神さまの左手 37

 とある朝方のことだった。
 サライが、一階の戸を開け――よくあるように、住居の一階を工房として使っている、と云うわけではもちろんないのだが――風をとおして掃除をしていると、
「……マエストロはおられるか」
 灰色の衣をまとい、頭巾を目深に被った初老の男――声の感じと、口許の皺が年齢をあらわしている――が、声をかけてきた。
「いるけど」
 と、あからさまに不審そうなまなざしを向けて、サライは相手を見返した。
「おっさん誰だよ? 修道士だろ?」
「何故わかる」
 かすかな驚きの響き。
「何でって」
 サライは、大仰に溜息をついてやった。
「おっさんのその服って、フランチェスコ会とかの修道服じゃん。おまけに、腰のところにロザリオまでくくりつけてるときたら、他の一体どんな仕事してる人間だってんだよ」
「おお、噂の“小悪魔”は、炯眼だな」
 と、男の口許が面白そうに歪められた。
「炯眼いいから、名前は何てんだよ」
「儂か。儂は、ルカ・パチョーリと云うものだ」
 男は云って、やっと頭巾をはね上げた。
 現れたのは、やや厳めしい初老の男の顔だった。だが、ただ“厳めしい”と云うには、その暗褐色の瞳には、少々質の悪い笑みが浮かべられ、どこか“悪餓鬼”の顔を残しているようにも見受けられた。
「ルカ、ルカ・パチョーリ、ねぇ……」
 頭の片隅に引っかかるものがある。
 サライは、宙を見上げてその名を繰り返しながら、ちらちらと見え隠れしている記憶の糸口を、何とか掴まえようとした。
「パチョーリ……って、あのおっさんの!」
 と叫んだサライの脳裏に浮かんだのは、先日ともにレオナルドのモデルをつとめた、フラ・バルトロメオと云う修道士。
 かれは、確か別れる前に、
 ――儂と同じ僧院にいる、ルカ・パチョーリと云う男が、幾何学の本を出すとかで、挿絵を描く画家を探しておるのだ。マエストロ、お前を推しておいても良いか?
 そう云っていた。
 その言葉の中に出てきた修道士が、目の前のこの男だと云うのか。
「フラ・バルトロメオを“おっさん”呼ばわりとは、流石“小悪魔”」
 感心したように、フラ・ルカ・パチョーリは云ったが、
「……それ、褒めてんの?」
 サライは、眉を寄せただけだった。
 何しろ、あのフラ・バルトロメオその人からしてが、修道士としてはかなり胡散臭い部類に入るのだ。その知己である修道士など、少なくともフラ・バルトロメオと同じ程度には胡散臭いに決まっている。
 そして、そんな人物からの“称賛”――まして、かなり微妙なもの云いの――など、素直に受け取れと云う方が無理な話だった。
「おや、貶しているように聞こえたかな」
「……ビミョーだなぁと思って」
「とりあえず、マエストロ・レオナルドに取り次いではもらえんのかね?」
「――ちょっと待って」
 サライは云い置いて、二階の部屋へレオナルドを起こしにいった。
 大天才様は、まだ寝床の中にいて、丸くなって眠っている。
 サライは深々と溜息をついた。
「レオ、起きなよ、こないだのおっさんの紹介だってのが来てるぜ」
「……あ?」
 寝ぼけた声で云うレオナルドを、がたがたと揺さぶる。
「だーかーらぁ、こないだの、フラ・バルトロメオっておっさん、云ってたじゃん、“数学書の絵を描く画家を探してる男がいる”って。そいつが来たんだよ! ルカ・パチョーリってんだって!」
「何!」
 流石にがばと跳ね起き、レオナルドはこちらを見据えてきた。
「さっさと云わないか! 支度をせねばならん!」
「……ぐーすか寝てたくせに」
 サライの呟いた悪態には構いもせずに、レオナルドは慌てて服を着替え、髪をくしけずり、裏庭で簡単に顔を洗って、表で待つフラ・ルカ・パチョーリの許へと出ていった。
「……お待たせして申し訳ない、私がレオナルドです」
 澄ました顔で大先生は云うが、その髪の一部がすこしばかり、寝ぐせでうねっている。
 それに気づいたものか、パチョーリ師は、くすりと笑みをこぼした。
「これはマエストロ、お初にお目にかかる。私はルカ・パチョーリと申します。先だって、フラ・バルトロメオより、マエストロの御高名を拝聴致しまして、是非お目にかかりたいと思った次第でございます」
「おお、それは光栄ですな」
 ――うわ、胡散臭ぇ。
 サライは、思わず顔をしかめた。
 まったく、これでは狐狸の化かし合いのようだ。
「何でも、幾何学の本の挿絵を描く画家をお探しだとか」
「そうなのですよ。フラ・バルトロメオから、マエストロの腕前の素晴らしさを聞き及びまして。是非お引き受け戴きたいと思って、参りましたのですよ」
 パチョーリ師が、にこりと笑んだ。
「……お話を、詳しくお聞きしても宜しいですかな?」
 レオナルドの目が、探るように輝いた。そのまなざしは、パチョーリ師の話を聞きたくてたまらない、と云うことを如実にあらわしている。
 ――……あああ……
 サライは、聊かならずぐったりとする。
 興味を示した、となると、レオナルドはこの話を受ける気になったのだろう。
 それ自体は構わないような気もしないでもないが、問題は、レオナルドがそれを受けることによって、他の仕事――それこそ、サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院の『最後の晩餐』の壁画など――の予定がずれ込むのではないかと云うことだ。今までのあれやこれやを考えると、かなり切実な危惧が、サライの胸の内にわき起こってくるのだ。
 だが、レオナルドが興味を持ってしまった以上、それを押し止めようとしても無駄であることもまた、今までの経験から、サライはよくよく承知していた。
 ――仕様がねぇなぁ……
 こうなったら、サライにできることはただひとつ、レオナルドができるだけ早く仕事を上げられるよう、その周囲を整備してやることだけだ。ともかくさっさとこの仕事を終わらさせて、『最後の晩餐』図へと引き戻さねばならない。それができるのは、それこそサライ以外にはあり得ないのだ。
 ――ま、唯一の救いは、今回はレオの“創意工夫”が必要ないってことだな……
 幾何学の本の挿絵、と云うことは、本の中身を具体的に説明するための絵が要求されていると云うことであり、そうであれば、レオナルドが構図にあれやこれやと知恵をしぼることはない、はずだからだ。
 ――レオがさっさと仕事を仕上げてくれますように。
 パチョーリ師を奥へと導くレオナルドの背を眺めながら、サライは小さく呟いて、何とも知れぬ“高きもの”へと祈りを捧げた。


† † † † †


ルネサンス話、続き。
パチョーリ師降臨!


ってわけで、パチョーリ師です。
キャラ的には、(文覚上人+良順先生)÷2、ってカンジのフラ・ルカ・パチョーリ。結構有名な数学者ですね。
以前、M大で、パチョーリ師の複式簿記に関する数学書と、先生が挿絵を描いた『神聖比例論』って本が一緒に展示されてましたが、まァそう云う間柄。
私的には、修道士のくせに先生と呑んだくれて大騒ぎしてた人(夢の中でね)と云うイメージなのですが、世間的には結構な大先生のはず。
パチョーリ師は、こののちミラノがフランスの支配下に置かれると、先生と一緒にミラノを脱し、ヴェネツィアまでは行動をともにしている模様です。まァまァ、今回の話は『最後の晩餐』完成までなので、その辺は範囲外なんですけどね……
さてさて、どこまで迷惑な酔っ払いぶりが書けるか、頑張りますかのう……


この項、終了。
次は鬼の北海行、いよいよ二股口、か?