北辺の星辰 67

 四月二十九日、歳三たちは、二股口から箱館へと撤退した。
 敗退したわけではない。箱館との途上にある矢不来が落とされたため、孤立することになる二股口の陣を捨てて戻るよう、榎本から通達があったのだ。
 ――ま、負けたわけじゃあねぇからなぁ。
 どちらにしても、撤退は時間の問題であることはわかっていたのだ。
 二十三日から丸二日にわたって続いた二度目の戦闘でも、南軍は、二股口を抜くことができなかった。途中、応援部隊の長である滝川充太郎による無謀な作戦により、犠牲者の出たこともあったけれど、概ね自分たちは負けてはいなかったのだ。
「我らが負けたわけではないのに、撤退ですか」
 大川正次郎や大島寅雄などは、そう云っていかにも悔しげな顔をしていたが、歳三としては、ここで切り上げた方が良いことはわかっていたし、何よりも補給が怪しくなる前に撤退してしまいたかった。
「そろそろ、銃弾が危ないのではないかと思うのです」
 と云ったのは安富才助。元勘定方は、直接かかわっているわけではない箱館府の懐具合も、何とはなしに察せられるもののようだった。
「我が軍の劣勢は明らかですから、商人どもも、そろそろあからさまに鞍替えをはじめる頃でしょう。まして、外国商人などは云わずもがなです。本国から、箱館から退避するように通告が出されているらしいではありませんか。そんな中に金をつぎ込む阿呆は、いかな異人と雖もおらんでしょう」
「商人ってなァ、稼いでなんぼのもんだからなァ」
 利に敏いと云うか、そのような連中なのだ。
「負けるとわかった方に、金を出す阿呆は、確かにあるめェよ。――ま、仕方ねェ、それが道理ってもんだからな」
「せめて、矢不来がもうすこし持ち堪えてくれれば良かったのでしょうが……」
「そうだとしても、遅かれ早かれ撤退することになっただろうさ。敵は、もはや日の本すべてを手中にしてやがるんだからな」
 それとも、箱館府が、日本全体を敵に回してしまったと云うべきか。
 どちらにしても、自分たちに味方が現れることは最早ないと云うことは、明白な事実となっていた。
「――市村を送り出しておいてよかったぜ」
 最後まで抗いながら、箱館を後にした少年のことを思う。
 かれが英国船アルビオン号に乗って、蝦夷地を離れたのはもう十日ほど前の話だった。
 もしもこれから先、箱館から誰かを脱出させるとなると、大変な労力と金を使わなくてはならなくなるだろう。そうなる前に、あの少年だけでも逃がすことができたのは、僥倖と云わねばならなかった。
「今頃、どのあたりまで行ったでしょうかね」
「さァて……江戸まで行ったか、まだ仙台あたりか」
 八日に出航のはずだったアルビオン号は、機関の不具合だか何だかで、十五日まで箱館に留まっていたから、まだ江戸までは行きついてはいるまいが。
「何にしても、若いのは落ち延びさせてやりてェからなァ」
「その割には、田村君のことは骨折りなさいませんでしたね」
「あァ……銀の奴ァ、愛嬌がある、たとえ南軍に捕まったって、巧くやれるだろうさ。だが、市村はなァ……」
 無愛想だった少年の、睨むような大きな目を思い出す。
「懐こくは、ありませんでしたからねぇ」
「まったくだ。あれじゃあ、とっ捕まったら、碌なことにァなるめェよ。玉置も、おどおどしちまって、余計に乱暴狼藉されそうだったしな」
 病死したことを幸いだ、とは云いたくなかったが、それでも、これからはじまるであろう負け戦の先を思えば、少年たちのことを気にやまなくて済むのは、歳三にとっては幸いだった。
 矢不来が落ち、二股口から撤退するとなれば、最早この先は、箱館での決戦しか残されてはいない。箱館府の味方がどこにもない以上、それは、本当の“最後の戦い”にならざるを得ないのは明確な事実だった。
 勝ち目のない戦いだと思う。
 箱館府は、かつては開陽を失い、また幾たりもの軍艦を失った。まだ室蘭に海軍の拠点はあるものの、陸の拠点はもはや箱館を残すのみ。その中での箱館の戦いは、最終決戦であるだけに、壮絶なものになるであろうことは目に見えていた。
 ――さて、ここからが俺の本当の仕事ってわけだ。
 かつて江戸を脱する時に、勝海舟から受けた密命――幕軍を敗北させ、己も死ねと云う――を果たす時がやってきた。
 この上は、すみやかに箱館府を敗北へと導き、その過程で、己もまた死なねばならぬ。今は駿府に移った徳川家と、それに仕えるものたちを生かすため、ここにある“反乱分子”は潰さねばならぬのだ。そして、薩長の輩から怖れ忌まれる自分もまた。
 だが、敗北するにしても、あまり士気の下がるような真似は得策ではない。そう云う意味では、今度の撤退は悪くない時機だと云って良かった。
 何故ならば、この撤退までに、歳三は厳密な意味では敗北していなかったからだ。負けを経験すれば、士官も兵卒も意気消沈し、前向きな気分で戦うことはできなくなる。そうなれば、なし崩しにずるずると敗北、全面降伏とならざるを得ず、あとに何がしかのもやもやとしたものが残ることになるだろうからだ。
 潔く負けを認めるためには、皆が闘い切ったと云う心を共有しなくてはならぬ。そのためにも、箱館への撤退が、“皆がすべて敗北したから”と云う理由では拙かったのだ。
 大鳥の戦下手のお蔭で、歳三たちは無敗のまま箱館へ撤退することができる。そのことは、この先の箱館市街戦を闘い切るための力になるだろう。自分たちはまだ敗北していない、まだ戦える、南軍を箱館から押し戻すこともできる――その幻想が、皆に力を与えてくれるはずだ。
 そしてそれは、歳三を“軍神”と見る見方に、一層の根拠を与えるだろう。
 その“軍神”が死ねばどうなるか――それまで勝っていただけにより一層、そこでの士気の下がり方は激しいものになるに違いない。
 それが、戦いに終止符を打つことになってくれれば、これ以上のことはないのだ。
「――奉行、どうなさいました」
 含み笑う歳三に、安富が怪訝なまなざしを向けてくる。
 それへ、
「いいや、何でもねェよ」
 と答えを返し、それでもにやにやと笑いをこぼす。
 その様を、安富の探るようなまなざしが見つめてきたが、歳三は構わずに、撤退の手順を決めるため、近隣の地図を大きく広げた。


† † † † †


お待たせ、鬼の北海行、続き。
もう二股口撤収します〜。(更新止まってたのは、会津に行ってたせいもある、ことにしておきたい……)



いや、延々書こうと最初は思ってたんですけれども、何かもう、4章分も書いたし、もういっかな、とか。
第二次二股口の闘いは、例の滝川さんの蛮勇がどうたら、と云うながれなので、残虐シーンも出てくるし、あんま気が進まなかった、ってのもあります。
あと、まぁよっぽど特殊な戦いか、接近戦・肉弾戦でもない限り、戦闘って似たようなシーンの繰り返しなので、もういっかなーと。
この後は、箱館に帰って伊庭と会ったり、武蔵野楼の飲み会があったり、中島さん中島さん! だったり、です。ふふふふふ。



ところで。
すっかりアレしてたのですが、今年、新撰組結成150年だそうで――そうでしたか。
それで最近、結構新撰組の特集組んでる雑誌とかあるんだなァ……でも、月マガの『黒猫Dance』は終わっちゃったけどね、『アサギ』もね。
とりあえず、自分的に今注目してる新撰組漫画はヒラマツミノルの『アサギロ』だけなので、それさえ続いてくれればもういいや。あ、忘れてた、『PEACE MAKER鐡』もですね。早く再開〜。
個人的には、6年後の“明治維新150年”の方が。
あと、戊辰戦争終結150年。この年は、ダ・ヴィンチ没後500年でもあるので、より一層ね!



そう云えば、例のタイムラインが変動致しました。
鬼→ロベスピエール暴れん坊将軍→伊達の殿→先生→十郎元雅→観阿弥→佐殿→御堂関白殿→阿闍梨聖武天皇聖徳太子→カッサパ王→劉備ハドリアヌスアショカ王→アッシュールバニパル王、です。時宗消えた……
鬼の前がロベスピエールは、何かもう、そんなカンジかな、と……理論に凝り固まるとロベスピエールで、実践に偏向すると鬼、みたいな感じと云うか。アレだ、ロベスピエールの「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力だ」を実践すると、例の局中法度になるかと思われ。
ま、人間、規律と罰則がないと低きに流れますからね……うん。
総司からはじまるタイムラインも考えなくはないのですが、そうなると、総司→サン・ジュスト→有馬氏倫(吉宗の家臣で“狼”とか云われてた)→???→サライ→?→?→九郎たん→行成?→泰範→?→小野妹子→??→?→アンティノゥス→?→?、となるかなーと。“?”は、不明か名前不明です。どよ。
このタイムラインのお蔭(?)で、やっと仏革命の力学的なことがわかってきたので、次はちょっとそれについての考察を書きたい。仏革命も20年越し! なので、うん。
あ、島田とザキのタイムラインもあるよ。
島田→フーキエ・タンヴィル(何かそんなカンジ)→?→左馬助?→?→?→安達藤九郎盛長→?→杲隣→??(聖武天皇の墓守したひと)→秦河勝→??→?……、ザキ→クートン→?→黒脛巾のトップ(名前忘れた)→?→?→梶原景時→?→実慧→?……、ってカンジです。フィーリングフィーリング。



この項、終了。結局3ヶ月近くかけて一章かよ……(汗)
次は年内ラスト、フランス革命考察〜。