高野山灌頂記。 其の三

ってわけで、高野山最終日。
お暇と興味がおありの方は、続きをどうぞ〜。



最終日の朝も6時ごろにスタート。
平日で人が少ない(っても、20人はお泊りでしたが)ので、朝の騒音もやや静め。
勤行も昨日と同様――しかし、ガン見してたら、やっぱり本堂での勤行も、読経の前に袈裟の下で印を結んでる様子。そうか、大衣(←九条以上の袈裟のこと。っても、昔々は袈裟全般を“大衣”と云ってたんじゃないかと思うんですけどね。今みたいな簡略な袈裟とかなかったっぽいし、“三衣一鉢”のみが僧侶の財産ってことだったようなので)じゃなくても、ああやって隠しつつ印を結ぶんだな。
生理趣に相変わらず浮き浮きしてましたが、実は、この時間帯、奥の院では例の生身供が行われている最中で、なお且つ、朝の勤行もやってるらしい――昨日、お膳を下げに来たお坊さんに「明日こそ生身供!」とか云ったら、「奥の院でも朝の勤行やってますよ」と云われたのですが――流石にね、朝の6:30に奥の院ってことは、6:00には恵光院を出てなきゃ間に合わないんで(片道2kmって考えるとね……)。
それにまァ、いろいろ考えると、やっぱ朝イチは泊ってるとこの勤行が良いかなァとか思ったりとか――しかし、次の機会があったら、奥の院の朝の勤行に行ってるかも知れませんが。
そして、本日の護摩焚きは、何故か火が落ちるのが早かったですよ……



朝食(昨日と同じメニュー)の後、ちょっとまったりして、9時にチェックアウト(チェックアウトは〜10:00)。
荷物を預かって戴いて、まったりと奥の院へ――ですから生身供です!
それと、実は写経もしてた(恵光院の写経はゆるく、用紙と筆ペンと下敷きを渡されて、「開いてる時間で適当に」って云われるのですよ)のですが、それの奉納先が奥の院なので(既にそう印刷されてるわけですよ、なぞり書き用として)、ついでに自分で奉納してくるか、と云う。
昨日からイマイチ調子が上がらない(ま、血の気が足りてないからな)ので、ごくゆっくりと歩いて参ります。昨日、墓所はいろいろお参りしたので、ざっくりと見ながらの道筋です。
9:40くらいには奥の院に到着、まずは燈籠堂へ。
かるくお参りして、受付のお坊さんに「写経を奉納したいんですけど……」と云うと、「焚き上げるか、¥1,000-で朽ちるまで保管しておくこともできますよ」と云われる――いやいやいや、こんなもんが朽ちるまで残ってるのは勘弁、って云うか、結構紙って朽ちないぞ? しかも最近の紙って質が良いから、下手したら昔のよりも残っちゃうぞ? って思うと、「焚き上げでお願いします……」ってなるよね、そんな羞恥プレイ御免被りますわ。
「じゃあ、そちらに収めておいて下さい」と、トレイ的なところを示される。ので、大人しくそこに投入。おお、他の方も奉納してるわ。うむ、こんな用紙ばっかじゃないのだな。
とりあえず、たらっとまわって御廟前でちょっとまたりとし、また燈籠堂へ戻る。



燈籠堂の中では、維那さんが理趣経を読誦してたので、端っこでじっと聞いてみる。
おお、維那さんの読み方って、CDとか恵光院のお坊さんの読み方とかと違ってるなァ。ふんふん、こう云う読み方もありなんだ。
しかし、維那さんの前、窓が開いてるような感じに見えるのは、あれはJust窓(ガラスが嵌めてある)で、奥に見えるのは御廟なのね(確かに夜は閉まってた)。なるほど、ホントにここは、御廟をお祀りするための堂宇なんだなァ、とか思いながら、理趣経を最後まで聞きました。
右手奥の護摩壇では、若いお坊さんが護摩を焚いてた――えらい炎が上がってたが、あれはあれでいいんだろうか……
ところで、納経用のトレイ的なアレ、お参りに来た人たちが覗いていくんですが――私が納めた後には誰も入れておらず、少々晒しもの的なカンジでアレでした……
そう云えば、今回は“消えずの灯火”は消えませんでしたね――良かった良かった(←宮島の弥山の“消えずの霊火”が、行ってみたら消えてたということが)。



でもって、そろそろ10:30になるし、と、御供所の前へ。
すると、嘗試地蔵(生身供の料理を味見する役目の地蔵尊)の前に、台が据え付けられる――おお、いよいよですね。
長持っぽい白木の箱が台の上に置かれ、維那さんがその前で嘗試地蔵に簡単に読経。の後、お供のお坊さんが長持に柄をとおして担ぎ上げ、いざ御廟へ。
何かこう、面白いのは、御廟の橋を渡る時や階段を上がる時は、長持を横にして行くのですね。あと、左側通行だ――仏教では時計周りが大事、とどこかに書いてありましたが、なるほど、左側を通ってぐるっと回ると、ちょうど時計回りに御供所→御廟間を往復できるわけですね。関西は(エスカレーターとか)右側通行が多かったので、何かちょっと新鮮でした。関東は左側通行だもんね、武士が刀差してたからねー。
あ、当然ですが、御廟までついていったりはせず、普通に橋のたもとあたりで見送っただけですよ。次の機会があったら、御廟の前あたりでヲチしたいですが。



お見送り後、御供所のところでまたも銀指輪をGET。や、沖田番に云ったら欲しいと云われたので。
で、どうも調子が上がらないので、休憩所の外のベンチで休み、ゆるゆると奥の院を後に。
あ、ちゃんと嵯峨天皇陵にはお別れの御挨拶を。や、しないと絶対(以下略)だもん。
ゆるゆるゆるゆる戻ります。



ホントは壇上伽藍に行って、四社明神にお世話になりましたの御挨拶をと思っていたのですが、調子が上がらないのでさくさく歩けず、お参りしてたら電車乗り損ないそうだったので、伽藍の入口あたりから遙拝。わかって!
でもって、恵光院に戻りがてら、途中の酒屋さんで、親父向けに「爪剥の酒」(←阿闍梨の母親が、息子のためを思って爪で向いた米? かなにかで甘酒を作った、と云う話から)、沖田番向けにその名もズバリ「般若湯」を、それぞれGET。
家向けには、他に麩焼きの“五智”と高野湯葉、徳用吉野葛(←しかし葛100%ではなかった……)を、職場用にはやはり麩焼きの“三宝(仏法僧)”を、それぞれ買って、帰るかァと思ったら、昨日一昨日と閉まってたお店のシャッターが開いてる――あれ、ここってお経とか売ってるお坊さん向けのお店(松本日進堂と云うお店)なんだ。
そろりと入ってみると、いろんな経典に混じって『理趣経』が!! うは、般若心経でも買うか、とか思ってたけど、理趣があるなら話は別だ!
そっと理趣経を手に、お店の人に声をかける。いくらかなーとどきどきしたのですが、え、¥315-? 安!
と云うわけで、念願の(ちゃんとした)理趣経GET! 自分土産はこれだ!
ちなみに『大般若経理趣分』とやら(つまり、玄奘三蔵が天竺から持ってきた大般若経の“理趣”部分)が別にあったのですが――どうも、経本の厚みが違うので、字句もかなり違うものと思われ。次来た時にはこっちもGETだ! と後日誓いましたです。



恵光院に戻り、荷物を回収。
お坊さんに「またどうぞ〜。夏は避暑にいいですよ」と云われ、「あ、寒い時期に来てみたいです」と云うと、「寒い時期もいいですよ、人があまりいないんで、至れり尽くせりですし」(←って、あれ以上の至れり尽くせりってどんな!!)と云うお言葉が……
いいですね、また来たいです。お礼を云って、恵光院を後に。
刈萱堂前のバス停からバスで高野山駅へ。極楽橋まで下りて、そこから特急こうやだったのですが――
やはりこうやに乗り込んだお坊さんが! マオカラーのスーツ(黒)に、ヴィトンだかYSLだかのモノグラムのキャリーバッグ&ブリーフケースを持ってこうやに、って、何かこう、関西系坊主だ!! ちょっと、せめてそのコテコテなカンジのバッグのチョイスをどうにか(PORTERとか、せめて黒革系のかっちりビジネスユースとか)してくれたら、萌えなくもない容姿のお坊さんだったのに……! ちょっとがっくりでした。
新大阪の新幹線のホームで、臨済宗? 禅宗のお坊さんの集団に遭遇しましたが――こっちは、普通の法衣に青系の小五条(だよね、あれは)の袈裟、で、風呂敷包みを抱えて歩いてたので、何となく癒されましたです。やっぱ坊主はああじゃないと……! (↑嘘。臨済は海老茶っぽいような赤系、青は曹洞宗だ)
でもって、新幹線の指定は特に希望なしでやったらA席(=南の窓側の席)だったのですが。陽は当たるし、何でだ! と思ったら、京都駅で訳がわかった。東寺が見えるのは南側なのですね! 最後まで阿闍梨がらみの旅行でございました。



次は、秋の金剛界結縁灌頂かな?


† † † † †


あ、前項を読んだ沖田番から「まだ年単位で先の話でしょうが」と呆れられてしまいました――でも、すっごい先の話、ってわけでもないんだよ、考えちゃうさ!
何かこう思うのですが、多分沖田番をなくした後の私は、うまくして伊達の殿程度、悪くするとハドリアヌス帝くらいの気難しさになるんじゃないかと。っつーか、『ローマ人の物語』のハドリアヌスのとこ読んで、アイタタタタなカンジになっちゃったので、真剣マジ気をつけようと思いました。せめて全盛期のハドリアヌスくらいにしとかないと、いろいろやヴぁいわ……轍は踏むな、ですよ、ホントにな……



しかし、高野山に行って帰ってきたら、ちょうどTVで断捨離のひとが出てて(あれ、元は高野山の宿坊で思いついたらしいですね)、案の定「お前も断捨離しろ」とか云われたのですが。
実際に執着のある本と“がらくた”を全部捨てたらどうなるか、と脳内シュミレーションしてみたところ――今ここで生き続ける理由も断捨離されちゃいました、はは。
どうも、親には昔から、根なし草っぽいところがあると云われてたのですが、ははは、本とがらくたしか人生の重石がないとはこれいかに。本を処分したら、間違いなく出家・出世間して、どっかで適当に野垂れ死にしますね。沖田番はついてくるからアレとして、親兄弟にも家にも他の友人にも仕事にも、そこまでのしがらみは感じてないようだ。やヴぁいやヴぁい。
まァ、いざとなったら、出家・出世間するのは非常に簡単なんだな、と思ったので、最後の切札としておいとくとします。まァ、そもそも、死に際は富士樹海かチベット行きの途中の岩砂漠で野垂れ死に、が理想だからな。やれるやれる。
しかし、生物学的に女であると云うのは、やっぱ若干の障害ではありますね。男に生まれてれば手間がひとつ省けたのだが……



ところで。
全然関係なく、夜の闇の彼方の坊主の話なのですが。
真言宗の坊主で、どうも阿闍梨の(一応)直弟子の“ちしょう”と云うのと“しんえい”乃至は“しんねい”(どちらも字面不明)と云うのが来ているのですが。
“しんえい/しんねい”は知りませんが、“ちしょう”の方は、智泉が死ぬちょい前に阿闍梨のとこの僧伽にはいった子らしいです。ちょっとイケメンで(それを云うなら智泉も整ってる方だけど)賢そう&落ち着いたカンジの青年僧なのですが、阿闍梨の話をはじめると、ご多分に漏れず“阿闍梨、神! 神!!”なので、どうしようと云うカンジでいっぱいに。まァそれは“しんえい/しんねい”も同じなのですけども(苦笑)。
しかしまァ、ホントに“ちしょう”とか“しんえい/しんねい”とか云う名前の弟子がいたりしたんでしょうか――『弘法大師伝全集』と云う本の中に「弘法大師弟子譜」と云うのが収められてるそうなのですが、それには、阿闍梨の弟子が70人ほど載ってるそうなので、こんどちょっと見に行こうかな、と――ええ、国会図書館まで。
しかし、この「弟子譜」、江戸後期成立だそうなので、どこまでちゃんとしてるか謎なのですが……まァ、ないよりはあった方が、ね。
ふふふ、ホントに載ってたら、笑うよね……


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高野山灌頂記はこれにて終了。
次は、鎌倉、カジキマグロと佐殿の、女子向けなあれやこれや、で。