左手の聖母 2

 報復はすぐにきた。それも、まったく思いもよらないかたちでもって。
 その日、ミケランジェロは、作業を終えて、己の部屋に戻るや、行き倒れのように床で眠ってしまったのだ。
 彼の常として、一度眠りにつけば、耳元で喇叭が吹かれようと目覚めないほどであったから、床の上でひたすらに眠っていた。
 目が醒めたのは、夜明けをすこし過ぎた頃。
 寝過ごしたかと思いながら、眠い目をこすり、小用に立つ。
 厠に立って、用を足し――ミケランジェロは絶叫した。
 己の逸物が、用を足すにつれ伸びてゆくのだ、にょろにょろと、それ自体が別の生物であるかのように。
「わああああぁぁぁッ!?」
 どたばたとひっくり返って、長く伸びた逸物を見つめ――そこでようやく、はっきりと目が醒めてきた。
 そうして気づく、長く伸びたものは、何かの腸を洗った薄い膜のようなもので、伸びたのは、己の小便が中に溜まっていったからなのだと――つまりはミケランジェロは、何者かの仕掛けた悪戯に、ものの見事にひっかかったのだと。



「俺の寝てる間に、誰か来てなかったか!」
 身支度を整え、工房に下りて助手たちに問いかけると、
「ああ、レオナルドのところの、例のサライが来てましたよ。先生の部屋に上がっていって、“寝てたから、また来る”と云って帰りましたけれど――」
 助手は云って、それから、ミケランジェロの顔を窺うように、
「……あのぅ、何かされたんですか?」
 と問いかけてきた。
「――いや、何でもない」
 まさか、寝ている間に、己が逸物に、腸詰よろしく皮をかぶせられたなどと、そんなことが云えようはずもない。
 助手たちに怪訝な顔をされながら、ミケランジェロは、
「ちょっと出てくる」
 と云い置いて、工房を出た。
 やられたことを騒ぎ立てるのはみっともない、が、このまま黙って済ませるには、あまりにも頭に血が上りすぎていた。
 ここは、張本人を捕まえて、この怒りをぶつけなければ、鑿を握る手が狂いそうだ。張本人――レオナルドの“弟子”、小悪魔サライを。
 レオナルドがいつも連れている“弟子”サライ――あの、サンタ・トリニタ寺院の前でも、レオナルドの隣りにいた。
 金茶から黒褐色までの、豹の毛皮のように斑の美しい巻毛、鳶色に紺碧の筋の混じった、不可思議な双眸。女のようにやわらかな面差し、特に、横顔の、額から喉にかけての線などは、完璧なまでに美しかった。
 レオナルドは、その“弟子”に、いつも華やかな装いをさせて連れ歩いているのだと聞いた。実際、ミケランジェロが見た時にも、サライは緑の上着と薄緑の靴下、黒のフランス風のケープ――ゆったりとした、膝丈の――をまとって立っていた。美貌で知られたレオナルドと並んだ様は、さながら一幅の絵画のようで。
 だが。
 ――よくも“サライ”とつけたものだ!!
 “サライ”――“小悪魔”。モルガンテの詩の中に出てくるその名前は、手癖の悪い少年にレオナルドが与えた呼び名だったのだが、まさに的を射た命名だったと云うわけだ。まったく、あんな悪意に満ちた悪戯をするなどと!
「レオナルドはいるか!」
 サンタ・マリア・ノヴェッラ寺院に飛びこんで、レオナルドの弟子たちに向かってそう叫ぶ。
「師は、市庁舎へ行っておりますが――何か?」
「では、あのクソがきは!」
「クソ――サ、サライですか? あれは、師の供で、やはり市庁舎に……」
 と云う声を、
「俺なら、ここにいるよ」
 瓢げた声が遮った。
 振り返った先の戸口には、紛れもない“小悪魔”の姿。
 今日のサライは、黒の上着に薔薇色のシャツと同色の靴下、相も変わらずの伊達男振りだ。
 ミケランジェロは、思わず絶叫した。
「貴様! よくも先刻は……」
「先刻? 何かあったっけ?」
 空とぼけて云いながら、にやりと笑う、美しい顔。
 だが、ミケランジェロにとっては、それは悪魔の微笑以外の何ものでもありはしなかった。
「ふざけるな! 貴様が、あ、あんな……」
 掴みかからんばかりに叫ぶと、
「まぁまぁ、ここで騒ぐと皆の邪魔になるだろ? 向こうで落ち着いて話そうぜ」
 サライはそう云って、控えの間にミケランジェロを引っぱりこんだ。
 そうして気づいたのだが、サライはひどく背が高かった。ミケランジェロは背が低くはあったのだが、それにしても、ほぼ頭ひとつ分高い男、などと云うものには、ほとんどお目にかかったことがない。しかも、その長身の上にのっているものが、少女と見紛う美しい顔であったから、余計に目を引くのだ。
 レオナルドの隣りにいた時には、それほど気にもしなかったのだが――しかし、そう云えばあの男も、どちらかと云えば背は高い方だったから、それで気にならなかったのかもしれない。
 “小悪魔”に見下ろされる、それもまた、ひどくミケランジェロの気に障ることだった。
「はい、ほら坐って。お茶でも入れるからさ」
 と、長椅子に力ずくで――ほとんどそんな感じだ――坐らされるのにも、腹が立つ。
「俺は、茶を飲みにきたわけじゃない!」
「そんなこと云わずにさ。――これ飲むと、気分が落ち着くんだぜ」
 と、香草茶の入った器を渡された。
 カミツレの花のやわらかな香りは、普段であれば、ささくれた心をなだめてもくれたろうが――“小悪魔”を目の前にしての、この強い怒りの念には、まったく何の効果もありはしなかった。
 それでも、無言で香草茶を飲み干す。
「――で? 俺に何の用?」
 椅子にかけて、にやりと笑う。美しい“小悪魔”の貌で。
「貴様、今朝、俺の部屋に来ただろう!」
「ああ、行ったね。あんたが寝てたから、さっさと帰ったけど。――それが何?」
「その時、お、俺に何か……」
「俺が、あんたに、ナニかしたってぇの?」
 “何か”。その“何か”を、今ここで口にするだなど!
 ミケランジェロが黙りこんでいると、サライはまた、にやりと唇の端をつり上げた。
「云えねぇよなぁ、正体もなく眠りこけてて、俺があんたのナニに小細工しても全然気づかなかった、だなんてさ」
「!!!!!」
 怒りで息が止まりそうだった。
 あまりのことに口もきけないでいると、サライは、
「大丈夫か? ほら、もう一杯これ飲めよ」
 と、そこだけは妙に甲斐甲斐しく香草茶を注いできた。
「――貴様と云う奴は……!」
 一息にそれを飲み干して、おさまらぬ怒りに声を震わせる。
 が、サライは悪びれる風もなく、
「だって、あんたが悪いんだぜ? うちの先生いじめるからさ」
「よもや――あれは、あいつの指示でか?」
 あいつ――レオナルドの?
 だが、その問いかけに、相手は一瞬きょとんとして――次いで、膝を叩いて笑いころげた。
「馬っ鹿だなぁ、そんなわけねぇじゃん! うちの先生、兎みたいな心臓なんだからさ!」
 笑わすなよもう、などと云いながら、まだ大声で笑っている。
「小僧!」
「……俺、あんたよか五つ下なだけなんだけどな?」
 目尻に溜まった涙――笑い過ぎだ!――をぬぐいながら、サライは云うが、ミケランジェロはもちろん無視した。
「あいつでないなら、小僧、あれは全部、お前の仕業だと云うことか!」
「だから、小僧じゃねぇってば。――そうさ、俺だよ。先生は何も咬んじゃいない。……でも、あんたがいけないんだって。先生いじめなきゃ、俺だってあんなことなんかしなかったのにさ」
 唇の端をつり上げる。先刻までの“小悪魔”の貌ではなく、もっと真剣な、凄みを帯びた――情容赦のない表情。
「わかった? 今後は、うちの先生いじめないでくれよな。そうでないと、俺にも考えがあるから――どういう意味かはわかるよな?」
 気圧されて、ミケランジェロは頷いていた。
「あ、ああ……わかった、今後はああいうことはしない」
 とは、断言し切れなかったので、慌てて「ようにする」とつけ加える。
 すると、サライは、その美しい貌に、天使もかくやと云う、こぼれるような笑みをたたえた。
「頼んだぜ。――じゃ、俺はもう戻るよ。先生が探してるとヤバいからな」
 そう云って、サライは薔薇色の上着をふわりと翻した。
「それじゃ、失礼致します。御機嫌よう、マエストロ」
 宮廷風の完璧な礼をするや、踵を返し、部屋を出てゆく。
 が、扉あたりで思い返したように振り返ると、子供のようにひらひらと手を振ってよこした――“小悪魔”の笑顔で。
 ミケランジェロは、暫、呆然とそれを見送って――やがて、はっと我に返り、
「……小僧!」
 怒声を上げた。
 遠くから、サライの笑い声が聞こえてきた、ような気がした。
 釈然としない気分――多分に怒りを含んだ――のまま、残りの香草茶を飲み干し、サンタ・マリア・ノヴェッラ寺院を後にする。もう二度と、ここに来ることもないだろうと思いながら。

 ミケランジェロが工房に戻ると、そこには、フィレンツェ政府からの使者が待っていた。


† † † † †


はい、みけらにょろの話、続き。


サライ登場〜。こっちのサライが元なんですが、まぁまぁ、『神さまの〜』とあんま変わんないんじゃないかと思うんですが――いかがでしょ。
これから、ラファエッロは出ないけど、ヌムール公ジュリアーノとかナントカ公(憶える気ない)ピエロとかがちらほら出てきます。先生の第二フィレンツェ期〜アンボワーズまで+ミラノのサラと云うカンジ。


しかし、そう云えばみけらにょろも友だち少ない……特にこの時期は、大仕事ばっか引き受けてたせいもあると思うのですが、特に友人の名前って上がりませんよね。晩年近くなると、トンマーゾ・ガヴァリエッリ(だっけか)とかの名前が出てきますけど……あれは、友情と云うよりは、プラトニックな恋だもんなぁ。
先生の友だちもほとんどいない(ずーっと継続したのって、サラだけじゃないのか?)し、天才は友だちいないがデフォルトなのか……


しかし、昨今いろいろミケの本とか出てますが、うーん、とりあえず個人的には、ロマン・ロラン田中英道氏と、羽仁五郎氏のくらいでいいかなぁ……あと、コンディヴィとトルナイの。ヴァザーリはまぁ、いろいろアレなので、話半分で読んでますが。
何かこう、ミケの本は、考察の範囲がどうも狭いので(まぁ、先生みたいにあっちこっち飛ばないからにゃ)、そんなに本なくてもいい、ような。あ、画集や写真集は要るけどね! 写真は、アウレリオ・アメンドラのが好き♥ だけど、「世界の巨匠」シリーズのもきれいでいいですよ。


とりあえず、この話でお茶を濁しつつ(汗)、ちょっと時間を捻出していきたいなぁ、と――いや、もう最近こっち止まってるのは、まごうことなくたいばにのせいなので……だって、多い月は6万文字以上書いてるんだ……我ながらおかしいです。
このペースでこっちの話も書ければいいんですが、資料当たったりとか黒歴史とか(苦笑)、障害が多くって……ううう、精進します。
もうちょっとお待ちを〜。