〜ん、とか云いながら行った元興寺は、何と真言律のお寺でした――え、あれ、昔律宗だったとか云う? えろえろ泰範が、律宗の坊主? (ホントは三論宗のお寺だった模様――あれ、法相宗も?)
いや、しかし、『日本系図総覧』(講談社学術文庫)とか見たら、元興寺の名がある系譜は三論宗でしたが。しかし、今回の資料館の展示は、浄土思想的な絵巻のアレコレだったので、三論宗or法相宗の後に浄土系だったことがあったのかな? でもって、そののちに真言律? ……どうも、寺の変遷ってのはようわからん。
本堂にはちゃんと両界曼荼羅がかけてありましたが、“真言律”であるにも関わらず、困った阿闍梨の像はございませんでした。金沢八景称名寺もそうですが、真言律ってのは、あんまり「阿闍梨、神!!」じゃないんだろうか……
あ、資料館にはありましたよ。うん、ちゃんと阿闍梨でした。っつーか、何かこう、阿闍梨の顔って一定のパターンがあるよね……肖像の伝わってる高僧の中では、わりかしイケメン風味(あくまでも“割と”ですが)なんじゃないかと思うんですが。どうでしょうか。
ともかくも、寺域内をたらっとして(元興寺は、昔の寺域の1/6くらいの面積しかなくなってるっぽいですね……)泰範のころを偲ぶような偲ばないような感じで、元興寺を後に。



昼飯食べてから移動するか、と思いつつも、イマイチ良さげなお店が見当たらず。
たらたらとJR奈良駅に戻り、荷物を引きだしてホームへ。最悪駅弁とか?
しかし、それもイマイチそそらねェ。仕方なく、キオスクでおにぎりをひとつ買い、電車待ちの間に食す。(っつーか、どうも独り旅だと、飯のタイミングとか逃すことおおいよな……)
13時過ぎの大和路快速新今宮へ、そこから南海電鉄特急こうやで参ります。南海は人生初だ! (や、過去大阪に住んでたことがあるのですが、子どもだった上に、地下鉄&阪急でこと足りてたのでね……)
地元の某私鉄帝国にも特急はありますが、こないだ秩父まで行く時も鈍行だったので、何か贅沢してる気分でいっぱいに。まァ、旅先だもん、いいよね!



しかし、南海の車窓から見た大阪の街は――大阪でした。
いや、私が昔住んでたのは所謂ニュータウンだったので、ホントの“大阪”とは若干違ったんだよねー、とね……
それが段々南下して、和歌山に入ると、普通の田舎の田園風景になってゆくのですが――橋本駅を越えたあたりから、田園じゃなくて原生林っぽい植生になってきます。これはホントに山の中だ。しかも、その山の中の駅(極楽橋)から、更にケーブルカーで上るんだよ! どんだけ!
えー、極楽橋から高野山までは、ケーブルカーでほぼ5分でした。駅前はやっぱり山の中なんだけど、連休中だからか、バスが多い! みんな“奥の院”行きだ。
ホントは歩いて大門くぐりたいなーとか思ってたのですが、高野山駅⇔大門が3kmとかあるのを見て、あっさり挫折。バスに乗り込みます。(荷物がこれほど重くなかったらね……)
女人堂前とかを抜けて、奥の院へ抜けるルートですね。
そして、女人堂前から先は、山の中とは思えないほど、ふっつーに町でした……何かさァ……(いや、永坂嘉光の写真みたいなことはないって、頭ではわかってたんだけどね……)



今回お世話になる宿坊は、奥の院にほど近い恵光院。バス停は刈萱堂前下車ですね。
バスを下りてさくさく歩き、数分で恵光院です。
恵光院にお世話になることになったのは、特に希望を出したわけではなく、宿坊協会のひとにチョイスしてもらった感じだったのですが。
うん、流石は協会のひと、初心者にいい宿坊を紹介して下さいました。
恵光院は、清浄心院とか成就院とか金剛三昧院とかみたいな歴史上のアレコレは薄いっぽいのですが、あまり肩肘張ったカンジの構えでもなく、規模も大き過ぎず小さ過ぎずで、非常に入りやすいカンジ。
宿坊のチェックインは15:00〜17:00(厳守)なので、まずはチェックインだけしてしまいます。
チェックインすると、お坊さんが荷物を持って、部屋まで案内してくれます――お、重い荷物なのに、すみません……(汗)
今回はとにかく安く! だったので、部屋は襖仕切り(つまり鍵がかからない)の6畳間で。でも、もちろん部屋には貴重品入れの金庫もありますので、まァまァ、そんなにどうってこともないですよ。私の泊ったのは離れの一階の部屋。お隣りは、もう何回も宿坊に泊まってるらしき女子(独り)。
他の部屋は、家族連れとかいるっぽいですが、まァそんなに気にならないかな。



部屋に落ち着くと、お坊さんが、


結縁灌頂受けられるんでしたら、今日のうちに整理券を貰っておくと、明日一番に入れてもらえたりしますよ」


と云う裏技を教えて下さる。
よぅし、それなら行かねばなるまい、と、夕食(17:30〜)まで間があるのをいいことに、壇上伽藍へGO。もちろん歩き。



壇上伽藍は、恵光院から西へ1.5kmほど行ったところにある、高野山の中心となるところです。困った阿闍梨が最初に建てた“金剛峯寺”のあったところ、と云うか。
有名な丹塗りの根本大塔とかがあるところ。
結縁灌頂は、壇上伽藍の金堂で行われているらしいのですが、行ってみると、この日の受付はもう終了したらしい……


「明日は朝の8:00〜やってますので」


と云われて、がっくりしながら撤収、するだけだと悔しいので、壇上伽藍の中をぐるっと散策。
まずは四社明神にお参り。いや、多分高野山の地主神ってここだよね、って云う――最近、神様のテリトリー意識に敏感になってきてるんで。
そこから西塔(根本大塔が金剛界で、こっちが胎蔵界を象徴していると云う話だったような)、孔雀堂、准胝堂、愛染堂、不動堂とまわり、大会堂、三昧堂ときて、西行桜をぱちりと写す。
で、東塔の次は智泉(阿闍梨の姉の息子で、十大弟子のひとり)の廟! とか思ったら、建物は見えるのに行く道がない……
よもや、と思って、一旦伽藍の外に出て、車道を歩いて行くと、細い道が――これだ!
実は夜の闇の彼方に智泉が来てまして、頭は良いんだけどお馬鹿さんなカンジ(もっと警戒しましょう)だったので、思わず(ある意味本人の御墓ですが)“智泉がもっと賢くなりますように”ってお参りしてしまった……(汗) でもだって! 開腹手術した翌日に「おなかが減った……」とか云って飯をせびるのはどうかと思うんですけども! 駄目って云うと「断食行ですか」って情けない顔をするのもね……智泉(ホンモノ)がいるのならば、あの子をどうにかしてあげて下さい、ってマジに思いますわ……



でもって、17時くらいになってきたので、恵光院に戻ります。
ほぼぴったり17:30〜晩御飯。各部屋に、お坊さんがお膳を運んできてくれるのです。もちろん精進。
ごま豆腐に精進揚げ、高野豆腐と野菜の煮たの、蕎麦、お吸い物とご飯。デザートは苺です。
多分食事のマナーとかいろいろあるんだろうけど、禅宗ほど厳密じゃないと思う(禅宗では、食事中に一切音を立ててはいけません――って、沢庵出るんだけど、アレ音出さずに食べるの無理じゃね?)のですが、まァまァ、それなりに気をつけて食します。ご飯はお櫃で来るのですが、結構多い……うっかりおかわり2回したので、終わったら腹が破裂しそうになりました。
ややあってお膳を下げに来てくれるのですが、その時に一緒に布団も敷いてくれる――至れり尽くせりです。



さて、本日のメインイベント(?)、夜の奥の院参拝!
や、実はこれ、恵光院でやってる企画でして、奥の院ガイドの資格を持ったお坊さんが、奥の院までのほぼ2kmを、いろいろ解説しながら連れてってくれると云うもの。もちろん燈籠堂には入れません(燈籠堂の開扉時間は6:00〜17:30)。が、廟の前には行けるそうなので、ちょっとわくわくしながら申し込みます(要予約、¥1,500-、他の宿坊に宿泊でも可)。
夕食後、19:15に、山門前に集合。揃ったらおもむろにスタートです。
コースは普通に一の橋→中の橋→御廟の橋で御廟前なのですが。
何故かこの日、一の橋→中の橋間の電燈が落ちており。しかも燈籠も幾つか消えてた上に、ガイドのお坊さんの持ってた懐中電灯も異様に暗く(←三日前に電池換えたとか云ってたのに……)。
まァ、電燈の消えてた区間は道が平坦だったので良かったのですが、これが覚鑁坂(密厳堂の前あたりの坂。この辺で転ぶと3年以内に死ぬとか云う噂)あたりだったらやだったなァ……
しかし、やっぱ夜の墓場はちょっと雰囲気違いますね――特に奥の院あたりは古い墓石が多いからか、どうもホントに何か出そうな雰囲気……普通の墓石だけじゃなく、お地蔵さんやら修業阿闍梨の像やらがちょこちょこあるのですが、うちのひとつが何か人の気配っぽいのを放っていて、一瞬誰かいるのかと思ってびくっとしてみたりとか、いろいろありましたです。



暗かったり何だり、の割にはさくさくと進み(法然上人の供養塔とかあって面白かった)、御廟の前へ。
確か21時くらいだったはずですが、御廟の前には、中国人(? 多分)のお坊さんと話してるお坊さんとか、お百度参りしている女性とか、それなりに人がいましたです。
皆様が敬虔にお参りしてる最中、頭すら下げてなかったのは内緒の話。だって阿闍梨だもん、下げられねェ!
何て云うか、あそこにあるのは、今も入定してる阿闍梨ではなく、それを信じて祈るひとたちの気持ちなんだろうなァと思いました。いや、絶対阿闍梨、さっさと次の世行ってるって。あんまりその時の生その時の生に拘泥してないような気がしますもん。だから「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始まりに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに昏し」なんだと思うんですがね。



えー、御供所の前あたりで解散、さくさくと帰る。
お風呂が22時までなので、さっさと入って部屋に戻り、沖田番とちらっと電話。
でもって、23時には撃沈致しました――やっぱ(当然だけど)疲れてたんだわ……


† † † † †


1日目はこれにて終了。
2日目に続きます。