奇しき蓮華の台にて 〜紅〜 一

最澄がお好きな方、天台宗の方は、閲覧をお止めになった方が宜しいかと思われます……



 泰範が叡山を下りて、近江高島郷の自坊に引きこもってしまったのは、弘仁二年の夏のことだった。
 取り残された最澄は、わけがわからなかった。
 最澄唐土より帰還して六年、ようよう天台の教えを世に広める地固めもなった――天台宗の開基は、既に五年前、延暦二十五年に認められていた――と云うのに、天台一乗を荷う片腕とも恃む泰範が、この時期に叡山を下りるなどと云うことがあろうとは。
 ――何故、私の許を去らねばならぬのだ。
 本当に、わけがわからなかった。
 泰範は、もとは奈良の元興寺の僧であり、最澄と出逢ったのは、かれが得度して間もない二十五のころであった。
 奈良の諸宗の教えでは満足できなかったらしき泰範は、最澄と語り合ううちに、かれの奉じる天台の教えに興味を抱き、是非とも渡唐して天台のすべてを請来するよう、背中を押してくれたのだ。
 最澄ははじめ、門下の一人を還学僧として渡唐させようと考えていたのだが、みなどうにも心許ないものばかりで、結局は自分が行くのが確実だと云うことになったのだった。
 延暦二十二年に遣唐使の船団に乗りこんだ最澄ではあったのだが、出航して外海に出るあたりで、嵐にあって船が大破し。仕方なく、翌年の再度の出航までを、太宰府にあって待つことになったのだった。
 そうして、渡唐して天台山に至り、天台一宗のすべてを得、そののち帰りの船を待つまでの間に越州密教を得て――帰国したのは、延暦二十四年のこと。
 その間、丸二年あまりを、泰範は叡山にあって、そこを守っていてくれたのだった。
 それから六年――いったい何がどうなって、泰範は山を下りていってしまったのか。
 ――何故なのだ……
 最澄は、泰範からの書状を広げた。


「右、泰範、重き障り有りて忽せにす。諸事に堪えず。仍ねて離書を奉ること件の如し。謹んで啓す」


 ――“重き障り”などと!
 確かに、叡山においては、泰範をめぐって様々な思惑が渦巻いているのは、最澄も承知するところだった。その理由と云うのが、容姿の美しい泰範に、皆が懸想している故であることも、よくよくわかってはいたのだ――他ならぬ最澄自身が、泰範に魅せられていたが故に。
 だが、
 ――何故なのだ、泰範……
 かつて泰範は、最澄と“天台の教えを必ずや遍くこの国に広めん”と、かたく誓いあったではないか。
 それからわずか六年にして、泰範はその契りを忘れてしまったと云うのだろうか。
 ――私たちは、あれほど睦みあっていたではないか!
 いついかなる時も――違う穹の下にあった時も、仏の道を語らった時も、夜の閨の中にあっても。
 最澄が求めた時の、泰範の応える情の激しさを憶えている。熱い指先、勁い腕、穿つ牡の猛々しさ――思い返して、身体の芯を走り抜けた甘い痺れのようなものを、最澄はあわててやり過ごした。
 ともかくも、泰範を呼び戻さねばならぬ――改めて、強く思う。
 そうとも、“身体的な”あれこれを措いても、泰範は、最澄にとってなくてはならぬ人間であった。
 泰範は――その前歴を、最澄も良く知りはしないのだが――、中途から仏門に入ったにしては、よくその要諦を掴んでおり、天台の教えを知る段においても、最澄よりもはやくその頂にまで上りつめた感すらあったのだ。
 他の弟子たちは、英才はあれどもそれほどの聡さはなく、かれとともになくては、天台の教えを説くにも、持ち帰った経典を整理するにも、人がないと云うのが最澄の実感であった。
 それ故に、
 ――泰範を失うわけにはゆかぬ。
 と云うのは、未だ唐より持ちきたった天台の教えを開陳しきらぬ最澄にとって、切実なところであったのだ。
 ――ただでさえ、奈良の僧綱が何やら企む風であると云うのに……
 そう思って、つよく唇を噛む。
 奈良の僧綱が自分に対して企みをしてくるのは、かつて桓武帝の在世の折に、最澄が奈良六宗を“教”ではなく“論”であると云い、天台こそが釈尊の正しい“教”であるのだと主張した――そして、桓武帝がそれを容れて、最澄を師表となし、内供奉に任じた――ことがもとになっているのはわかっていた。
 奈良の長老たちは、最澄が自分たちの頭を飛び越して、じかに主上に己の意見を具申し、また主上がそれを容れて天台を重んじ、奈良六宗を蔑ろにした、そのことを深く根に持っているのだ。
 ――だが、奈良の六宗が論のみを持ち、釈尊の教えを記した“経”を持たぬのは、まことの話ではないか。
 華厳のものは、“華厳経”を持つと云うだろうが――しかし、華厳経は五時のうちで最も早い、第一華厳時に説かれたものであり――そう、天台の教相判釈では説いている――、最後の法華涅槃時に説かれた法華経の方が優れているのだ、比較して良いものではない。
 ――それを、蒙昧の輩がわからずにいる故に、話がややこしくなるのではないか。
 最澄は、天台の教えがいかに優れているかを実感していたので、奈良の僧伽・僧綱の頑なさが腹立たしくてならなかった。
 奈良六宗の唱える“仏教”の験が薄いことは、かつて奈良の僧伽が玄纊・道鏡などと云った妖僧を輩出し、もって国を混乱せしめたことでも明らかではないか。
 奈良の僧伽は戯論を弄んでいるばかりで、利他のことや成道のことを、釈尊の言葉に従って、真面目に行おうとしてはいない、と最澄には見えるのだ。泰範もそれには同意しており、それ故にかれは、最澄について叡山へ上ってきてもくれたのだ。
 唐より帰国し、己のもたらした膨大な経典を読み、また論を整理してこの国の天台の基礎を固めるために、泰範の才は是非にも必要だったのだ。
 ――それなのに、何故……
 同じ問いのくり返しだ。
 そう、それに、問題はそれだけではない。
 最澄は今、年若い僧・空海に、密の教えを請うているのだが、この密の理解が、中々最澄には難しいのだった。
 そもそもは、最澄越州にて得てきた密が発端だった。順暁と云う密の高僧――この人は、唐の内供奉でもあった――から、最澄は密の教えを受けたのだが、遅れて空海が帰国してから、その密が実は粗放なものであったことを知ったのだ。
 空海は、最澄の七歳下であり、入唐までは私度僧であったと云うことだったが――しかし、唐の都・長安へ入ってわずか一年ばかりの内に、唐における密教の座主にまでのぼりつめたと云う、中々の英才であるようだった。
 最澄自身、天台山へ赴いたにも拘らず、経典を授けられただけで、そのような栄誉を受けることがなかった――むろん、滞在期間が半年ほどと短かったことは確かだったが――こととあわせて考えてみれば、その才智の際立っていることは明らか過ぎるほどであったのだろう。
 空海と云う男、その法名――“空海”などと、師統がどこであるかもわからぬような名を、一体誰がつけたものか――からも、また私度僧と云うその前歴からも、奈良の僧伽からはみ出していることは明白だったのだが、そのかれが前年、奈良最大の寺である東大寺別当となった、と云うのは――奈良の僧綱すらもが認めざるを得ないような才幹がかれのうちにあると云うことの、証明に他ならないではないか。
 ――あの男を敵に回すわけにはゆかぬ。
 己の密が粗放なものであるとわかってしまった以上――そしてまた、既に奈良の僧伽を敵に回してしまっている以上。
 今、最澄には、確たる味方がいないのだ。桓武帝は崩じ、後ろ盾であった和気清麻呂・広世父子も亡くなった。それでこの上、新来の空海までもを敵にすれば、いよいよかれには寄る辺がなくなってしまう。
 それ故に、
 ――あの男には、高雄山寺を譲ってやったのだ。
 自分の庇護者のひとりであった和気真綱――実際に関わりの深かったのは、その父である清麻呂と、兄である広世の方であったのだが――が、高雄山寺を空海に譲ってやってくれないかと持ちかけてきた時に、それを肯諾したのは、ひとえにそのような心からであった。
 だが、その空海は、何時の間にやら奈良の僧綱をも籠絡し、奈良最大の寺の別当にまでのぼりつめてしまっている。
 あの男を奈良に獲られてはならぬ、と強く思う。奈良がそこまで認める才俊を、みすみす“敵”に得させるなど、あってはならぬことだ。あの男から正統の密を得、ともに手をたずさえて奈良に対峙せねば、新しくもたらした正しい教えをこの国に根づかせることは困難になるに違いない。
 そのためにも、泰範の力は必要だったのだ。
 泰範は、ものごとの本質を見抜く力に優れ、また仏法のみちすじを悟るのにも優れている。泰範がいれば、たとえ奈良の僧伽から論難されたとしても、おそれることもないだろうに。
「――和上」
 声をかけてきたのは、近士男の紀麻呂であった。
 泰範が、自分の代わりにと貢じてきた男で、確かに“代わり”とするに相応しく、見目麗しい男ではあったのだが――
 ――泰範のあの煌々しさは、とても見出せぬわ。
 近士と云うのは、すなわち俗人であり、つまりは天台の教義や密のあれこれを語り合う相手とはならぬ、と云うことなのだ。
 美しさでも泰範に及ばず、教義を語る能もないでは、いかで泰範の“代わり”が務まろうか。
 しかし、ともかくも近士男としての紀麻呂は、中々に気のつく男ではあったので、こうして傍近くで使ってやっているのだった。
「……済まぬが、永智に云うて、この文を高島郷まで届けさせてはくれぬか」
 そう云って、最澄は、書き上げたばかりの書状を紀麻呂に渡した。


「憶うに、先に乍にして別れ、信に憤欝を宿す。夜來審かにせず。道體如何。最澄、免を蒙る。但、出世の友は更に他人無し、善悪の事、未だ密ならず。塔院切磋琢磨し、同じく水火に入る。先日、日を歴て、心裏の悩を示し、亦、慰め奉らんが爲に法志を憑み集むるに、忽ち隣院に寄す。未だ深意を知らず。最澄已に老い、亦窮年を極む。同法已に別れ、老前悲を含む。昼夜憂慮す。縁の限りを知ると雖も、追憶極まりなし。
伏して乞う、本願を照察して、遙く此院に留まり、早く弊室に帰りて、倶に仏慧を期せんことを。独証せしむること莫れ。
彼の無漏道、今夜の夢の裏、大境界有り。敢て顕出せず。今より以後、苦楽倶に知り、此宗を住持せん。自心を嘖め、以て本願を忘るること莫れ。
若し、本日帰らずば、永代の計を失う。至心に任えず。謹んで弟子の沙弥・永智を遣し、状を奉り還らんことを請う。努力々々、老僧を棄つること莫れ。謹んで疏す」


 あなたが叡山を下りてしまって、懊悩するあまり夜も眠れぬほどです。どうぞ戻って、ともに天台を広めるためにはたらきましょう――などと綴った書状である。
 ただ、
 ――“彼無漏道、今夜夢裏、有大境界”とは、聊かきわどかったか……
 “夢の中であなたと交歓して、大きな悦びを感じました”――つまりは、“夢で交歓するほどに、私のことを思って下さっているのでしょう”と云っているのだから。
 それ故に、“不敢顕出”と続けたのだが――
 ――お前の心の裡は、よくわかっているとも。
 要するに泰範は、叡山の中でかれに対して不満が囁かれることに、抗議する意味をこめて辞意を表したのだろう。
 だが、最澄の夢の中に出てくると云うことは、それだけ心を残していると云うことではないか。
 ――慰留すれば、戻ってくる。
 そう確信していればこその文面だったのであるが。
 追伸の“極めて用事有り。今日早く帰れ。寄ることなく、左右すること莫れ”と云う言葉にも拘らず、泰範は戻ってはこなかったのだ。
 最澄は、もう一度書状を出した。


「言うに足らざる同法・最澄、對面期する所なり。火に入らば倶に入り、水に没さば倶に没す。卑しき情は常に存す。忽ちに本意に背き、一芥の同法を捨てんとは。
未だ重障の迫る所を知らず。八風猛吹すると雖も、然れども最澄を助け、故にこの念を成す。但、未だ害難の定かならざるを念ずるのみ。
若し下澄を憐れむの御心有らば、此に留まりて倶に苦樂を受けん。之に至りて相憑むに任えず。末の眞言を批る」


 どこにでも、とやかく云う輩はいるものだ、まだ自分のことを思ってくれる心があるならば、叡山に戻って、倶に天台のためにはたらいてほしい――そのような切々とした書状は、しかし、泰範の心には届かなかったものか。
 それどころではない。
 二月ほどたって、ようやく返ってきた返書には、


「員外の弟子・泰範、稽首和南す。
泰範、常に破壊悪行し、徒に清浄の衆を穢す。伊蘭の香林にくさきが如く、魚目の清玉に濫るに似たり。自らの淺生を顧みるに、野莵の耻少なからず。誠に願うらくは、蹔く心を一處に制し、罪業を懺悔せん。謹んで暇を請う。稽首和南」


 泰範の云う“野莵の耻”が、叡山内の誰かれとなく関係――肉欲の――を持ったことを指しているのはわかっていた。
 だが、そもそもそれは、泰範本人に咎のあることではなかった――かれが仏門に入ったのは、その麗しい容姿に惹かれて、周囲で諍うものが絶えぬことに心を痛めたが故であったのだと聞いていた。そうである以上、たとえ僧伽の中でかれをめぐって争いがあったとしても、かれが罪業を感じて暇乞いするような筋ではないはずなのだ。
 それに、泰範が“野莵の耻”を云うのであれば、同じことを最澄も云わねばならぬはずだ。何となれば、この僧伽のうちにあって、泰範と最初に通じ、また誰よりも繁く褥をともにしたのは、他ならぬ最澄自身であったのだから。
 であるのに、
 ――本当に私のことを捨てると云うのか……!
 それほど深く睦んだ自分を――夢に現れるほどに気にかけていても?
 惑乱しながらも、かれは筆をとり、急ぎ慰留の書状を認めた。


「書を見て驚痛す。住持の法、蹔く闍梨に於る。老僧の志、亦、二を用いず。何ぞ忽然として断金の契を忘れ、更って不意の暇を請うや。若し懺罪の事有らば、具に弊僧に告げよ。丈夫、衆口の煩を厭いて、法船を棄捨せんや。誠に願わくは、蹔く室門を閉じて縄床の上に坐し、外出して東去西去することを得ざれ。此れ、深く望むの所なり。謹んで回使・円光行者に附して、以て和南す」


 さらに、最澄の意が伝わるようにと、追記する。


「委曲の志、對面して具に陳べん。今云う所の世間囂塵の事、厭う莫れ。仏事を持せんが爲の故なり。謹空」


 会って、自分の想いを泰範に伝え、また泰範の存念を直接その口から聞かなくては――信じられるものか、かれが自分の許を離れたがっているなどとは。
 書状を送り、最澄はじりじりとしながら返書を待った。
 だが、泰範からの返答はなく、また、かれが高島郷の坊を出て、叡山に戻ろうとするそぶりもない。
 ――何故なのだ、泰範……
 夢に現れるかれは、あれほどやさしく、また気遣いに満ち、それと同時に、最澄を求めてやまぬ風であると云うのに。
 だが、泰範のことをただ嘆いて日を過ごすには、あまりにも最澄は多忙であった。
 何と云っても最澄は叡山の主、天台の座主であり、己ひとりのことにかまけてはいられなかったのだ。
 この年の九月、最澄は、弟子の光定を伴って、摂津の住吉大社を参拝した。一万燈を供え、大乗経――つまり、最澄においては法華経――を誦した。
 その足で南都・奈良の興福寺へ向かい、維摩会に参じた。法友たちと旧交をあたため、南都を後にしたのは十月も下旬のことだった。
 ――そうだ、このまま乙訓寺へ寄ってみよう。
 そう思いついたのは、山背国の境を越えた後のことだった。
 乙訓寺と云うのは、そもそも聖徳太子の創建と伝わる由緒ある古寺で、先々帝――桓武帝――の長岡京遷都のあたりから、京の鎮めとなるとされ、重みを増していた。
 その乙訓寺に、空海が住しているのだ。
 空海は、最澄の譲ってやった高雄山寺の住持となっていたのだが、東大寺別当をも兼務し、昨年には、乙訓寺の別当にも補任されて、現在はこちらに住まっているのだった。
 しかも、この差配は、奈良の僧綱ではなく、今上帝御自らが、わざわざ太政官符を出さしめて実現させたのだと云うことだった。
 ――主上は、空海殿を兄のように思うておられるとか。
 そう云えば、先帝――太上皇――は、空海と同年の生まれと聞く。先帝と争い、それを退けた後である故に、兄上皇と同年である空海に、今上の心が一層傾いているのかも知れぬ。
 そればかりではなく、空海は、詩文の才にも恵まれ、書も唐人を驚かすほど巧みであるのだと聞いていた。ともに入唐した大使・藤原葛野麻呂などは、すっかりその才に感心した様子で、漂着した福州で、空海の文筆のおこした奇瑞を語っていたものだ。
 今上も、空海のそちらの才を愛すること深く、先帝との争乱の最中にも、わざわざ命じてかれに揮毫させたのだと聞いていた。
 今は、あるいは書や詩文の才のみを愛されているのかも知れないが、しかし、わざわざ高雄山寺から乙訓寺へ移さしめる――乙訓寺の方が、京からの便は良い――と云う一点をもって見ても、今上の中で、空海の存在が重みを増しているのは間違いのないことであった。
 ――あの男を奈良に渡してはならぬ。
 そう思えばこそ、最澄は、自ら足を運んで空海に見えようと考えたのだ。
 乙訓寺を訪れたのは、十月も二十七日のこと。
 古びた堂宇は創建から経てきた年月を思わせたが――やや荒れ気味であるのは、あるいはここに、かつて桓武帝の異母弟である早良親王――のちに遠流に処され、配流の地へ赴く途中で憤死した――が籠められていた、そのためでもあるのだろうか。
 空海は、僧房の外まで出て、最澄を迎えてくれた。
「わざわざのお運び、感に堪えませぬ」
 そう云ってにこやかに笑みかけてくる男を、最澄はじっと見つめ返した。
 思っていたよりも小柄な男だ。渡唐前の私度僧時代には、山林を跋渉する行者であったと聞くが、それにしては、法衣に包まれた身体はほっそりとしてすら見える。卵型の顔はあどけなさを残しているが、そこに浮かぶ笑みは老獪さすら感じさせる。それが、時折子どものような笑みに変わることに気づくと、好もしい心がこみ上げてきた。
 如才ない男だと、藤原葛野麻呂は云っていたが――云われるほどでもないのではないかと、一見して最澄は考えた。
「乙訓寺までは随分とかかりましたでしょう。お疲れではございませぬか」
 そう云ってくる顔も声音も、気遣いに満ちている。突然の訪問であったにも拘らず、気を悪くした風でもない。
 これならば、と最澄は考えた。密の教えを請えば、空海は快く応じてくれるのではないか。
「――実は、阿闍梨に密の教えを受けたいと思いまして、お訪ねして参ったのでございます」
 僧房へ通されて相対するや、最澄はそのように切り出した。
 空海は、驚いたような顔になった。
「“密の教え”と申されましても――最澄殿は、既に越州にて、密を授けられたそうではございませぬか」
 聞くものによっては皮肉ともとれる言葉だったが、最澄は気にとめなかった。
「密には二つの部があるのだとか――私はそれすら知らずにおりました。是非にも、伝授して戴きたいのです、正統の密と云うものを」
「……私の弟子になるとおっしゃるか」
「伝法して戴くのに、何ゆえ頭を高うしてなどいられましょうぞ!」
 最澄は、熱をこめて叫んだ。
 そうとも、なりふりを構ってなどいられようか。最澄のもたらした密が、雑な、粗放なものであると知れた以上、ただそれを抱えこんでいるだけでは、世人の嘲笑の的となるばかりだ。一刻も早く、正統の密を受けなければ――せっかく得た“遮那業”の年分度者の枠も、名ばかりのものとなりかねぬ。
 否、そればかりではない、本筋の天台の弘教にも、悪い影響を与えることになるやも知れぬのだ。
 空海は、最澄の決意のほどを、じっと見定めるようなまなざしをした。
 やがて、
「……それほどまでの御決意であれば、わかりました、私で宜しければ、密をお授け致しましょう」
「かたじけのうございます!」
 最澄は、手をついて深々と頭を垂れた。
 とは云え――と、最澄は思う。
 “弟子になる”と云ったところで、最澄も天台の座主であれば、よもやそれこそ小僧のように、空海に仕えよとは云い出されまい。
 最澄は、空海の持つ膨大な密の経典――それがどれほどのものであるかは、朝廷に提出された『請来目録』によって知っていた――を借り出して書写し、あとは印形や所作などの肝要のみを授けられれば、それだけで最澄にはこと足りるはずだ。
 天台と密の間に根本的な差異はない、と最澄は考えていた。天台大師・智邈は、すべての仏教宗派を「五時八教」によって天台、すなわち法華一乗に関連させ、その優劣を論じたが、その教相判釈の中に“密教”は含まれてはいなかった――天台大師在世のころ、隋――唐の前の王朝――に密教が伝えられてはいなかったからだ。
「五時八教」に密を加え、法華一乗のもとに禅、止観、律、密を配し、新たに壮大な体系をつくり上げる――そのために、是非にも空海の助力が必要だったのだ。“遮那業”のみのためではない、もっと大きな“法華一乗”をつくり上げるそのために、空海の持つ密を手に入れなくては。
 空海は、意気ごむ最澄をじっと見つめていた。
 そして、
「……私ももう歳ですので、いつ死んでもおかしくはありません」
 云われた言葉に、最澄は驚いた。
 空海は、確か自分よりも七歳年下であったはずだ。と云うことは、かれはまだ四十になるやならず――もっとも、見たところはそれよりもなお若いのだが――の齢のはずであり。“いつ死んでもおかしくない”と云うには、まだ間があるはずなのだ。
 それを、このようなもの云いになるというのは、よもや空海は、どこか身体の具合でも悪くしているのだろうか。
 最澄の疑問に気づいたかどうか、空海は穏やかに微笑んだ。
「ですから、私の得た密は、貴方に付嘱致しましょう」
「ま、まことでございますか!」
 最澄は、驚きと喜びのあまり、また叫んだ。
 ――望外のことだ。
 とは思ったが、また当然のことだとも思った。自分は、それだけの力を持っているはずだし、そうであればこそ、空海もこのように云ってくれたのだろうと。
 天台と密と、ふたつの座主を兼ねる――しかも、密は空海が唐の密の正嫡であれば、次の座主は唐の密の座主でもある――となれば、最澄がこの国の仏教を統べることになるも同然だ。最澄越州より密をもたらしてこの方、奈良六宗のものたちまでもが、密に焦がれること甚だしく、それ故に空海が、遂に東大寺別当を務めることになったほどなのだ。
 ――これで、名実ともに奈良に打ち勝つことができる。
 最澄は、喜びに胸を震わせた。
 と、
「――阿闍梨
 と声がして、若い僧がひょこりと顔を覗かせた。
「こちらの経巻は、どちらの櫃に……あ」
「何だ、智泉、御客人がおいでだと云うに」
 空海が眉をひそめて云うと、その年若な僧は慌てて一礼し、
「し、失礼致しました」
 と云うや、そそくさと去っていく。
「――失礼致しました。どうにも落ち着きのないもので」
「弟御であられますのか」
 智泉と呼ばれたあの僧の顔は、どこか空海の面差しに似かよったところがあった。
「甥なのです、お恥ずかしい。荷をまとめるのに忙しいとは云え、客人がみえたことにも気づかぬとは、粗忽にもほどがあります」
 溜息をつくが、その口調には、甥に対する愛おしさが滲んでいるようだった。
 しかし、
「――荷を、とは、どちらかへお出かけに?」
「いえ……この寺を引き払おうと思うております」
「何と!」
 空海が乙訓寺の別当に任ぜられたのは、つい昨年のことであったはずだ。しかもこのことは、今上が特に命じて、太政官符を出さしめての差配であったとも聞いている。高雄山寺に東大寺、乙訓寺と、三寺の別当を兼ねる――東大寺に至っては、奈良、否、この国最大の寺院であるのだ――と云うのは、よほどのことなのだ。
 であるにも拘らず、今上から命じられた乙訓寺別当の職を、わずか一年で投げうつと云うのか。
「こちらでは、いろいろ雑音が多うございまして――私は、ただ禅定し、行じることをのみ念じておりますのに、どうもそれがかないませぬ。主上の御心は有難いのでございますが、私も仏道に入った身、中々、俗世の方々のようには……」
 つまり、今上の差配はありがた迷惑であったと云うことか。
 それでも、断ろうにも断り切れず、とりあえず一年だけは乙訓寺に移り、今上の顔を立てた上で高雄山寺に戻ろうと云うのか。
 これは、ただ如才ないだけの人物ではない、と最澄は再び考えた。
 空海は、求道の人であり、真に“阿闍梨”と呼ぶに相応しい人物であるようだ。
「――やはり、阿闍梨こそ、私の密の師に相応しい御方」
 最澄は、深く頭を垂れ、そのように云った。
「どうぞ私に、阿闍梨のお持ちの密の法を、授けて下さるようお願い致します」
「――では、早々に付法致しましょう。……そうでございますな、再来月の十日などはいかがでございましょうか」
 再来月の十日――と云うことは、十二月十日か。
「是非にも!」
 あと一月半ほどで、密の付法を受けることができる。そのことに、最澄の胸は躍った。
 まずは、叡山に戻って、借用している経典を読み返さねばなるまい――最澄は、忙しく頭を廻らせた。
 経典を読み返して付法の時に備え、同時に高雄山寺へ赴く準備も整えなければなるまい。弟子たちにもともに学ばせ、そうだ、泰範にも誘いの文を出してやらなければ。
「では、早速調度を整えて、来月の半ばまでには、高雄山寺へ伺うことに致します」
 喜びに胸を膨らませて云う最澄に、空海は、含みのある笑みを向けてきたのだが――最澄はついに、その意味を知ることはなかったのだ。


† † † † †


ってわけで、最澄の話。
ふふふふ、最澄ファンの人が読んだらどうなのってカンジですよね、ふふふふふ……


ホントは、逸勢の話と迷ったんですが、逸勢の方は何回で終わるかわかんなかったので、多分前中後で終わりそうなこっちからです。
あと、新カテゴリ! “蓮台夜話”は、読んで字のごとくです。仏教と云えば蓮、蓮の台と云えば仏の座ですからね。内容は、あんま仏じゃないけどね、ふふ……


今回もまた1万字overなのは、またしても手紙を多用しているからです。
でも今回は頑張ったよ! 全部自分で読み下し! 一部意味のわからないところは訳文も見ましたが、基本的には自力で読みました。「漢字源」が意外に文字数が少なくてまいった……古い版で良いから「大字典」手に入れるかな……(あ、一部機種で出ない文字は“暫”の異体字的な)
とりあえず、「彼無漏道……」は、多分そういう意味。こんな手紙カノジョorカレシから貰ったら、ドン引きする、よね……


そうそう、北大路欣也主演の映画『空海』見ました。
正直、富士山? 噴火とかあの辺はどうよ(や、特撮は流石……って感じでしたが)と思ったのですが、とりあえず、小川薬子が成田葛野麻呂を押し倒してる(!)シーンで、他はどうでもよくなりました、っつーか。だって! あれは凄いわ! 薬子総攻ですね!! (←いやいや) 職場の勝仲間Mさん(時代劇好き)も、激しく食いついてました。うん、史実だけどさ……あの薬子は凄いわ。薬子×葛野麻呂のあのシーンだけで、DVD買ってもいいかも、とか思ってしまった……
あ、北大路空海も割と良かったですよ。そして加藤最澄――「加藤剛ならついて帰ってもいいかな」と沖田番は申しておりましたが(しかし、北大路欣也も好きなので、迷うけど空海についていくそうな)、しかし、がわがアレで中身が史実最澄なら、北大路空海を取るそうです――結局最澄の性格が駄目なのね……
逸勢はあんま良くないや……嵯峨輝彦天皇もね……この映画は葛野麻呂! 葛野麻呂で!!


そう云えば、夜の闇の彼方で、下っ端大師こと円珍(破れこと一休さんに論戦で負けたから“下っ端”)に、「台密が何か半端でよくわからん」と云ったら、ただ今むきになって台密再構築してるのですが……(しかし、智泉や真雅、真然や日蓮、良弁さんや行表さんetc.とかも口を出してるので、段々“天台の”密教じゃなくなってるような気が……)
それはともかく、こっちも台密の本とか読んでみたのですが、大日経金剛頂経蘇悉地経を入れて三部、ってのの意味がわからん。蘇悉地経って、そんな一部を構成できるような経典だったっけ?
そもそも台密って、結構道教が入ってたりとかして、おまじない色が東密より強いんだよね……で、「何、“天台おまじない部門”?」とか云ったらまたマジギレされましたが。
まァ、どういう“新しい台密”になるのかはわかりませんが、他宗巻き込んでる段で、法華一乗の下の密教、ってのは難しいんじゃないかと……


ああっ、そうだ書き忘れてました(どんだけ眠かった、昨日……)、以前坊主絡み二項で激しく☆を戴きました、ありがとうございました☆☆☆ あまりの数に、一瞬(☆非表示にしてるから)ついてないと思って重ね付け? と思ったのですが、あの数ではそれはありませんよね……
あ、何故☆非表示かと云うと――前に間違って、自分で☆つけちゃったからですよ……恥ずかしいったらありませんね……ふふふ……


さてさて、この項終了。
次はルネサンス――さて?