神さまの左手 39

 カテリーナが死んだ。レオナルド四十三歳の夏のことだった。
 昨年から体調を崩して病院に入っていたのだが、その甲斐もなくの死であった。
 レオナルドは、病院から母の亡骸を引き取って教会に運び、司祭四人と助祭四人に頼んでミサをあげてもらい、ミラノの郊外の墓地に小さな墓を立てて埋葬した。葬儀には、ミラノでのレオナルドの知人たち――その中には、フラ・バルトロメオやフラ・ルカ・パチョーリも含まれている――も参列し、寂しくはないものにすることができた。父や異父兄弟たちにも、むろん死を知らせる手紙は出したのだが――いかんせん、フィレンツェは遠い、知らせがかれらの手許に届くのは、埋葬もとっくに終わったあとになるだろうことは、想像に難くなかった。
 母の死を、どのように書き記したら良いかわからずに、レオナルドは手帖の一頁に、葬儀に関する費用のメモを記していった。

“臘 3リブレ …… S27
 棺代 …… S8
 棺の上の棒 …… S12
 十字架運搬及び建立費 …… S4
 遺体運搬費 …… S8
 司祭四名助祭四名に …… S20
 鐘、本、スポンジ …… S2
 墓掘人夫代 …… S16
 長老に …… S8
 許可証の代として役人に …… S1”

 合計額を書いて、更に思い出した医者への謝礼と、葬儀のための砂糖と蝋燭代を書き入れる。
 ――思ったよりもまったく心が動かないものだな。
 書きながら、レオナルドは考える。
 しかし、それも当然のことか――カテリーナがミラノにやってきたのは一昨年の夏のことだった。それからわずか二年、しかも、かの女がともに暮らしていたのは、たかだか半年ほどのことでしかなかったのだ。体調を崩して病院に入ってからは、ほとんど顔を合わせることもなかった――むろん、見舞いには幾度か行ってはいたが――のだ。
 そもそもが四十年もの間離れて暮らしていた母親である。そこまで親密になれなかったのも当然だし、それ以前に、互いにどう接すればいいのかわからずにいたくらいだ。悲しくなくても仕方がないではないか。
 そう思いながらも、レオナルドは、自分の薄情さを感じずにはいられなかった。
 ――やはり、私は冷たい人間なのだな……
 母親のことで思い出すことと云えば、はじめてかの女がミラノにやってきた時の何とも居心地の悪そうな様子と、それを見た自分の失望感くらいでしかなかった。
 結局のところ、レオナルドは、家族と云うものを本当には理解できないのだろう。そう云えば、フィレンツェの父にももう何年も会っていないが、淋しく思ったことはないし、育ててくれた叔父にも、そう頻繁に手紙を書いているわけでもない。ましてや、幾人もいた義母たちに至っては、思い起こすことも希なくらいだ。
 そんなレオナルドを“薄情者だ”と父などは云うが――確かにそのとおりなのだろう、実の母の死にも、悲しみを覚えることすらないとあっては。
 溜息をついて、手帖を閉じる。
 と、ちょうど買い物から帰ったらしきサライが、ひょっこりと顔を覗かせた。
「何してんだよ、レオ」
 そう云いながら、出来上がってきた洗濯物の籠を床に置き、肩掛け鞄の中から砂糖漬けの果実を摘まみ出して、レオナルドの口に放り込んだ。
「渋い顔しちゃってさ。眉間に皺よってると、年寄りみたいだぜ」
 とレオナルドの眉間を撫でさすり、自分もひとつ砂糖菓子を食べる。
「……私は薄情だと思うか?」
「――って、何へこんでんだよ?」
 もひとつ食べるか? と云いながら、指先が砂糖漬けを摘まみ出す。
 それへ、レオナルドは首を振った。
「……悲しくないのだ」
「あ?」
「カテリーナが死んだことが……悲しいと思えないのだ。母親が死んだと云うのにな」
「――もうあと五日もしたら、悲しくなると思うけど」
 サライは云って、荷物を片づけ、レオナルドの横に腰を下ろした。
「何故、そんなことがわかる」
「ん――まぁ、大体そう云うもんだからさ」
「……ちっとも答えになっておらん」
 文句を云うレオナルドの額に、サライはかるく接吻けてきた。まるで、子どもをあやすかのように。
「信じろって、レオ。あんたは、別に冷たい人間じゃあねぇよ。ただちょっと、葬式とかでばたばたして、悲しいってことに気づいてないだけさ」
「だが、普通はそんなことはないだろう」
 街角で行きあう葬列のものたちは、皆一様に泣きくれているようだった。陰鬱な面持ちで涙をこらえ、あるいは落涙して歩むものたちの列――レオナルドのように、葬儀が終わって金の清算が済んだあとですら、涙を流すこともない、などと云う人間は見たことがなかった。
「拗ねんなよ――あんた、ホントに可愛いんだからな」
 接吻とともに降ってきた言葉に、思わずかっとなる。
「可愛いなどと云うな、“小悪魔”のくせに!」
「可愛いもんを可愛いって云って、何が悪いのさ。それに――気がついてるか、俺、あんたと背丈がちょっとしか違わなくなったって」
 云われてはじめて、最近は目線がほぼ同じくらいの高さになっていたことに気づく。そう云えば、サライももう十六歳だ、もう少ししたら、一人前の大人なのだ。
「レオ……」
 サライは、そっとレオナルドの肩を抱きしめてきた。
「云ったろ、俺、何にでもなるって。あんたの母親にも、友だちにも、恋人にだってなる。あんたの欲しいもんになってやるよ――だから、な、心配しなくったっていいんだぜ? 俺が、一番あんたをわかってるものになるんだから」
 あんた自身でわかってるよりも、あんたのことをわかる人間になるから――サライの言葉に、レオナルドは、ふいと横を向いた。
「そんな人間になぞ、なれるものか」
 人間は、所詮は独りだ。隣りにいても、肩を寄せ合っていても、深く抱き合っていてすら、相手のことを真に理解するなどできはしない。理解していると思えるのは、錯覚ゆえだ。
 わかろうと思い、わかり合えると思う、それ故に、人は闇雲に腕を伸ばして相手と抱き合い、混じり合おうとするのだが――相手の皮膚と云う“壁”に突き当たって、己が独りでしかあり得ないことに気づかされる、それだけのことなのだ。
 人間は独りだ。肉親であれ、腹を痛めた実の母であれ、その“壁”を越えることなどできはしない。そうでなければ、レオナルドとカテリーナの間柄も、もっと違うものになれたはずではないか。
 沈み込むレオナルドに、サライは小さくひとつ笑みをこぼした。
「……そんなことねぇって。レオ、なぁ、俺のこと信じてよ」
 やわらかく絡む声とともに、降る唇。
 額に、頬に、唇に、首筋に――愛撫するかのような、やさしい接吻。
 そのやわらかな感触に、レオナルドは、涙の滲む両目をそっと閉じる。あやされているようなくちづけに、気持が緩んでいくのがわかる。
「――なぁ、レオ……俺、あんたのためなら、何にでもなるよ」
 本当に、レオナルドの母親であったかのような抱擁。
 だが。
「だから、あんたを、俺に頂戴?」
 そんな言葉とともに滑り込んできた指先に、レオナルドは目を見開き、サライを押しのけようとした。
 けれど、それより早く、サライの腕が抵抗を絡め取り――レオナルドを、嵐の中へと投げ入れたのだ。


† † † † †


お待たせ、ルネサンス話、続き。
カテリーナが……って云うか!


えー、ホントは(最初に考えてたルートでは)カテリーナが死ぬ前に、先生とサライの関係をちょっとひねっておくシーンが入ってたのですが――章数的にoverし過ぎ(当初の予定では、カテリーナは22章で死ぬはずだったので)なので、ちょっとひねってここで(二人の関係が転換する前に)カテリーナには御退場願いました。あんま出さないまんまだったなァ。
あんなシーンやらこんなシーンやらあんな科白やら、をすっ飛ばしちゃったので、ちょっと淋しい……が、まァここからがある意味本番ですしね! この話終わっても、2019年までに書いちゃいたい続きの話もありますしね!
頑張っていきたいと思います……


って云うか、すみません、こんな展開で……しかも前置きなしで(以下略。)
まァまァ、この展開は予定通りですが、こんな時に! って云うのはありますね――ホントは↑のとおり、もうちょい前にこうなるはずだったのですが……ううぅむ。
とりあえず、先生の愚痴は、私のJ-COMに対する怒り故です――J-COMの馬鹿。ハイビジョン録らせろよ。対応する機器出せよ。料金のあれこれと云い、呪われればいい。マジで。
ともかく、ルネサンスの次の記事は、折りたたみになるかと思われます……


あ、最近ちょっとスリランカについて調べてます。
が、インド史の本は結構あるのですが、スリランカ……ないわー。
っつーか、当然スリランカでは歴史の本なんか結構出てるだろうと思うのですが、いかんせん日本語訳がね……
とりあえず、東洋文庫に『セイロン島誌』が入っているので、図書館で借りてみたいと思いますが。
何しろ、知りたいのが5c半ばくらいの時期なので、中々正確な資料がね……
最終手段は、スリランカ大使館、か……


ちなみに、スリランカは、5世紀半ばに君臨した“狂気の王”カッシャパ一世絡みです。
この人、すっごい大きな岩の上に宮殿作ったり(世界遺産のシーギリヤ・ロックですね)とか、石の玉座の中に水を流してひんやりさせたりとか、何かハドリアヌス帝に一脈通じるものを感じるので……
これで例のタイムラインは、鬼→(仏革命関係者?)→暴れん坊将軍→伊達の殿→先生→十郎元雅→観阿弥清次→(北条時宗?)→佐殿→御堂関白殿→駄目な阿闍梨聖武天皇聖徳太子→カッシャパ一世→劉備ハドリアヌス、となりました。
さァ、だんだん埋まってきたぞ。次はカッシャパ王と劉備の間、かな……


この項、終了。
次は鬼の北海行、二股口で。