スリランカ史覚書。

シーギリヤっつーかカッサパ王関連の覚書的な。
完全俺得企画ですが、宜しければどうぞ。


† † † † †


えーと、とりあえず手に入れました、『小王統史』=邦訳スラヴァンサ。あ、必要な分だけ国会図書館でコピーですよ、もちろん。何と、『南伝大蔵経』と云うシリーズ(大蔵出版)に入ってた――って、お経扱いかよ!
ちなみにスラヴァンサの前史にあたるディーパヴァンサ=『島史』やマハーヴァンサ=『大王統史』も入ってます。日本で云えば、『日本書紀』や『続日本紀』みたいなカンジかな? (『古事記』はちょっと違うような気が――しかし、ディーパワンサの“ヴィジャヤの来島”なんか見ると、ちょっと『古事記』っぽいか?)
ディーパワンサとマハーヴァンサなんか、他にも翻訳出てるんだよ! 戦前のだけどな! 破塵閣書房(←出版者検索で見たら廃業してるっぽい)と云うところから、『島史』『大史』のタイトルで出てて、国会図書館のデジタルライブラリ(館内閲覧限定)で見れるよ!
って云うか、こんなもん(って云うのも何ですが)まで翻訳してる、この国って一体……オタ気質は昔からなんだろうか……まァ、お蔭さまで私的には助かってますがね……


それはともかく、スラヴァンサですが。
えーと、これ、上座部の僧侶が編纂したらしいと云われてますね。成立は9世紀くらいで、その後13世紀くらいまで随時追記されていったとか書いてあったような……(『南アジア史3 南インド』by山川出版社 世界歴史大系)
上座部自体は、今もスリランカ仏教徒が信じてるアレなんですが、しかし、実は12世紀まで、スリランカの仏教は上座部しかなかったわけではなかったのですね。
そもそもスリランカに仏教が伝わったのは、BC2cごろ、インドはアショカ王の時代だそうです。ディーパヴァンサ(以下『島史』)によれば、アショカ王の王子と王女が僧になって、スリランカで最初に下りたったのがミッサカ山=ミヒンタレーの山頂なのだそうで……何か、空飛んでミヒンタレーに来たらしいですよ。どう云うことだ。
でもって、その時のシンハラ王=デーヴァーナンピヤが王子=マヒンダに土地を寄進して建てられたのが大寺=マハーヴィハーラで、ここが後の上座部の本山的なところになったわけです。まァ、後、都が移ったので、アヌラダプラのマハーヴィハーラは廃れたっぽいのですが。
それに対抗する勢力となったのが、BC1c末に建てられたアバヤギリ・ヴィハーラ。無畏山寺とも訳されるこちらの寺は、ヴァッタガーマニー・アバヤ王によって建立されました。ちなみにこの王は、現存するパーリ語仏典を書写させたことでも名高い(らしい)です。スッタニパータとかダンマパダとか、ああ云うの。
で、アバヤギリ・ヴィハーラは大乗仏教とかにも門戸を開いていたそうで、5世紀初頭にシンハラを訪れた法顕(か、玄奘――どっちだっけ)なんかは、“大寺は小乗、無畏山寺は大乗”とか書き残しているそうな。
さらに遅れて2cに、マハーセナ王によって建てられたジェータヴァナ・ヴィハーラ=祇陀林寺も、立場的にはアバヤギリ・ヴィハーラに近かったそうです。
法顕が訪れた5cはじめには「大寺は比丘三千人、無畏山寺には五千人」だったそうなので、今はほぼ上座部オンリー(仏教以外はもちろんありますが)のスリランカと雖も、大乗が幅を利かしていた時代はあったようです(この辺は『世界の歴史3 古代インドの文明と社会』by中公文庫)。


これがスラヴァンサと何の関係があるかと云うとですね――
カッサパ王の時代(『二王記』)の記述に、“上座部の僧たちは、親殺しから布施を受けることに対する非難を怖れて、カッサパの施しを受けなかった”的な記述とか、“モッガラーナ(=カッサパの弟)が王傘を(上座部の)僧団に返したので、僧団はかれに王傘を与えた。モッガラーナが正式な王としてアヌラダプラに入ると、無畏山寺や祇陀林寺の僧たちも迎えに出た”的な記述とかがあるのですよ。
これは、状況から私が考えたことなのですが、カッサパ王の治世(18年間ありました)では、アバヤギリ・ヴィハーラやジェータヴァナ・ヴィハーラが力を持ってて、マハーヴィハーラは王権と結びついてなかったんじゃないのかな……
と云うのは、上座部の僧がカッサパの布施を拒んだなら、王はもう一方の(恐らく布施を拒まなかっただろう)無畏山寺や祇陀林寺を優遇しただろうし、それ故に大寺側は、カッサパを退けてアヌラダプラ入りしたモッガラーナに、早め早めに手を打ったんだろうなァと思わずにはいられないからです。
モッガラーナが史実的に幾つで王位に就いたのかは定かではないのですが、スラヴァンサの記述を見ていると、何となく、モッガラーナの母親がダートゥセナ王と結婚したのって、王が王位に就いてから(つまり455年以降)なんじゃないかと思うので。や、何かダートゥセナ王、王家の直系じゃないらしく、何かうまいことやってタミル人の支配を退けたから王位に就いたっぽいような雰囲気だったので。
ってことは、多分カッサパの母親は、王位に就く前に、それなりの釣り合いで結婚してた妻で、モッガラーナの母が王家の血を引く姫だったんだろうなと思うわけです。
でね、そう云う場合って、往々にして姫が気位高く、自分の子どもに“正統の王家とは”みたいなことを教え込んでる場合が多くってね――つまり、マハーヴィハーラが王家にとって“正統”の寺であり、他の二寺よりマハーヴィハーラを重んじろと教えてた可能性はあると思うんですよね。でなきゃ、勝利を収めたモッガラーナが、まっすぐに上座部の僧団のもとに赴いた理由がわかんなくなっちゃうと思うのです。


正直、上座部が今現在どんな戒律で動いてるんだか知りませんが、まァ、殺人を犯したものを受け入れるような宗派じゃなさそうだよなァ、とは思います。
大乗はそう云うとこユルいもんね。夜の闇の向こうの坊主どもも、「大丈夫、坊主は誰でもなれるよ!」と云いますが、実際、説話とか伝説とかでも、いろんな人が坊主になってるもんな。熊谷直実とか刈萱堂のアレとかもそうですが、文覚上人! 遠藤盛遠が俗名ってことは、例の『袈裟と盛遠』の話とか考えると大概な人なわけですが――それでも坊主になったもんな! (ところで、『愚管抄』の「四年同ジ伊豆国ニテ朝夕ニ頼朝ニナレタリケル」って、腐女子的に深読みしようと思えばできる記述だよなァ……)
まァ、上座部とかは自分の成道だけが大事(何か上座部って自己啓発っぽい、とか沖田番が申しておりましたわ)なので、そう云う意味では、利他を標榜する大乗の方が、権力と結びつきやすい部分はありますが。
ともあれ、そう云う事情があるとするとね――カッサパ王の治世に対するスラワンサの記述が厳しめ(そして、モッガラーナに関する記述が、大した功績も書かれてないのに大甘)なのも、僧伽的なアレコレが絡んでのものなのかなァと思ったりするわけですよ。
まァ、そもそもが「歴史」なんて勝者が紡ぐものですから、あの当時の負け組なカッサパの記述が厳しめなのも、当然と云えば当然なんだけどね!


しかし、モッガラーナの記述――マジで大甘。
『二王記』の内容は、半分がカッサパの治世の話で、残りのほとんどがカッサパvsモッガラーナの戦いと事後処理なのですが。
カッサパに勝ったと云うことだけでモッガラーナの記述はいっぱいで(モッガラーナの美名は“大勇士”“大力士”って、それだけか!)、その後は“善業を重ね、18年の後に歿した”としか書いてないんですが! 何かちゃんとした事業とかやんなかったのか、モッガラーナ! 駄目じゃん王様として!
カッサパ王は、(『二王記』の前の『十王記』とかでは散々ですが)結構寺を建てたりとかいろいろしたとか書いてあるのに、モッガラーナ
しかも“閻浮州から仲間を率いて”って、それタミル人引き入れてないか、親父=ダートゥセナ王が追い払ったタミル人を! モッガラーナだけがアレじゃないとは思いますが、その後9世紀までの間に、シンハラの宮廷では、タミル人が幅を利かせるようになってたっぽいです……どういうことか。
しかもモッガラーナ、アヌラダプラに凱旋した後、「親父を殺した男に加担した」とか云って、臣下千人を殺し、他にも多数を耳や鼻を削いだり出家させたりしたそうな……そりゃあ、人材がいなくなって、結果タミル人が幅を利かせるようになるわな。阿呆だ。
だから、大甘なスラヴァンサですら、モッガラーナの事績を「善業を重ね」くらいにしか書けなかったんだろうなァ……マジでどんだけ(以下略)。
っつーか、思うんですけども、父親を一人殺すのと、臣下を千人殺すのでは、親一人の方が罪が重いんだね、上座部的には……今の法律とかで云えば、圧倒的にモッガラーナの方が罪が重いのにな! 殺された臣下って、投降してきた連中だと思うので、現在の国際法的に云っても、捕虜を虐殺した的な扱いだと思うんですが――その辺どうなんですか上座部の方。念波でいいんで教えて下さいな……


とりあえず、スラヴァンサ読んですらいろいろ記述に疑問があるようなカンジなので、カッサパ王の話は、政治的&宗教的に可能性として有り得るカッサパ王、と云うのを目指して行こうと思ってます。なので多分、世間に流布されてる“狂気の王”にはなりません。
まァ冷静に考えて、いくら古代国家でも、自分の欲のためだけに王位を簒奪した人間に、18年も統治を許した揚句、シーギリヤに王宮を造るみたいなことはなかったと思うので、ああ云う大規模な事業を可能にしちゃったくらいには、カッサパ王は王として“できる”人間だったんじゃないかと思ってます。むろん、王位っつーか帝位に12年も就いてた暴君コモンドゥスみたいな人間も、古代ローマにはいましたが――あそこは五賢帝時代の直後で、既にハドリアヌスが官僚機構の再編を完了してた後だったし、多少皇帝がアレでも何とか帝国が維持出来ちゃったんだと思うしな……(しかし、マルクス・アウレリウスは、あの馬鹿息子を後継にしたって一点で、その治世の他すべての実績をマイナスにしたと思うんですが……その辺誰も突っ込まないのね。何で?)
まァ、まだ全然練れてないので、話書くのは随分先になると思いますがね――何しろ、人名のサンプルもないからな、古代スリランカ。まァ、スリランカっつーかシンハラ語はインド・アーリア語族に入るそうなので、最悪「カター・サリット・サーガラ」(古代インドの説話集)を参考にしますがね……


† † † † †


しかし、そんなこんなを考えている最中に、何故か先生と思しき夢を見た……
何か、街の道端で遊んでた子ども(男の子)が可愛かったので、「何して遊んでるの?」と(他意なく)声をかけたら、母親と思しき女性が足早にやって来て、子ども抱えて連れてっちゃったと云う――しかも、向こうで「あの人、性犯罪者なんですって」とか噂してるっぽく……「えええぇぇ!!!」って思ったところで目が醒めた。疲れた夢だった……
何かこう、非常に切ない気分(いろんな意味で何もしてないのに!)になったので、もしかして、先生がフィレンツェ去ってミラノ云った理由の何分の一かは、サルタレッリ事件とかその後の密告文による摘発(またしても不起訴でしたが)のせいもあったのかもね。
しかし、密告文……何かこう、もしかしてヴェロッキオ師が好きな誰かのせいなんじゃないかと云う気がしてきた……嫉妬って怖いよなァ……


ってわけで、この項終了。
今度こそ鬼の北海行で!