左手の聖母 3

 使者の用件は、絵画の依頼だった。
 フィレンツェ市庁舎――パラツィオ・ヴェッキオ内の五百人会議室に、フィレンツェの勝利を記念する壁画を描いてくれと云うのだ。
「――しかし、それは今、レオナルド・ダ・ヴィンチが請負っているのではなかったか?」
 皆の知る事実を挙げて問いかけると、使者は苦笑して、
「マエストロ・レオナルドは、入念にやらなければ気のすまない方ですから……」
 なるほど、レオナルドの進み具合では、彼に二つの壁面を任せるのは不安だと云うことらしい。
「――わかった、お受けしよう」
 と、しかつめらしい顔で応えながら。
 ミケランジェロは、内心でひどく高揚感を感じていた。うきうきしていた、と云ってもいいだろう。
 何しろ、あのレオナルドと肩を並べて仕事ができるのだ。立場のことではなく、実際に、同じ場所で、同じ仕事をすることができるのだ。
 レオナルドと同じ位置に立ち、近い距離で相対す――そうすればきっと、レオナルドとも対等の立場で話ができるはずだ。
 そうなったら――ミケランジェロは、いろいろなことを訊いてみたいと思っていた。絵画のこと、彫刻のこと、何よりも、レオナルドの見てきた様々の“人間”のことを。
 数日後、ミケランジェロはいそいそと、パラツィオ・ヴェッキオへ出かけていった。
 現場の下見、と云いながら、その実は、レオナルドの下絵を見に行くようなものだったのが本当で。
 庁舎のものに、大会議室の場所を訊き、案内しようと云う申し出は丁寧に断って、独りでどんどん歩いてゆく。
 五百人会議室に行きつくと、ミケランジェロは、その扉をそっと開けた。中では、今しもレオナルドが、壁面に絵を描いているはずだ。
 案の定、会議室内に、レオナルドはいた。
 ミケランジェロも聞き及んでいた、自在に高さを調節できる足場――ハンドルを回して、天板を上げ下げする――に乗って、壁面に絵を描いている。
「先生、危ねぇって! ああ、落ちる、もっと左行けってば!」
 足場から身をのり出すようにして描くレオナルドに、下から声をかけているのは、あの“小悪魔”――サライ
 黒っぽい上着と薔薇色の靴下、その姿は相も変わらず美しい。
 レオナルドが足場から落ちたら受け止めるつもりでもいるものか、見上げながら、常に真下にいるように動き続けている。
 気遣わしげに頭上を見上げ、レオナルドに声をかけるその様は、どこか母親のようでもあって。
 何とはなしに声をかけ難く、ミケランジェロはそっと扉を閉めて、大会議室を出た。
 そして、持っていた手帖に、サライの貌――レオナルドを仰ぎ見ていた――を描きとめる。
 レオナルドが、あの“小悪魔”を手放さないわけが、何となくわかった気がした。いかに手癖が悪かろうと、いかに口が悪かろうと、サライは確かに美しい。そう、あれほどのことをサライにやられたミケランジェロすらが、こうしてその貌の素描をしてしまうほどに。
 その上、母親のような気遣いをされたとなれば――それは、手離す方が不思議と云うものだ。
 ざっと、本当に表情だけをざっと描きとめてしまうと、ミケランジェロは手帳を閉じ、本来の目的にとりかかった。つまり、レオナルドの下絵――カルトンを見ると云う目的に。
 すこし離れた控えの部屋に、レオナルドの画稿は置かれていた。壁面よりもかなり小さい――これがおそらくは、壁面の大きさに拡大される前の、レオナルドの完成した構図なのだろう。
 ミケランジェロは、まず、その筆致の意外な荒々しさに驚いた。
 レオナルドの筆致と云えば、かの「聖アンナと聖母子」のやわらかな筆致――いかにも女性的なものを表すのに相応しい、どこかなよやかなあの線――が思い出される。繊細で、どこか神経質さも感じさせる、光と影を極めつくしたかのような手。
 だが、この画稿――アンギアーリでの、ミラノ軍とフィレンツェ軍の戦いを描いた――の筆致は、それとはまったく異なっていた。
 否、繊細であるには違いない。馬や兵士たちにつけられた陰影、たなびく馬のたてがみ、翻る軍旗――それらのものを描写する筆致は、まさしく“レオナルドらしい”やわらかさに満ちている。
 だが――やはりそれは、やわらかなだけの絵ではあり得なかった。
 画面の中央には、軍旗を争う人馬の群れ――あるものは剣を振りまわし、またあるものは軍旗を担いで逃げ出そうとしている。猛り狂う馬の蹄を、盾で受け止めようとする兵士、その隣り、馬の腹の下で、敵と縺れあうように闘う兵士たち――
 どれが敵で、どれが味方かも判然とせぬ、荒々しく凄惨な、戦いの絵図。
 そうして、それを描くレオナルドの手も、絵の中の戦いの気にあてられたかのように、時に荒々しく、時に鋭く、普段見られぬような流れ方で走っていた。
 軍旗争奪の図の両側には、今まさに戦いに赴かんとするフィレンツェ軍の高揚した様子と、敗走するミラノ軍を向こうに、鬨の声を上げる兵士たちの姿が描かれている。左から右へ、絵の中で流れる時間――その中で、その壮絶な戦いの様は、ひときわ強い輝きを放っていた。
 ――完璧だ……
 ミケランジェロは、呆然と呟いた。
 構成も、バランスも、全体をまとめ上げる物語の存在も。
 レオナルドは、やはり天才だった。彼以外の一体誰が、これほどの絵を描けると云うのだろう。
 そうして――この絵の隣りに、一体どんな絵を描いたら良いのだと?
 ミケランジェロは打ちひしがれた。
 何と云うことだ――やはり、レオナルドはただの画家ではなかったのだ。“悩みもなく美しい”人間などではない、戦乱を、謀略を、人間の醜さをも見据えてきた男だったのだ。
 そう云えば、レオナルドは、つい先頃まで、かのヴァレンティーノ公、悪名高きチェーザレ・ボルジアに仕えていたのではなかったか。野心に満ちた冷徹な君主に軍事技師として仕えていれば、それは様々な場面に出あったことだろう――描かれた絵以上に凄惨な場面にすらも。
 畜生――これだけの観察眼と技術があって、なおかつ広い世間を見てきたあの男に、ただの彫刻家、経験の乏しい若造であるこの自分が、どうやって並ぶことができると云うのだ。
 ――畜生……
 がっくりと肩を落とし、涙をのんで、ミケランジェロはよろよろと部屋を出た。己が落としたもののことにも、気づきもせずに。



「――あぁ、いたいた。おーい、ミケランジェロ!」
 パラツィオ・ヴェッキオ近くの教会の石段に腰を下ろし、ぼんやりと空を見上げていると、遠くから名を呼ぶ声があった。
 ふと視線をめぐらせると、黒と薔薇色の――レオナルドの“小悪魔”サライ
 すこし疲れた様子で、足を引きずりながら歩いてくる青年に、ミケランジェロは慌てて姿勢を正した。
「何か用か」
「あんた、さっき市庁舎に来てただろ」
 気づいていないと思っていたのに――姿が見えてでもいたと云うのか。
 そうであるなら、打ちのめされている自分を、この“小悪魔”は、笑いに来たのだろうか?
「それがどうした。用がないなら、あっちへ行け」
「何だよ、つれねぇなぁ」
 サライは、片眉を上げてよこした。
「あんたの忘れ物、持ってきてやったのにさ」
 と云いながら、ひらひらと振るのは、ミケランジェロの手帖。
「……! 何故、それを!」
 叫んで奪い返そうとすると、ひょいと腕をさし上げられてしまった。こういう時に、己の身の丈の低さが恨めしい。
「何故も何も、忘れ物だって云っただろ。探して、持ってきてやったんだぜ。礼のひとつもあっていいんじゃねぇ?」
「……すまん、――ありがとう」
「そうそう、はなっから、そんな風に素直に云やぁいいのにさ」
 そう云って、サライは手帖をぽんと抛ってよこした。
「中を見たか」
 サライの顔を描いてある、この手帖の中を。
 が、サライはひょいと肩をすくめただけだった。
「見ねぇよ。あんたのだろ」
「そうか……」
 ほっと息をついて、ふと気づく。
「そう云えば、あいつはどうした」
 いつも傍にいるはずの、レオナルド・ダ・ヴィンチは。
「先生? 今日はもう、絵はおしまいなんだってさ。先生、さっき足場から落ちてさ」
「落ちた!?」
 思わず叫ぶと、サライに苦笑された。
「何て顔してんだよ。あんたが落ちたわけでもねぇのにさ」
「いや、それはそうだが……」
「うん、別にな、そんな高くもなかったし、俺が潰されたくらいで済んだんだけどな。――先生、今のあんたみたいな顔でびっくりしてたんだけど、それで絵を描く気分じゃなくなったとか云って、今日はおしまいにしちゃったんだよ。で、後片付けしてたら、あんたの落し物を見つけたってわけ」
「それで、わざわざ探してきてくれたのか……」
「そ。感謝してくれよな」
 と、にやりと笑いながら云って、サライは踵を返そうとした。
「ま、待ってくれ」
 と呼び止めたのは、何を云おうと思ってだったか。
「何?」
「あ、いや……」
 サライを呼び止めて、どうするつもりだったのか。
 ミケランジェロが躊躇していると、サライはふと、静かなまなざしになって、云った。
「俺、あんたの作るもん、結構好きだよ」
 からかいも、へつらいもない声だった。
「あんたのダヴィデを見た。――すげぇよな、あんなもんが、あんたの頭ん中にあるんだな。俺は、もちろん先生が一番凄いって思ってるけど……あんたも同じくらいすげぇよ。尊敬する」
「――そ、そうか……」
 サライのその言葉は、ミケランジェロのきつく鎧った心を突き抜けて、肚の底まですとんと落ちてきた。
 “尊敬する”――あのレオナルドの傍にいる人間にそう云われて、嬉しくないわけはなかった。
「……あ、ありがとう――」
 小さな声で礼を云うと、サライは途端に、いつものニヤリ笑いに立ち戻ってしまった。
「ま、それであんたが先生いじめなきゃ、最高なんだけどな」
「――いじめてなどいない!」
「はっはっは!」
 サライは笑って、ひょいと身を翻した。
「じゃあな、ミケランジェロ。次は普通に会いたいもんだよな」
「やかましいわ、小僧!」
 思わず叫ぶが、青年は、笑ってひらひらと手を振っただけだった。そうして、すこし足を引きずりながら、それでもひらりひらりと去ってゆく。
 その後姿を見送って、ミケランジェロは、先刻より心が軽くなっていることに気がついた。
 そうだ、自分は彫刻家であって、画家ではない――所詮は、画家であるレオナルドに肩を並べられようはずもない。
 だが、引き受けたからには、そしてあの絵の隣りに並ぶからには、己の最善を尽くして描くだけだ。せめて、隣りにあって、調和を乱すと思われぬよう。
 ミケランジェロは立ち上がり、先刻よりも確かな足取りで、己の工房への帰途に着いた。


† † † † †


 はい、みけの話、続き。
 今回は例のアンギアーリの戦い、じゃなくて、ミケ的にはカッシーナの戦い、か、そこらへんのアレコレ。


そう云や、この辺のことって、惣/領/冬/実の『二人の巨匠』にも書いてありましたね。まぁしかしみけらにょろって、結構ぐわぁぁぁと叫ぶ人なので、あんなしれっとしたみけはみけじゃない! と思っちゃうんですが……いえ、カッコいいですけどね!
先生も暴れるタイプなので、こう、綺麗なイメージないなぁ……
って云うか、世間的には私の認識の方が間違ってるんだろうか。
でも、六/田/登の『ライオンは眠らない』(だっけ)の先生とミケはそんな感じでしたが。泳げないのに、「私は彫刻家だ!」とか叫んでるみけが可愛かった……♥ 先生メインて云うか、サラ主人公(但しクソガキ)ですがね。興味がおありなら是非。


カッシーナとかアンギアーリとかのあれこれは、先生の残ってるメモ+昨今(? でもないか)の研究家の研究の成果を参考に。って云うか、以前NHKさんでやってた、ヴァザーリの絵の下を探る的なドキュメンタリーの成果、かな。何しろもう六年も前の話なので……
でもまぁ、中心になる絵は、それぞれカルトンの模写が残ってるので、そこから発想してますけどね。先生とみけ、それぞれのカラーの違いが鮮明で面白いですね、ふふ。


さて、そろそろみけらにょろ展いきたいですね。先生の時みたいに(まぁ、二度目の方ですが)、ぎりぎりになってばたばた行くとかは厭なので、そろそろそらそら。
次の更新までには行く、と思います。
先生の展覧会の感想も書いてないが、まぁいいや。みけのは、次の話の余白に書きますよ。多分。行けば。
ってわけで、また暫お待ちを〜。