獅子の山 1

 短い声を上げて、父は石の床に倒れ伏した。
 敷き詰められた石の上に、鮮やかな赫が広がってゆく。
「……カ、カッサパ……おまえ……!」
 驚愕に見開かれた父の眼が、こちらを睨みつけてくる――刺したのは、従兄の剣であると云うのに。
「おま、おまえが……ッ」
 そうとも、自分がそう謀った。従兄である将軍ミガーラと謀って、父王を殺すのだと。
「正嫡ならぬ身で……王位を望んだか……!!」
「――いいえ、父上」
 王位など。継いだところで虚しいだけだ。
 だが、王位を簒奪せねばならぬことがあると云うなら、それがシンハラの運命を左右するのなら、躊躇するわけにはゆかなかった。
「――タミルへ攻めこむ、などと仰せにならずば、このような仕儀にはなりませんでしたのに」
 弱々しくもがく父の傍にしゃがみこみ、そう囁きかける。
「出兵の準備などなさらねば――私とても、このような手段に訴えたりは致しませんでしたものを」
 シンハラの王は、終身制である。仏の教えを奉じるシンハラの民の中で、ほぼ唯一と云っても良い強大な軍を擁し、ひとたびことが起これば、それを率いて国土を守る――しかし、決して戦を好み、徒に出師することがあってはならぬ。それが、この国の王に課せられた責務なのである。
 その王が、守るだけでは飽き足らず、敵地に攻めこむのだと云い出したなら? その“敵”が、あらゆる意味に於いて強大で、自国の軍では勝利を収めることがかなわぬと、わかりきっていたのなら?
 止めるすべはただひとつ、その王を殺して退けるのみ。
 父ダートゥセナは、シンハラを侵略していたタミル人を、本来の居場所――ジャンブドヴィーパへ追い返した、“救国の英雄王”だった。それ故に、その出自に怪しいところがあったにも拘らず、遂にシンハラの王位に就くことができたのだった。
 だが――かつての“英雄王”も、年を経て耄碌したとでも云うのだろうか、 突然“タミルへ攻めこむ”などと云い出して、兵を集めさせていたのだ。
 タミル人は勇猛果敢で、その戦いぶりは凄まじく、戦士ばかりか女子どもや老人までをも殺し尽くすと云う。タミルの戦闘の実際を、自分は目にしたわけではなかった――その頃はまだ赤児だったので――が、まわりにはまだ、その戦いの勇士たちが健在であり、戦いの様を、子守唄のように聞かされてきたのだ。タミルの恐ろしさは、骨の髄まで染みとおっていた。
 タミルとことを構えるなど愚の骨頂、そのような愚行を、父に為させるわけにはゆかなかった。
 父は、息子の顔を見て、決意の固さを知ったものか、今度は従兄に、狂おしいまなざしを投げかけた。
「ミガーラ……おまえッ、それほどまでにサンガーをッ……」
「サンガー姫のことは関わりございませぬよ」
 血塗れた剣を下げたミガーラ将軍は、冷静な声音で云った。
 この従兄は、父の差配で異母妹――かれにとっては従妹――サンガーと結ばれたのだが、暫くして、やはり父の差配によって、引き離されてしまっていた。
 父は、引き離した理由を、従兄の不行状と云ったのだが――自分の見るところでは、従兄の許で“女”として花開いていった己が娘の美しさに、にわかに惜しむ心が起こった故の処遇だったように思えた。その証拠と云うのも何ではあるが、異母妹は、戻ってきてより父を恐れ、後宮の外はおろか、父の姿を見ることすら厭うようになっていた。
 従兄とて、思うところがなかったはずはない。異母妹と別れさせられてから、父に向けられる従兄のまなざしは棘を含み、それは周囲にもそれと知れるほどになっていた。
「姫のことがもとなのではございませぬ。ただ――シンハラのためを思えば、タミルとの戦いは無謀であると考えましたるのみ。後は我らにお任せになり、大いなる安息を得られませ」
「ミガーラ……カッサパ……!!」
 朱に染まった手が伸びて、浄衣の裾を掴もうとする。
 白が朱に染む、その寸前に、
「――御免」
 従兄の剣が振り下ろされ、父は遂に絶命した。
 床に広がった赤のいろが、ゆっくりとどす黒いものへ変わってゆく。
「――王よ」
 短い浄衣を血に染めた従兄が、跪いて、血を払った剣の柄をさし出してきた。
 その意味を計りかねて、従兄の顔を見返すと、ミガーラは、焦れたように剣を押し出してきた。
「取られませ、我が王よ――これよりは、貴方こそが我が主」
 ああ、と思った。従兄が求めているのは、主従の誓いの儀式なのだ。
「……そなたの忠を容れよう。とこしえに、我が剣とならんことを」
 定めどおりの言葉を唱え、剣を返して柄を向けてやる。
天神地祇に誓いまして」
 剣を押し戴いて、従兄は刃に額をつけた。
 そうして、それを鞘に納め、ゆっくりと立ち上がる。
「……これからが大変ですな」
 そう云ったその口調は、最早これまでの従兄弟同士のそれではなく、臣下が王に云うに相応しいものだった。
「宮中はともかくとして、坊主どもがな。――特にマハーヴィハーラのものどもは、私を“父殺し”と誹るだろうよ」
 マハーヴィハーラ――大寺は、シンハラに仏教が伝えられた折、この国で最初に建てられた寺院である。それ故に、“王権の承認者”を自認し、他の寺院――特に無畏山寺=アバヤギリ・ヴィハーラや祇陀林寺=ジェータヴァナ・ヴィハーラ――を見下す風があった。
「ですが、タミルの地に攻めこむなどと云うことになれば、この島が再びあのものどもに蹂躙されることにもなりかねませぬ。タミルとともに、かのバラモンどももやってくるは必定、そうなれば、あのものどもとて困難な事態に陥ることとなりましょう。今は何と云われようとも、シンハラのためであったのだと、いずれあのものどもも知ることとなりましょうぞ」
 そのように従兄は云うが――それほど楽観的に考えることはできそうになかた。
「どうであろうかな。――ともあれ、父を葬ってやらねばならぬ。“英雄王”に相応しい威儀を整えてな」
 そう云うと、従兄は頷いて、配下のものを呼び、父の骸を運び出させた。
 床が清められ、凶行の痕が消されてゆく。
 だが、だからと云って“父殺し”“主殺し”と云う自分たちの罪が、床の血痕と同じように拭われて消える、などとは考えるべくもなかった。
「――さて、正妃様と、我が弟モッガラーナの処遇を決めねばなるまいな」
 父の今の正妻――正妃たる、王家の正しい血を引くサンガミッター妃は、愛らしくはあるが、ひどく気位の高い女だった。かの女は、下賤の女の産んだ王子である自分が、父を殺して王位を簒奪したことを憎むであろうし、必ずや、まだ幼いモッガラーナの方が正嫡であると云い立ててくるに違いない。
 だが、まだ十五でしかない弟に、父の出したタミル遠征の命が撤回できるとは思えなかったし、サンガミッター妃もまた、政の機微に聡いひとではない。父の下した命に疑問をおぼえるとは思われなかった。
 いや、それだけならばまだしも。かの女は、この賤しい腹から生まれた“王の子”を、“父殺しの簒奪者”などと云い立てて、この先国内の混乱のもととなる可能性が高かった。
 となれば、
「……やはり、追放しかないか」
 サンガミッター妃は、確かに父より前の“正当なる王統”の血を引いてはいたが――父とても、確実なのはシンハラの民であることだけ、と云う、怪しげな出自の“王”だったのだ。シンハラの民たちは、自分の母の血統など――それがタミルの民であると云うなら話は別だが――さほど気にするとも思われなかった。
 シンハラの民が求めているのは、国をひとつにまとめ得る力を持った“強い王”だ。それは、実際の剣の技や軍略である必要はない、シンハラをひとつにすることさえできれば良いのだ。
 自分にその力があるか、心許ないところはあったのだが――しかし、少なくともサンガミッター妃と、かの女が擁するモッガラーナの手に王笏を渡すよりは、まだしも自分の方がましだろう、とは思わずにはいられなかった。
 だが、サンガミッター妃が、自分に王位を継がせることを了承するとは、とても思われない。
 いや、反対するだけならばまだ良い。サンガミッター妃の実家は、王家に連なる旧家として、大きな力を持っている。その家長であるハリダーサは、己の勢力を保ち、またさらに拡大するために、サンガミッター妃を支持するのではないか――
 シンハラを二つに割ることを避けるためにも、争いの芽は、小さいうちに摘んでおくに如くはないのだ。
「万全を期するならば、妃とモッガラーナ様にも、死を賜るべきではございませぬか」
 要するに“殺してしまえ”と従兄は云うが、父を殺して王位に就く上に、義母や幼い弟までも死に追いやったとなれば、信心深い仏教徒であるシンハラの民たちは、自分から心を離してしまうやも知れぬ。
 犠牲は最小限にとどめておくに限る。何、シンハラの外に追放してしまえば、後ろ楯をなくした女子どもに何ほどのことができようか。
「――やはり追放だ。ジャンブドヴィーパに、タミルの地に流す」
「……お甘いと思うものも多うございましょう」
「だが、民は厳格さばかりをは望むまい」
 自分が“父殺し”であれば、なおのこと。
「寛容であることを示してやらねば、臣どもとても、心安く私に仕えることなどできるまいよ」
 いつ何時切り捨ててくるともわからぬものを上に戴いて、どれほどのものたちがその真価を発揮することができようか。のみならず、もしも戦いになることがあったとしたら、一体どれほどのものたちが、死にもの狂いで戦ってくれるだろうか。
 父のもたらしたシンハラの平穏を、短い間で終わらせてはならぬのだ。いく久しい平穏こそが、父を殺して王位に就く、自分に課せられたつとめであるのだろうから。
 従兄は、溜息をついた。
「そこまで仰せられるのであれば、致し方ありませぬ。御心に沿うように致しましょう」
「すまぬな」
「それが私のつとめにございますれば。……ですが、他のものたちを説き伏せるには、中々骨が折れましょう」
「已むないことよな」
 王位の安定と云うことから云えば、確かに弟の存在は煩わしいものになるだろうから。
 と、誰かが足早にこちらに向かってくる。ぱたぱたと云う足音が、まっすぐにこちらへとやってくるのが聞こえる。
 まなざしをそちらへと廻らせてみれば、
「――ミガーラ」
 従兄と同じ名の宰相は、両手を広げて近づいてきた。
「見事果たされましたこと、祝着至極に存じ奉ります」
「父を殺すが“祝着”とは、世も末とはこのことかの」
「これはしたり、失言でございました」
 宰相は、ぴたりと額を打ってきた。
 この男は、ハリダーサほどではないが名門の出で、その抜け目ない性格と謀略に長けた才知の故に、父に抜擢されて宰相の座に就いていた。この男の妹が、妻の一人であるムティーである。
「……ともあれ、新王御即位につきましては、御喜びを。これで、タミルとの無益な戦は回避されましょうな」
「ああ。……それさえなくば、“父殺し”の汚名を着ずとも良かったのであろうが……」
「そして、モッガラーナ様が王位を継がれることになりましたでしょうな」
 宰相は、肩をすくめた。
「正直に申し上げまして、モッガラーナ様ではあまりに危うございますな。あの方は、御歳を考えましても、おつむの方が少々幼くてあらせられる。――私は、殿下、いえ、陛下に期待し申し上げておりましたのですよ」
「――それ故に、ムティーを寄越したのだな」
「然様でございます」
「……まぁ良い」
 その言葉とともに、かるい溜息が唇からこぼれた。
「そなたが余を盛りたててくれようとしていることは、よく承知しておる故に」
 それが、冷静に己の利を計った上での判断であることも。
「ありがたきしあわせ」
 宰相は、従兄の疑念に満ちたまなざしには気づかぬかのそぶりで、笑みを浮かべて頭を垂れた。
「群臣の取りまとめについては、そなたに一任しよう。ハリダーサが何やら云い立てるやも知れぬが、荒立てることなく封じこめよ」
「お任せあれ」
 宰相は恭しく一礼すると、するりとその場を去っていった。
「……あの男は、どうも好きませぬ」
 その姿が見えなくなるや否や、従兄が吐き捨てるようにそう云った。
「副宰相のウパティッサの方が、老齢とは云え、信がおけるのではございますまいか」
「だが、あの男ほど謀略や調停に長けたものはない。ハリダーサの力を抑えこまぬうちは、あの男の力はどうしても必要なのだ」
 副宰ウパティッサは、確かに誠実な男ではあったのだが、人々の論を一方へと誘導せしめるような、老獪さには欠けていた。
 “父殺し”と云う罪を犯した自分が、無事に王位に就きおおせるためには、誠実さだけでは足りぬ、時には人を欺くような、したたかさと狡猾さが必要なのだ。
 そして、宰相ミガーラには、その二つともが備わっている。それが、今ひとつ信をおき難い理由になっているのは確かだったが、しかし、またそれ故に、あの男を切り捨ててしまうこともできないのだった。
 従兄は、この判断に不満があるようだったのだが――しかし、主従の誓いをかわしたからには、“主”の意を汲まぬわけにもゆかぬ、と考えたものか、この件については口をつぐんだ。
「――ともかくも、これからが正念場でございますな」
「そうよな」
 そうとも、これからが正念場なのだ。
 自分を批難するであろうサンガミッター妃と弟モッガラーナをタミルへと追放し、その処分に異を唱えるであろうハリダーサの一派を沈黙させ、“父殺し”と誹って来るであろう僧侶たち、特にマハーヴィハーラのものたちを、うまく懐柔しおおせねばならない。
 タミルとの戦いの可能性は薄れても、安心し切ってしまうわけにはゆかぬ。敵は、シンハラの外ばかりにいるわけではないのだ。
 だが、
「……ともかくも、今宵は面倒はこれまでにせぬか。私は疲れた――娘たちの顔が見とうなったよ。従兄殿は、我が妹の顔を見てはやらぬのか?」
 そう声をかけてやると、従兄の顔に、わずかに血の色があがった。
 父によって従兄と引き離されたその後も、異母妹は、元の夫に心を寄せていた。父に隠れて忍び会うのを、手伝ってやったことも一度や二度ではない。
 二人の間を引き裂いた父がいなくなった以上、従兄と異母妹は、晴れて公の場で顔を合わせることもできるだろう。ただ、再びの婚姻は、諸々あって難しいだろうが。
「――ですが、私はこの有様でございます」
 従兄は云って、血に濡れた浄衣を示してきた。
「そのようなもの、替えれば良いではないか。――行くのか、行かぬのか」
「……お伴せぬわけにはまいりますまいな」
 すこし顔を赤らめたまま、従兄はぼそりとそう云った。
 そうだ、そうやって素直になればいいのだ。もはや、かれらを阻むものはいないのだから。
「では、参ろうか」
 娘たちと異母妹の待つ後宮へ――そこにはまた、サンガミッター妃や弟もいるのだけれど。
 頷く従兄を目の端に捉えて歩み出す。心を苛む罪の在り処には、そっと蓋を被せながら。


† † † † †


ってわけで、何とすみません、カッサパ王の話……(汗)


えーと、本当はね、鬼の話を書こうと思っていたのです、が、何だかんだで時間がなくて(鬼の話は、一発書きだから逆に時間がかかるのよ……)、そいじゃ3話目の上がってる最澄の話でも、と思ったんですが、あれは何しろ打ちこみが面倒くさい……漢字変換がね……文字数も圧倒的に多いしね……
ってわけで、変換が簡単で、とりあえず下書きの上がってたこの話になりました。鬼の話待ってた方は御免なさい(汗)。


えーと、新カテゴリ作ってますが、この“獅子国遺文”は、「獅子の山」だけしか書きません。だってネタがないからな!
今回は、先生の話にもまして、複数視点で進んでく(今のところ、カッサパ王、護衛、姫の三人は確定)カンジなので、かなり長くなると思います……大丈夫か自分。書けんのか。
ちなみに、既出の人名、『スラヴァンサ』に実際に(当該時期に)出てくるのは、カッサパ、モッガラーナ、ダートゥセナ、ミガーラの4名のみです、ふふ……サンガミッターなんて、ホントは男性の名前を女性っぽくした(サンスクリットプラークリットでは、男性名はaで終わることが多く、女性名はāやīの長音で終わる)だけなんですよ、ふふ……
ミガーラが二人いますが、『スラヴァンサ』の記述とか考えると、どうも同じ名前が二人いた、あるいは良く似た名前がいた、と考えざるを得ないので。何か、『スラヴァンサ』のミガーラって変な感じなんだよね、『十王記』と『二王記』では性格違ってたりするカンジだし。っつーか、そもそも『十王記』には、“ミガーラ”とは書いてないんですが。
まァ、『スラヴァンサ』の成立は9世紀だそうですから、それまでに伝承の中で混同が起きてても不思議はないわけだしな。
まァ、同じ名前で混乱しそうですが、“従兄”“宰相”で分けますので、宜しくお願い致します。


でもって、いろいろ『スラヴァンサ』と違ってます(ってもわかんないでしょうけどね、その辺にない資料だし)が、まァその辺は、“政治的&宗教的に有り得るカッサパ王”ってことで。本流から外れた人間ってのは、歴史の中でこう云う風に歪められたのかもしれない、って云う、まァ実験的な?
まァまァ、適当にお付き合いいただけましたら幸いです。
っても、この話の更新が、一番ランダム&ゆっくりになりそうなんですけどね……が、頑張りたいです……(汗)


と、とりあえずこの項終了で。
明日からお山に行ってきます! (←え)