神さまの左手 38

 ――何でもう酒盛りやってんだよ……
 葡萄酒で満たした水差しを運びながら、サライは深く溜息をついた。
 例のフラ・ルカ・パチョーリがやってきたのは、まだ朝のうちであったはずだ。レオナルドは、ようやっとそのころに起き出して、朝食も摂らずに応対していたので、“かるく何かつまみながら相談を”と云い出したのが、昼前のことだったはずで――
 ――それで何で、この真っ昼間から酒!?
「サラーイ! まだか!!」
 レオナルドが叫ぶのが聞こえる――かなりきこしめしているようで、少々呂律があやしい。
「はいはーい!!」
 叫び返して、早足で行く。
 扉を開け、
「お待ち!」
 と云って入った部屋の中は、既にひどく酒臭かった。
 ――う、わー……
「おお、遅かったな、“小悪魔”殿」
 と、上機嫌で云うのは、パチョーリ師。こちらもかなり出来上がっているようで、修道士とは思えぬぐだぐだぶりだ。椅子に斜めに腰掛けて、あまつさえ、座面の上に片膝を立てている。
「遅かねぇよ、水差しいっぱいにしてるんだ、走ったらこぼれるだろ」
 云いながら水差しを置いた食卓の上には、手帖や紙片が広げられている。そのあちこちに描かれた図面や計算式――確かに打ち合わせはしていたらしい。が。
サライ! 注げ!」
 もちろんレオナルドもぐだぐだで、酒杯を差し出しながら、その上体はふらふらと揺れている。
「はいはい。――あー、もー……」
 この時間でこれでは、二人とも、明日は二日酔い確定ではないか。
「で? ちったぁ話し合いは進んだわけ?」
 勢いよく葡萄酒を注ぎながら――酒杯から酒が跳ね上がり、レオナルドが怒声を上げた――問いかけると、
「うむ、首尾は上々だぞ」
 と、上機嫌でパチョーリ師が頷く。
「とりあえず、多面体を幾つか描いてもらうことになってな、その数を相談していたのだが」
「……その酔っ払い具合で、どう話が進んだんだか、きっちり聞かせてほしいもんだぜ」
「いやいや、ここまで酒が入ってはいなかった、はずだ。なぁ、マエストロ?」
「そのとおりです、フラ!」
 レオナルドは、ぐらぐら揺れている――注いだばかりだったはずの酒杯の中身は、もう半分ほどに減っている。
「聞け、サライ! パチョーリ師は大変優れた数学者であられるのだ! 師のお蔭で、例の“晩餐図”も、すばらしいものに仕上がりそうだぞ!!」
「――って、じゃあこれは、“晩餐図”の絵ってわけなのかよ……」
 その辺に散らばっている紙片の一枚に、溜息をつきつつ目を落とす。
 その紙片には、細長い長方形がざっくりと描かれ、中心の一点から、放射状に幾つもの線が引かれている。
 この、子どもの落書きよりもひどいしろものが、どうやったら“すばらしい絵画”に化けると云うのだろう?
「信じておらんな、この小悪魔め!」
「や、レオの腕前は信じてるよ。信じてるけどさ――これじゃあちっともわかんねぇもん」
 単に、画面とよく似た比率の長方形に、放射線が引かれただけの、この図面からでは。
「これは、透視法の図だ!」
 レオナルドは云って、紙片を激しく叩いた。
「“透視法”って……あれか、あの、近くと遠くを描きわけるって、あれ?」
 だいぶ酔ってるな――と思いながら、サライは問いかけた。とにかく、酔っ払いに対しては従順に振舞うに限る。まぜっ返したりすれば、余計に話がこじれるだけだ。
「そうだ!」
 レオナルドは云って、酒杯に手酌で葡萄酒を注いだ。
「パチョーリ師に、より正しい透視法による遠近のつけ方を教わったのだ。やはり、キリストに消失点を置いて描くのが良かろうと、パチョーリ師はおっしゃるのだ。で、実際に描いてみたのがこれだ!」
 と、紙を叩きながらレオナルドは云うが、
「――この、線の中心に、キリストを置くってことかよ」
 しかし、レオナルドの説明がなかったなら、とてもそのような大事な構図を描いているものだとはわからないだろう。
「そうだ! 絵画の中心にキリストを置き、その前に真横に長い食卓を、キリストの並びに、使徒たちを配するのだ。この間描いたデッサンのようにな!」
「……ははぁ」
 キリストの近くに、ヨハネやペテロ、大ヤコブやトマス、そしてもちろんユダをも配すると云う、あの構図か。
「そいつは凄いもんに仕上がりそうだな」
「だろう!!」
 レオナルドは胸を張った。
「今回も、光輪を描かずに仕上げたいのでな、そのあたりのことも考えているのだ! ふふふふ、サライよ、すばらしい絵が出来上がるぞ!」
「……そりゃあ、あんたは天才だもん」
 ただ、いかな大天才であっても、酔いの回った頭で考えたことなど、碌でもない与太話で終わる可能性も高いのだったが。
 と、レオナルドが目を眇めて睨みつけてきた。
「……今、私の話を疑ったな?」
「――や、疑ったってまではいかねぇんだけど」
「嘘をつくな、疑っただろう!」
 ――あー、絡んできやがった……
 どうしてこう云う時ばかりは、勘の働きが鋭いのだろうと、首を傾げるしかない。
 ともかくも、従順に、従順にだ。
「……疑ったって云うかさ、光輪描かずに教会黙らせるって、どんな風にすりゃできるのかなって――あ」
 云ってしまってから、今そこにいるパチョーリ師が、当の“教会”の人間であることを思い出したのだ。
 おそるおそるパチョーリ師を見やるが、師は、赤い顔でにこにこと笑うばかりだ
「いやいや、確かに光輪は難しいですからな! 実際にキリストが光輪を戴いていたとしたなら、皆眩しさのあまり、御顔を拝することもできなかったでしょう! マエストロ、そのあたりはどうなさるおつもりなのです?」
使徒の方々は、まだ目覚めておられぬ体ですから、俗人のようでも構いますまい。キリストは――何とか、違うかたちで神々しさを描き出してみせますとも!」
 と云って胸を張ったレオナルドが、ぐらりと後ろへ倒れてゆく。
「レオ!!!」
 慌てて支えようとするサライの腕が届く前に、レオナルドは床にひっくり返り、そのまま高いびきで眠ってしまった。
「ああああぁ……」
 頭を抱えるサライの横で、パチョーリ師は腹を抱えて笑っている。
 しかし、こちらも結構な酔い加減で、そろそろ潰れるのは目に見えている。
 ――って云うか、二人とも寝ちまったら、俺がひとりで寝床まで運んでやらなきゃならねぇのかよ……
 しかも、大の大人を二人もだ。
 思わず天を仰ぐが、それで助けが来るわけもなく。
 サライは溜息をついて、ともかくもレオナルドを担ぎ上げ、奥の寝台に寝かしつけることにした。


† † † † †


ルネサンス話、続き。
呑んだくれどもめ!


とりあえず、パチョーリ師のミドルネームが“バルトロメオ”らしいとうぃきで見たのですが――ホント? ホントならすごいな、って云うか、同じ名前か……まァ、梵天(や、『聖☆おにいさん』の。似てる感じがするので)=護命さんと、文覚上人ってちょっと似てるとこあるなァと、そんなフィーリングです。
っつーか、いつもながらぐだぐだなカンジですが……まァ、もうルネサンスはこんなもんだということで。もうちょいすると、カテリーナのアレとか、サラのソレとかで、いろいろ変化が――あるのか、な?


関係ありませんが、かなり待ってた伊達の殿の漫画『三日月竜異聞』(堤芳貞 松文館)の一巻目が出たので、うはうはしながらGetしました――他所の書店で(苦笑)。だって、担当の子に頼んでおいたにも拘らず、配本が0だったんだもん! しかも、以前出たアンソロっつーか総集編も買ってると云う――無駄無駄(笑)。
しかし、BSR(今は『SP』)の灰原薬さんもですが、割とああ云うばさばさした絵が好きなんだなァ、自分……
掲載誌は消滅しちゃってる(WEBに移行――松文だからね、ペイの問題が……)ので、ひたすら単行本待ちです。早く二巻目出て!
……っつーか、堤芳貞って、大塚英志原作の『東京ミカエル』描いてた人か! 気づかんかった! 結構あれも好きだったんだ、そう云えば……とりあえず、次の巻を待ちますわ……


……どうも熱中症っぽいカンジで、ちょっとダウンしてました。おっかしいなァ、去年冷房なしでいけたんだけど――まだ今年は涼しいのに。
ともあれ、皆さまもお気をつけ下さいまし。水分補給はしっかりと! (しかし、毎日2Lは摂ってるんだけどなァ……)


この項、終了(いっつも最後の一文がビミョー……)。
次は鬼の北海行、二股口出陣?