奇しき蓮華の台にて 〜青〜 後篇

 泰範のことである。
 弘仁三年十二月の胎蔵界灌頂ののち、高雄山寺に居ついて、かれこれ三年ほどが経っていた。
 その間、泰範は空海について、東大寺の法会に参列したり、あるいは空海の求める山間の幽地を求めて、吉野から熊野までを踏破したりしていた。
「本当にお前は、このような山間の行に向いておるな」
 山道を平然と歩いてゆく泰範を見て、空海は幾度となくそのように云ったものだ。
「ええ、楽しゅうてなりませぬ」
 そう云う泰範は、強健そうな見た目の実慧よりもよほど軽々と、急峻な道をのぼってゆく。
 逆に実慧は、大柄な身体であるにも拘らず、どちらかと云えば坐してする禅定を好んでおり、この山道にはひどく難儀しているようだった。
「何だ、実慧、若いのにだらしのない」
 大きく喘いでいる実慧に声をかけてやれば、
「――修業が足りませんで」
 と云いながら、やや恨めしげなまなざしを向けてくる。
 空海自身は、大学から出奔してのち渡唐までの十年あまりを、このような山中で多く過ごしたので、さして苦には感じなかった――むしろ、俗世のしがらみから解き放たれたかのような心地ですらあったのだが、山間の寺は高雄山寺が初めてと云う実慧の方は、転ばぬよう、足を踏み外さぬようにするのが精一杯で、とても解放感を味わうどころではないようだ。泰範などは、足許がおろそかになりがちな空海へ、絶えず気を配っているようなのに、である。
 ――やはり、人には向き不向きがある。
 と、思わずにはいられなかった。
 ――してみると、泰範がこちらに残ったと云うのも、正しかったのやも知れぬな。
 今では空海にも、何故泰範が自分の許に留まったのかを理解できた。
 つまるところ、空海は、最澄と切れたがっていた泰範に、だしにされたのだ。“海阿闍梨にお仕えしたいので、暇を戴きたい”と云うための、云わば口実にされたと云うことだ。
 はじめは方便であった高雄山寺への残留は、しかし、泰範がその水にあったため、真実のものとなったわけだ。
 実際、このような山間の行によくついてくるのは、若い智泉の他には泰範があるくらいのもので、必然的に、このような山歩きの折には、泰範を連れることが多くなっていた。
 ほぼ叡山の堂にこもりきりである最澄の下では、泰範は息がつまりそうだったのだろう。その時の鬱憤をはらそうとするかのように、泰範は実に生き生きと、空海の下で動いていた。
 だが、最澄は、まだ泰範に未練があるようだった。
 以前より間遠にはなったものの、叡山からは相変わらず、三月に一度ほど書状が届けられている。空海は、内容を見たわけではなかったが、いずれ切々とした帰山の訴えであろうことは、泰範に問いたださずとも明らかであった。
 泰範の方はと云えば、最近はほぼ、書状を受け取ってもなしのつぶてと云った風で、かつての師に返書も出さぬことで、無言の返答をしているようであった。
 ――煩わしい御方だ。
 ほとんど空海との書状のやり取りもない――経の返却の文を除いては――と云うのに、最澄の思いは、まだ高雄山寺のあたりに注がれているのか。
 ――戻らぬ経典があるのでなければ、一息に断交してやるのだが。
 空海としては、もはや最澄の気配を身辺に感じることすら煩わしくなっている。早く、最澄との交わりを完全に切ってしまいたいのだが、かれの手許にまだ貸し出した経典が残っているうちは、それもままならぬ。悩ましい限りであった。
 ――とは云え、泰範に執着する心は、わからぬでもないか。
 泰範は、確かに俊才ではあるのだ。もとは奈良の元興寺にあったと云うが、つい三年前までは顕教の徒であったことが信じられぬほどに、かれは易々と密の教えを呑みこんでいった。正直なところ、呑みこみに関しては、弟子たちの中でも泰範が随一なのではないかと思うほどだった。
 但し、それほど呑みこみの早い泰範にも不得手はあったもので、かれは、ものごとを自ら律して進めていく――利他のための事業を考えついて、自身で画し、まわりにはたらきかけて為してゆくと云うような――ことについては、ほとんどできていないと云うのが実情だった。
 だが、ともかくも泰範は勘が良く、空海が思いついた様々のことども――たとえば寺院の伽藍の構想や、灌漑池の掘削に関するあれこれなど――の穴を、ひどく的確に指摘してくるのだ。他の弟子たちにはかなわぬところにまで、そうも易々と嘴を入れてくることができると云うのは、やはり頭のまわりが早いが故であるのは間違いのないことだった。
 最澄は、泰範のこの才を愛していればこそ、あれほどまでの執着を見せるのだろう――むろん、才ばかりを愛しているわけではないのもよくわかってはいる――が、しかし、当の泰範が、もはや最澄を厭うているのだ。そろそろ、その事実に目を向けて受け入れ、執着を断ち切るべき頃合いではなかろうか。
 ――もう、三年が経つではないか。
 その間、ほとんど叡山に戻ることもなかったことを思えば、そろそろあきらめてもいい頃合いだと思うのだが。
 いずれ、けりをつけてやらねばならぬ――泰範のためと云うよりも、むしろ己自身のために。
 と、
「……阿闍梨! あれを!!」
 先を歩いていた泰範が、立ち止まって大きく手を振った。その顔は、喜びと達成感とで輝いている。
 では、自分たちは、目指すところに辿りついたのか。
 急な山道を、空海は一息にのぼりきった。
 期待に膨らんだ胸を抱えて、泰範の隣りに立てば、
「おお……!!」
 眼下に、蓮華座のようにひらけた山間の平地があった。熊野へと至る山々の連なりの中、そこだけがぽっかりと平かになっている。
「――まさしく蓮台のようではございませぬか」
 追いついてきた実慧も、息を切らしながらも興奮を抑えきれぬようだ。
「――密厳浄土が顕現するに相応しいの」
 縹渺と神気の漂うようなこの地であれば、地主の神の加護を受けて、末長く密教を志すものたちの禅定の場となることができるだろう。
 この地にかつて辿りついたのは、かれこれ二十年も昔のことだったのだが――己の記憶は、まだまだ確かであるようだ。
 だが、己の記憶が確かであるのならば――ここは、丹生都比売を奉じる天野の民の土地であったはずだが――
 ――さて、どう談判したものか。
 これほどの平地が手つかずであると云うのは、間違いなくここが、天野の民、ひいては丹生都比売の神域であるからに相違あるまい。
 神域を仏道の修法の場に、などと云うことを、果たして天野の民が受け入れようか。
 ――否。
 是非にも説得せねばならぬ、と空海は思う。
 人間を、太政官符や帝の宣旨で動かすことはできようが、それでは神に受け入れられたとは云えず、そのことが後の禍根ともなるだろう。
 神にも人にも、等しく受け入れられなくては、末長くこの地を密の修法の地となすことはできぬ。そしてそうであれば、修法の地を立ち上げることなど、意味のないものになってしまうのだ。
 急いてはならぬ、急がずにゆっくりと、諄々に説いてゆかねばならぬ――釈尊が、その教えを説いたように、ゆっくりと、確実に。
「……忙しくなりそうだの」
 ひとりごちた空海のその横で、泰範と実慧とが、笑みを含んで頷いた。



 天野の民との間で、かの高山の平地について折り合うことができたのは、年を越えて弘仁七年に入ってからのことだった。
 天野と話し合いがついてしまえば、宮中に話をとおすのは、遥かに容易なことだ。
 空海は、宮中の誰かれとなくに話を振って、太政官符を得るために動きはじめた。
 一方で、かれは同時に、方々に弟子たちを遣って、経典を書写してくれるよう、依頼の書状を送っていた。
 そもそも密教は、釈尊の悟りの境地を追体験するための、謂わば実践仏教と云うべきものであり、決して他の“顕教”と相反するものではない。最澄は、その“悟りの追体験”と云う密の本質を理解しようともせずに、密を天台一宗の下におこうとしたが、それはそもそも、密を知らぬからこそできたことなのだ。
 釈尊は、理屈や言論で悟りをひらいたわけではない。人として生まれたその身体ごと、行じ、禅定して、悟りの境地に至ったのだ。それを言葉であらわそうと試みたのが“顕教”であり、釈尊の修法をそのまま受け継ごうとするのが“密教”であるのだ。
 そうである以上、空海としては、本来“顕教”と“密教”の対立などを考える立場にはなかったのだ。
 だからこそ、奈良の僧綱の護命や勤操などの云うがままに、東大寺別当を務めもした――まぁ尤も、務めれば得だと云う思惑もなかったわけではないのだが――のだし、今また諸国諸寺の僧たちに、写経を依頼しもするのだ。
 聞くところによれば、最澄もまた、諸国に錫を振るい、天台一宗を広めんとしているようだったが、
 ――気にかけるまい。
 と、空海は思った。
 気にかけても仕方がないのだ。最澄と自分とでは、立つ位置も何もが異なっている。自分は、最澄のように他宗を排斥しようとは思わない――奈良六宗のうち、特に華厳宗は好もしいと思ってもいるのだ、中に身を置くには、あまりにも清浄に過ぎるのだが――し、実際に奈良の僧伽の僧たちと語り合うのも面白く感じられるのだ。
 奈良の僧たちの様々な考え方は、今生きるこの世界を様々な方面から照らし出す、諸仏の灯火のようなものだ。ひとつの灯では見えないものも、多方から照らすことで浮かび上がってくる。そうやって浮かび上がってくるこの世界の姿は、無限の広がりと形相を見せながら、同時にすべてがひとつでもあると云う、深遠にして霊妙な、豊饒なものであるのだ。
 ひとりの人間が、対する相手によって異なる面を見せるように、奉じる教えによって、世界はその見せる姿を異にする。だが、だからと云って、対するものの数だけその人物がいるわけではないように、世界も見るものの数だけあるわけではない。要するに、教義によって、世界の姿が異なって見えると云うだけの話なのだ。それ故に、他宗を誤っていると称して排斥するなど、まったく無意味なことでしかない。
 世界はひとつだ――曼荼羅に描かれた諸仏諸菩薩諸天やすべての衆生、草木禽獣すらが、すべて大日如来の化身であるように。我も彼も、路傍の一石も、浜辺の砂の一粒すらが大日如来そのものであるのだ。
 それを思えば、たかがものの見え方ひとつで争うなど、愚かしいにもほどがあるではないか。
 ともかくも、最澄とは間をおくにしくはない――それは半ば以上、空海自身の最澄に対する悪感情ゆえであることは、否定すべくもなかったのだが。
 空海が、じっと最澄の動静を窺っていると、二月に入って、貸し出していた『華厳経疏』十巻と、『烏瑟澁摩法』一巻が返却されてきた。書状には、例によって“未冩得”との文字があったが、それに怒りを感じることももはやなかった。
 最澄はおそらく、これらの経典を借り出していった弘仁三年の末ごろには、経を書写するつもりもなくなっていたのだろう。空海が督促しないでいれば、そのまま己がものとする心づもりだったのだろう。そうとも、そうでなければ一体何故、貸し出してから丸三年を経た今になっても、“未冩得”などと云うことがあり得るのか。
 ともかくも、これで経典はすべて戻ってきた。
 あとは、ただ時機を待つのみだ――最澄を完全に切り捨てる、その時機を、ひたすらにずっと。
 やがて五月になり、久しぶりに最澄から泰範への便りが届いたようだった。
 やや間があいたように思うのは、おそらくは、最澄が方々へ巡錫の旅に出ていたからでもあっただろう。
 書状を受け取った泰範――使いのものがやってきた時には、かれはかの高山の平地に寺を建立するの布施を請うため、山陽の方をまわっていたのだ――は、開き見るなりすこし眉を寄せ、さらりと読んだかと思うと、すぐに畳んで文箱に投げ入れてしまった。
「――最澄殿からか」
 と声をかけたのは、その書状が絶縁のきっかけになりはすまいかと考えたからだった。
 泰範は頷いた。
「ええ、最澄師よりの書状でございます」
「見せてくれぬか」
 と云うと、かれは一瞬、微妙な表情を見せたが、それでも書状を渡してきた。
 最澄の書状は、いつもの遊びのない、きっちりとした手で書かれていた。


「老僧最澄生年五十、生涯久しからず。住持未だ定まらず。同法は見を各にして、六和都て無し。独り一乗を荷いて俗間に流連す。但、恨むらくは、闍梨と別居することのみ。往年期する所は、法の為に身を忘れ、発心して法を資けんとなり。已に半分を達て、亦、長講を興す。闍梨の功は片時も忘れず。又、高雄の灌頂には志を同じくして道を求め、倶に仏慧を期せしに、何ぞ図らん、闍梨は、永く本願に背きて、久しく別処に住せんとは。
蓋し、劣を捨てて勝を取るは世上の常理ならん。然れども、法華一乗と真言一乗、何ぞ優劣あらん。同法同じく恋う、是を善友と謂う。我と公とこの生に縁を結び、弥勒に見えんことを待つ。儻々各々深き縁有らば、倶に生死に住して、同じく群生を負わん。
来春の節を以て東遊頭陀し、次第に南遊し、更に西遊北遊し、永く叡山に入りて生涯の去来を待たん。何ぞ日本を廻遊して、同じく徳本を殖え、譏誉を顧みず本意を遂げん。此れ深く望む所なり。謹んで便信に附して奉状す。不宣。謹んで状ず」


 ――“茶十斤、以て遠志を表す”か……
 黄金にも等しく珍重される茶葉を十斤も、とは、相変わらずの厚遇ぶり――裏を返せば執着ぶり――だと、茶の包みと思しきものを横目に見ながら、思う。
 三年――泰範が叡山を下りたと云う弘仁二年から数えれば、五年――もの間、ほとんど会うことすらなくて、未だに“恨むらくは、闍梨と別居することのみ”とは、まったく大層な執着だ。
 五年もの間つれなくされていれば、例えばこれが男女の仲であったなら、いい加減あきらめる頃合いでもあるだろうに。
 ――いや、この執着あればこその最澄殿、か。
 だからこそ、奈良六宗と争い、戒壇を叡山にと願いもするのだろう。空海にはない、その執着。
 南都ともめると面倒だ、などと云う心は、最澄の頭の中にはないのだろう。南都と争って、それだけで力尽きてしまうかも知れぬ、などと云う考えは、思い浮かびもしないのだろう。
 ――時間の無駄だ。
 空海などは、宗派間で争うことを、そのように思ってしまうのだが、最澄にとっては、そのような考えは優柔不断の極みでしかないのだろう。
 だが、実際問題として、空海は南都とそれなりにうまくやっている――実のところは、単に奈良の僧綱に頭が上がらぬだけではあるのだが――のだし、ひたすらに闘争的な最澄とは、どのみち歩を同じくすることなどできはしないのだ。
 ――機が訪れた。
 最澄を切り捨てることを考えていた空海にとって、最澄のこの書状は、格好の口実となるものだった。
 しかも、“法華一乗と真言一乗、何ぞ優劣有らん”とは――むろん、最澄の中においてはこのとおり、但しあくまでも“建前”としてのことではあるだろうが、空海においては、そうではないのだ。
 “法華一乗”はあくまでも“顕教”であり、すなわち言説によって成仏の、涅槃のことを表そうと云う教えである。一方の“真言一乗”は、すべての言説を包括しつつ、行ずることによって成仏し、涅槃に入ることそのものを目的とする“密教”であって、その立つ位置は根本的に異なっているのだ。
 そのことを、最澄には、もう一度繰り返して説いてやらねばならぬもののようだ。
 だが、そうしたところで、最澄がそれを容れるかどうかは、また別の話になるのだろうが。
「――私が返書を書いてやろう」
 空海が云うと、泰範は、一瞬、制止するようなそぶりを見せたが、やがて、
「……阿闍梨はそれで宜しいのですか」
 と問い返してきた。
 思わず、笑いがこぼれた。
「“良いのか”とは、私の云うべきことだろう」
 泰範の師への返書を空海が書くと云うのは、普通に考えれば、礼儀にも信義にも反することだ。返書を書く空海はもちろんのこと、かれに最澄の書状を見せた泰範も、その点において批難されることになる。
 自ら望んで返書を代筆したいと考えている空海はともかくとして、泰範は、己にふりかかるだろうそのような批難のまなざしを、どのように考えていると云うのか。
「返書を致さねば、最澄師は諦めておしまいになるだろうと思うておりましたが、一向その気配もなく――まだまだ長うかかるようでございますので、阿闍梨がもはや最澄師をお寄せになりたくないと思されるのであれば、それはそれで」
「――お前は、ようものを考えておるのか、そうでないのか、量りかねるの」
 呆れたように云ってやっても、泰範はにこりと笑うばかりだ。
「……良い。ともかくも、返書は私が書く。――この書状は借り受けるぞ」
「ご随意に」
 頭を垂れる泰範に頷いてやって、己の房へ戻る。
 ――さて、何と書き出すか。
 いつものように、墨を磨りながら思案する。
 手もさることながら、最澄に、この返書の文そのものも空海によるものなのだと、はっきり知らしめるような文章にしてやらねばならぬ。
 ほど良い墨が磨れたころには、空海の中で、おおよその文意はまとまっていた。
 筆に墨を含ませ、紙の上に落とす。そうして、練り上げた言葉を書き記してゆく。


「泰範言す。伏して今月一日の誨を奉り、一たびは悚き、一たびは慰む。兼ねて十茶を賜ることを蒙り、喜荷するに地なし。仲夏陰熱なり。伏して惟みれば、和尚、法體如何。ここに泰範、恩を蒙る。今月九日、馬州より還る便に乙訓寺を過り、即ち北院に遊化したもうことを承る。便ち就いて謁んと擬うに、客中の煩砕によって志願を遂げず。悚息何をか言わん。故怠にあらざるを恕さば幸甚幸甚。……」


 この挨拶だけでも、最澄は、書き手が誰であるかを知るだろうが――
 ――気のせい、で済まされぬよう、念には念を入れてやらねばならぬ。
 他ならぬこの空海が、この返書を認めたのだと。はっきりとわかるようにしてやらねばならぬ。


「……告の中に云く、共に生死に住して衆生を荷負し、同じく四方に遊んで天台宗を宣揚せん、といえり。伏して慈約を奉るに、喜躍喩えがたし。もし龍尾に附きて名を揚げ、鳳翼に寄りて行を顕さしめば、即ち蚊蛧の質、労せずして雲漢を凌ぎ、無筋の蟺、功なくして清泉を飲まん。鄙陋の望み、ここにおいて足りぬ。何ぞまた更に加えん。珍重珍重。……」


 さて、本題はここからだ。


「……また云く、法華一乗と真言一乗と何の優劣やある、と。泰範、智は菽麦に昧し、何ぞ玉石を弁ぜん。敢えて高問に当たりて深く悚息すれども、雷音忍びがたく、敢えて管見を陳ぶ。
夫れ、如来大師は機に随って薬を投ず。性欲千殊にして、薬種万差なり。大小鑣を竝べ、一三轍を争う。権実別ちがたく、顕密濫じ易し。智音にあらざるよりは、誰か能くこれを別かたん。然りといえども、法応の仏、差なきことを得ず。顕密の教、何ぞ浅深なからん。法智の両仏、自他の二受、顕密説を別にし、権実隔あり。所以に真言の醍醐に耽執して、未だ随他の薬を噉嘗するに遑あらず。……」


 “法華一乗と真言一乗、何ぞ優劣有らん”と云うが、そも、顕密の違いを、お前はわかってそのように云うのか。
 顕教は、仏の教えを言葉で受け取り、密教は、世界の理ごと、すべてを身体で受けとめる。言葉で受け取れるものなど、些々たるものでしかない。世界と、その根本である大日如来、すなわち摩訶毘蘆遮那仏と、身体ごとで共振共鳴し、もって己も世界そのものとなる――密教のその愉悦を知って、どうして浅い顕教などに身を投ずることができようか。


「……また自行則あり、化他位あり。澄瑩にして物に応ずること、時に非ざれば能わず。泰範、未だ六浄除蓋の位に逮ばざれば、誰か能く出仮利物の行に堪えん。利他の事は悉く大師に譲りたてまつる。……」


 最澄がかつて、願文の中において“我未だ六根相似の位を得ざるより以還、出仮せじ”と書いたように――“私”も六根が清浄になっていないので、利他の行は行うことができない、と云うことなのだ。
 利他の行は、最澄自身がやって見せれば良い。だが、叡山に籠り、経典を読み耽ってばかりのかれの“利他”が、一体どのようなものなのかは想像もつかなかったのだが。


「……伏して乞う、寛恕を垂れなば弟子が深幸ならん。また前には天台一乗を建て崇めんと期す。今は則ち諸仏加護し、国主欽仰す。百官崇重し、四部耽翫す。四海同じく仰ぎ、三千の達者あり。先の願いすでに足んぬ。踊躍踊躍、珍重珍重。泰範、自行未だ立せず、日夕劬労す。もし狂執を責めずんば、弟子が望み足りぬ。身は山林に避れども、丹誠何ぞ忘れん。謹みて某甲によって状を奉る。不宣。弟子泰範和南」


 密教に傾倒していることをお責め下さらねば充分でございます――と云って、最澄が納得するとも思われぬが、しかし、空海の文で、空海の手で書かれたことが明白な返書を受け取れば、かれは否応なしにその意味を悟るだろう。つまりは、泰範が心から――このような返書を空海が書くことを許すほどに――最澄と切れたがっているのだと云うことを。
 一気に書き上げると、空海は、念のため文を泰範に見せた。
「――宜しいのではございませぬか」
 泰範の返答は、気のないものだった。
「……それだけか」
 他にもっとあるのではないか、流石であるとか、きらびやかな文であるとか――あまりにも“空海の文”であることをひけらかし過ぎているだとか。
 だが、泰範は肩をすくめただけだった。
阿闍梨が書状を認められまして、その目的が達せられなんだことがございましたか。ございませぬでしょう。なれば、私が何を申すことがございましょうか」
「……では、この書状を最澄殿に送って構わぬのだな」
 念を押す。この文によって、師弟の縁を完全に絶ち切っても構わぬのかと。
「構いませぬ、阿闍梨の宜しいように」
「……うむ」
 泰範がこれで良いと云うからには、止めるものはなにもなかった。
 空海は書状を封緘して泰範に託し、泰範はそれをそのまま、帰る使者に渡したようだった。
 果たして――
 最澄からの書状は、そののちふっつりと途絶え、空海の許で密を学んでいた円澄も、叡山に呼び戻されて去っていった。空海は、名残惜しく思ったが、既に両部をほぼ学び終えていた円澄を、引きとめるすべなど元よりなく。
 こののち、空海と叡山とは、久い断交状態に入ったのだった。



 空海が叡山と再び関わるようになったのは、十八年の後、承和元年の春のことだった。
 最澄は十二年前――弘仁十三年の夏に没し、その跡を襲った義真は、最澄の遺志を継いで――否、それ以上に――奈良の僧伽や空海と争う構えであったので、煩わしくなって一切の関わりを絶っていたのだが。
 昨年、義真が没し、代わって天台の座主の座に就いたのは、かつての“弟子”である円澄であったのだ。
 空海をさほど敵視する風でもない――もっとも、かつて最澄の次の座主と目されていた彼が、今までその座に上ることができなかったと云うのは、その空海に対する態度故でもあったのだろうが――天台座主の誕生を、空海は素直に喜んだ。
 そしてつい先日、宣旨によって、叡山西塔院の落慶法会にて、呪願師を務めよとの命が空海に下されたのだ。
 無論、空海に否やはなかった。これが最澄か、あるいは義真の代のことであったならともかくとして、今は“弟子”円澄の時代になっている。かつて自分の下で学んだ男の晴れの場を、どうして言祝がぬはずがあろう。
 だが、叡山に上ることに、弟子たちはあまり良い顔はしなかった。
 それは、叡山に対する含みなどではなく、老いて体調を崩していた空海の身を案じてのことだった。
 そうだ、自分は老いた――もはや六十の齢も過ぎ、三年前に悪瘡を患ってからは、さらに衰えが著しくなった。かつてのように、日に十里を行くなど、とてもかなわぬこととなった――今回叡山に上るにあたっても、道中の長いことを輿に揺られねばならぬほどだったのだ。
 山道を上がりながら、ふと立ち止まり、一息つこうとして。
 途端に膝ががくりと落ち、よろめき倒れそうになる。
「――阿闍梨
 脇に従う泰範が、抱きかかえるようにして支えてきた。
 それを押しとどめるように、ひらひらと手を振ってやる。
「構うな」
 そう云ってやると、泰範はやや不満げな面持ちになるが――当の泰範とても、今年で五十七、既に老人として、他のものたちに気遣われるような年齢であるのだ。
 だが、泰範は引き下がることなく、強引に空海の手を取り、介添を務めようとしてくる。
 泰範のみではない、同行している他の高弟たち――真済や堅恵、真泰など――も、空海が無茶をしないかと、絶えず目を光らせているような風である。
 ――それだけ、私が衰えたと云うことか。
 痩せ細った己の腕に目を落とし、胸の内で吐息する。
 高弟たちの目から見ても、空海の衰えは甚だしく、末弟子などでは止められぬことが多い故に、こうして高弟ばかりがつき従ってきたのだろう。
 とは云え、それでも此度は、空海は叡山に上らねばならなかったのだ。
 最澄と断交してよりこの方、空海とその僧伽は、叡山と関わりを絶ってきたのだが、しかし、そのような軋轢をいつまでも引きずることは、この国の僧伽全体のためにも悪しきことであり、そろそろ絶ち切るべきであったのだから。困窮する民草を利するためには、僧伽の中で争う暇などないはずだ。飢饉や旱魃などに対処し、河川や灌漑池などを補修するためにも、宗派を超えて僧伽全体が力を合わせなくてはならないのだ。
 そのための一歩として、この度の法会には、是非とも空海自身が参列せねばならなかった――空海の、真言の僧伽と、叡山の間には、もはや軋轢などないのだと内外に示すために。
 とは云え、やはり老い衰えた足には叡山の道は嶮しく、途中からは、ついに泰範の背に負われて上がることになってしまった。
 だから、輿にて参りましょうと申し上げたのです――とは、流石に泰範も口にはしなかったが、他の高弟たちはうるさく騒ぎ立ててくる。
 だが、空海が己自身の足で上がらねば、新しい座主に対する敬意など表せぬではないか。
 幾たびか泰範に負われつつも、何とか叡山の伽藍に辿りつく。
 と、奥の堂宇から、僧の一団が迎えに出てきた。
 あれは、
阿闍梨、お久しゅう……」
 そう云って頭を低くし、手を握ってくるのは、かつての“弟子”にして天台座主たる円澄だ。
「まこと、久しいの、十八年ぶりか……」
「はい……病を得られたとはお聞きしておりましたが、すっかりお窶れになって……」
 痩せた手を、撫でるように包みこんでくる。
「なに、見たところほど悪くはないのだ。若いころに山林を跋渉しておった故にの」
 そう云ってやるものの、円澄は気遣わしげに手を撫でてくるばかりだ。
「お大事になさって下さいませ、我ら叡山の僧伽のもの、まだまだ阿闍梨に密の教えを請わねばなりませぬ故」
 だが、そう云って気遣ってくれる円澄の方が、空海よりも年嵩であるはずなのだったが。
「……そうだの」
 笑んでそう答えはしたが、空海には、もはやその時間も限られていることがわかっていた。
 自分に残された時間は短いと云うのに、やらねばならぬことは山積している。
 急がねばならぬ――だが少なくとも、こうして叡山に上ることができた、このことで、そのうちのひとつは為したことになる。
「……さ、阿闍梨
 横あいから、泰範が支えの手を差し出してくる。それに気づいた円澄が、かすかに目を見開き――やがて、かるく目礼した。
 泰範も、目礼を返す。
 叡山の若い僧たちは、泰範が何者で、円澄とどのような関わりがあったのかを知らぬようだったが、蟖の長けたものたちの中には、泰範を見知ったものも多くあるようで、すこし離れたところにあって、意味ありげなまなざしを交わし合っていた。
 実は、泰範を伴ったのも、最澄の間であったことどもに、ここでひとつの区切りをつけるためであったのだが――
 ――さて、これがどう出るものか。
 空海の存念がうまく果たされたかどうかは、今この場でははかりかねた。
 ともかくも、布石は打った――空海亡きあと、叡山との関わりがどのようになるのかは、神仏のみぞ知るところであった。
 円澄に導かれて、伽藍の中を歩く。堂宇の屋根、塔の水輪が、山の深い緑に美しく映えている。
 それを見ながら、空海は、紀伊の山中にひらいた金剛峯寺を思った。
 金剛峯寺の建立を発願してから十八年が過ぎたが、まだ伽藍どころか、僧房やわずかな堂宇がかたちをなしたところでしかない。
 最澄が叡山に一乗止観院を建てたのは、延暦七年、今から四十六年前のことだった。金剛峯寺は、それより二十八年遅く建てはじめている。あと二十八年ののちには、金剛峯寺も、このような威容を、訪れたものに誇っているのだろうか――あるいは、勅賜された東寺、すなわち教王護国寺は。
 二十八年の後を、空海が見ることはあるまいが、そうあってほしいと心から願う。
 ――執着だな。
 己のもたらした密教を末長く伝えたいと思うのは、確かに執着以外の何ものでもなかった。
 わかっている、だが、心おきなく世を去るために、生命のあるうちに、すべての布石を打っておきたかったのだ。
 ――最澄殿のことを嗤えぬ、か。
 まさしくこれは執着だ。
 だが、空海はただ、己の心残りのないように、それだけを願っているのだった。
「――阿闍梨
 泰範が、そっと身体を支えてくる。
「……ああ」
 そこまで執着したとても、栄える時には栄え、滅ぶ時には滅ぶだろう。
 すべては移ろい、すべては去りゆく――それでもなお、ひとは永遠を望まずにはおれぬのか。
 己の執着を苦く笑い、空海は、円澄のあとについて、西塔院への道を歩み出した。


† † † † †


と云うわけで、面倒な阿闍梨の話、ラスト!
最後が一番長い……(多分この章だけで13,000字くらい)totalで33,000字だもんなァ、しかも、出ない字があるし……


えー、まァこの話はこれで終了ですが、続きって云うか最澄篇の“〜紅〜”と、何と橘逸勢在唐記(?)も書き出しちゃってます……ふふ。
当初、逸勢の方がさくさく進んでたのですが、資料(逸勢帰国願の上啓文の原文)で躓き、今は最澄篇の方が一歩リードしてる感じです。ま、資料はGetした(まだ手許には届いてませんが)ので、確認次第先に進めますがね。『群書類従』とかの巻数がわかれば、図書館で確認できるんですが……面倒。
とりあえず、どっちかを上げる段で、別カテゴリ設定しようと思います。


それはそうと、原文を手に入れてる『伝教大師消息』(手許にあるのは『続群書類従』のもの)、最澄の漢文が……!
「山家式」とか読んでる時も思ったんですが、最澄、漢文下手ですね! 御堂関白殿もびっくりだ!!
だって、最澄の漢文、専門家も読めないんだぜ! “憶前乍別、……”も相当なアレですが、宛先不明の“所示衆意已引大乗亦随喜……”も、ホントに読み方がわからん! 御堂関白殿のころは、既に漢文自体が仮名(=万葉仮名的な)交じりになってるからアレとして、最澄のころって、まだガチガチの漢文時代なのに……
でもって、時代が下るにつれてましな文を書くようになってくのは、あれは阿闍梨の手紙を見たからなんだろうな……
っつーか、それまであの文で、相手に内容ちゃんと伝わったんだろうか……他所ごとながら、ちょっと心配……


でもって、夜の闇の向こうの坊主、真雅&真然登場! しかし、真雅は華厳のひとになってた……
っつーか、華厳てどうも、随分密教化されてるみたいですね……日本華厳の祖(?)・審祥さん(来ました)が“自分が伝えたのと随分違う”って云ってたので。
まァ、例の『東大寺辞典』見ても、真雅以降、東大寺別当って、東寺長者が兼務してたことも多かったようなので、司馬遼が云うよりももっと、密教化は進んでるんでしょうけどね……
あと、“しんえい”いた!!! 『弘法大師弟子譜』にちゃんと名前がありました。“信叡”乃至“真榮”“神榮”と云う表記っぽいです。“ちしょう”は見つかんなかった……残念。下っ端っぽいから、まァ仕方ないか。
あ、そうそう、何と日蓮上人も来てます。
何かこう、アスペルガーとか高機能自閉症っぽいにおいのする人だった――そういうタイプは大好きなのですが、ただ、あのものの考え方がどうしても好かん……! 性格は好きなのに! ジレンマ。
まァ、様子を見ながら、ちょっとずつ溝を埋め……られたらいいなァ……


さてさて、この項終了(重いよ……)。
次はルネサンス、呑んだくれ大会突入?