出家すると云うこと。

何かこう、もやっと、もやっとしたので、ちょっと戯言。
愚痴みたいなものなので、アレなら読まずにするっとスルーでお願い致したく。


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えーと、坊主萌え(←実はそうだったっぽい)を満たすべく、ただ今当店ひっそり開催中の坊主コミックフェアで『坊主Days』1、2巻(杜康潤 新書館)をGet(他の坊主はちょっとね……)して、思っちゃったこと。


……私、やっぱり寺つき坊主って萌えないわ。


いや、多分夜の闇の彼方で、奈良〜戦国期の坊主どもとアレコレやりとりしてるせいもあるとは思うんですが、何かね……住職である坊主、っつーか、それ以前に今現在教団に属してる坊主に萌えない、っつーか、“それって出家者なのか?”って云う疑問がね……
だってさァ、確かに今現在のお坊さんのやってることは偉いとは思いますよ? 檀家さんの相談に乗ったりとか、葬儀やら法事やら寺の維持やら、いろいろあって大変そうだなーとは思いますよ?
でもさ、何て云うか、戦国以前の坊主とは違うんだよね、何か、“利他”の範囲が狭いっつーか、そもそも今の坊主って、“坊主”って云う職業だろ? それって家も世間も出てないじゃん、って云うのがね……



大体さ、得度とかに教団の認可が必要って、それって俗世間から、“教団”って云う別の世間に移行しただけじゃん、って思うんですが。
もちろん、昔の坊主にだって、“僧伽”って云う“世間”はあったけど、でも一応僧伽は女人禁制だった(まァ、後半は建前上ですが)し、私財を持つのも制限されてた(こっちも建前上ね)し、何より子孫は残せなかった(まァ、絶対にいなかったとは云い切れないけど、建前上は)わけだから、俗世間の人間とはちっとは違ってたわけですよ。
大体、昔の坊主は“得度”ってったら“官度”なわけで、つまり自動的に国家公務員だったわけですから、いろいろ特典がある(税の免除とか、給与の支給とか)の代わりに制限も多かったわけですが――今の坊主って、そう云う意味では制限少ないよね? でもそれで、ホントに仏の教えなんか説けるのか?



って思うのは、そもそも仏教が、っつーか釈尊が、家も家族も何もかも捨てて、山林行者になって行に励み、悟りをひらいた、っていうのがあるからなんですが。
今どきの坊主は、家も家族も捨てずに“出家”するわけですが、それでホントに仏の教えなんか説けるのかよ? それで(特に禅宗とか念仏系とか)ホントに悟れると思ってるのか? って思うんですよね。



いや、確かに今の教団仏教でも、現世の苦しみの幾分かを和らげる知恵は持ってるのかも知れませんが、しかしながら、本来の悟り=涅槃(ニルヴァーナ)ってのは、パーリ語仏典にもあるように「二度と女の腹から生まれてこない」と云うことであるならば、禅問答とかで言葉をひねくりまわしたり、ただ念仏唱えてたって、その境地にはいきつかないと思うんですが。
そう云う意味では、(本人のことはすっげ胡散くっせーとは思うのですが)桐.山.靖.雄氏の『密教入門』(角川選書――しかしこの本も、八割方は胡散臭い)の“鎌倉新仏教のやりかたじゃあ悟りはひらけない”はそのとおりだと思っちゃいます。
いやまァ、悟りをひらかなくていいんならそれでも構わないんでしょうし、所謂“葬式仏教”だって大事! と云うのは、まァ大衆に流布する宗教としては確かにその通りなのかも知れませんが、しかし、何かこう、本願から遠ざかってないか? って気はどうしてもしちゃうのですよ。



そう云う意味では、奈良〜戦国期の坊主ってのは、すくなくとも利他行に邁進してる感じはする(災害や戦争があれば、皆わりとこぞって現地に出向いて、罹災者を助けたり、死者の埋葬したりとかしてるし)のですよね。何かこう、利他を叩きこまれてるカンジがすると云うか。
それでも、やっぱり僧伽の中にいるって云うと、ちょっと釈尊がそうであったような意味での求法のひととは云い難いところはあるんですけども、しかし、己の身を投げ出して顧みないところ(や、自分が倒れたら人助けはできないわけだから、自分のこともしっかり管理しろ? とは思いますけどね?)なんかは、凄いなァ、流石だなァ、と思うんですよ。
で、そう云う意味では、今の教団系坊主は、ちょっと弱いカンジはする――それって結局、家族とか寺とか檀家とか、守るものがあるからだよね、と思わずにはいられないわけです。子は障害(=ラーフラ)って、釈尊命名はそのとおりだと思いますよ!



あああ、話が散漫になってきた……
とりあえずね、ホントに“出家”したかったら、今の世の中、教団のもとでの得度なんかせずに、世間にあって“私度僧”(いや、“官度”がないんだから、“私度”も何もあったもんじゃありませんが)にでもなってた方が正しいのではないかと。
アレだ、それこそスッタニパータじゃないけど「犀の角のようにただひとり歩め」ですよ。
駄目な阿闍梨が大学出奔後にそうであったように、勝手に“僧侶”であると考えて、その規範に沿って生きていったらいいのだ。それが多分、今一番純粋に“出家”する方法だと思います。
最澄みたいに、一度正式な“得度”をして、その度牒を持ったまま山林に入る(←つまり、給料は官から得ていたわけ)ってずるっこもありますが、ここはやはり、私度僧になった方が純粋っぽいよね。貫くのは難しいと思うけど。
とりあえず、私が人生の最後に出家・出世間する時には、教団の“得度”ではなく、私度して出家致しますわよ……


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しかし、『坊主Days』読んで、とりあえず参考になったって云うか、「ああ、そこまで……」と思ったこと。
大般若波羅蜜多経」の転読の時、僧堂の老師が読むのが「理趣分」で、その時に袖の中で秘伝の印を結ぶ、とあった件。
「理趣」と「印」って、それって密教じゃねェか! 臨済でもやっぱ密教入ってるんだ、と、そればかりは感心したと云うか、ほへ〜と思ったと云うか。
すごいね、密教、じわっと他宗を侵食してるんだ!



夜の闇の彼方の坊主ども、いろんな宗派の人がきてるのですが。
レアなところで、古い中国禅の系統で、俗に“北宗”と呼ばれてる宗派(廃れたので、今となっては正式名称がわからん――ちなみに、対の“南宗”のすえに、臨済とか曹洞とかがあるわけです)の行表さんと云う人に会いました。最澄の禅の師匠らしい(by『仏教宗派辞典』)。
臨済とか曹洞とかとは全然雰囲気が違いますね! まァ、鎌倉と奈良とじゃあ全然違って当然なんですけども。
しかし、W大師とか破れ=一休さんとかメジャーネームもいるわけですが――ホントに歴史上のあのひとこのひとがあんなかんじだったら、ちょっとがっかりですよね……いやだって、あの人たちおやつせびりにくるよ?
それでも“三衣一鉢”は徹底してるし、破れと明治生まれの肉食坊主以外は、基本的に魚すら食いませんがね……四足だけが禁止じゃなかったんだね……すごい。
でも、牛乳とチーズとヨーグルトとバターはOK。生き物殺してないからな。坊主の栄養が何処から出てたのか、よくわかりますよね……



さてさて、愚痴はこの辺にして、次こそルネサンスで!