左手の聖母 5

 「カッシーナの戦い」の画稿が完成したのは、一五〇五年の一月末のことだった。
 正直、ミケランジェロとしては、既に勝負の見えた話ではあったのだが、ともかくも、持てる技術をすべて使い、すべての霊感を注ぎこんで描き上げた画稿だった。
 翌二月に画稿を公にすると、人々は、ミケランジェロに大いに称讃の声を投げかけてきた。
 その中には、既に発表されていたレオナルドの画稿以上との声もあって、流石にミケランジェロを苦笑させたが――しかし、その彼にしても、自分の絵が、少なくとも「アンギアーリの戦い」に見劣りのするものではないと認められたようで、満足に近い心地だったのは、確かなことだった。
 ちょうどその頃、ローマの法王ユリウス二世から、自身の墓廟制作についての依頼があった。
 「カッシーナ」の下絵が完成し、壁画の目途が立ったので、ミケランジェロは作業を一旦中止して、ローマへと発った。
 レオナルドの手が遅いのは有名な話だったのだし、何より、彼は技師として方々へ呼び出されてもいたので、ミケランジェロが多少フィレンツェを空けていようとも、そう大きな差をつけられることはないだろうと思ったのだ。
 ユリウス二世は、二年前、アレクサンデル六世、ピオ三世が相次いで病没したのを受けて選出された法王だった。
 スペイン出身だったアレクサンデル六世と違い、ユリウス二世はジェノヴァ共和国リグーリアの、ローヴェレ家――この家は、過去にやはりシクトゥス四世と云う法王を輩出している――の出身であり、久しぶりの半島出身の法王に、ローマはやや活気を取り戻したように思われた。
 ユリウス二世は、猿のような容貌の小柄な男だった。否、ミケランジェロよりはよほど恵まれた体格の持ち主ではあったのだが、それにしても、何とも云いがたくしょぼしょぼとした印象を与える人物で、法王としての威厳には、いささか欠けるところのある人だった。 だが、意外にも性格は豪放磊落なところもあって、そこが、陰謀家として知られたこの法王の、一種の可愛げになっていたのかも知れなかった。
「儂の墓廟を作れ、神の威光とローマの栄光を喧伝するような、すばらしく豪華で、未だかつて誰も見たことのないような美しいものをな」
 権謀術数で生きてきたこの法王は、そう云って、悪戯をする子供のような顔で笑った。
「このローマが永遠の、不滅の神の都であると、フランスやスペインの野蛮な輩に知らしめてやるのだ。――儂は、聖ペテロの使徒座の栄光を、もう一度この地に取り戻してやる。お前も、それを助けるのだぞ、ミケランジェロよ」
 法王のその言葉に胸を揺すぶられ、ミケランジェロは感涙して俯いた。
 これまで、至高の座にあるひとから、これほどの言葉をかけられたことがあっただろうか?
 これまでの雇主は皆――養ってくれたロレンツォ・イル・マニフィコですらも――、どこかでこの“彫刻家”ミケランジェロを蔑んでいるところがあった。卑しい職人風情がと、いつもそう思われているのがわかっていたから、必死でそのまなざしに抗った。彼らを絶えず驚嘆させ続けなければ、己の場所を確保し続けられないのだと感じていた。
ユリウス二世は、軍を動かし、かつての広大な教皇領を復活させようという野望を持った、云ってみればひどく世俗的な法王ではあったのだが――しかし一方では、聖職者による買官行為を禁ずる触を出すなど、彼なりに“神の正義”を実践しようとした人でもあった。
 その掲げる理想に、ミケランジェロも共感するところがあったので、それで余計に、ユリウス二世の言葉に心動かされたのかもしれない。
 すぐさま、ミケランジェロは墓廟の設計図を描いた。40体以上の大理石像と、幾多の浮彫を施した、地上から天上へと上昇する、魂の煉獄を描いた墓碑を。
 ユリウス二世は、それをひどく気に入って、五月には正式な契約を取り交わした。
 石は、カッラーラの大理石を使って良いということだったので、ミケランジェロは、自ら石を選ぶためにカッラーラの採掘場へ向かった。
 心ゆくまで石を選び、六十荷台分の石の引渡し契約をかわして、フィレンツェへの帰途に着いたのが十二月――フィレンツェ大聖堂の彫像に関する契約を破棄するための帰郷だったのだが。
 フィレンツェに帰りついたミケランジェロは、驚愕した。
 レオナルドの「アンギアーリの戦い」の制作が中止されていたのだ。



「何故だ!」
 叫ぶミケランジェロに、
「六月のひどい雷雨で、画稿が駄目になってしまったのです」
 契約破棄のために面会した毛織物組合の男は、慌てたようにそう云った――まるで、レオナルドのための云い訳をするかのように。
「そもそもその前から、マエストロは新しい手法でやるのだと云って、その実、彩色の段階でも、絵の具が定着せずに流れ落ちたりしていましたからね。そこへもってきての六月の大雨で、画稿どころか壁面も水浸しになって、すっかりやる気をなくしてしまったのだとか  ――秋以降は、市庁舎へ足を向けてすらいないそうですよ」
 まぁ、あの方は、技師としてもお忙しいですから、と男は苦笑したが――ミケランジェロは納得がいかなかった。
 確かにあの男は技師であり、アルノ河の改修工事の指揮なども、あのニッコロ・マキャベッリとで取っていたはずだ。
 それがフィレンツェにとってどんな意味を持つのかは、彫刻家に過ぎないミケランジェロにはわからなかったが、絵よりも優先されるべき事柄だと人々が考えていることは理解しているつもりだった。
 だが、
 ――あいつだって、あの絵を描くのを愉しんでいたはずだろう!
 あの画稿の筆致を憶えている。
 ぶつかり合う騎馬、叫び声を上げて剣を振り上げる兵士の顔、悲惨と生命力との不思議な混交、あの鮮やかな一瞬の光景。
 力不足と自覚はしていても、それでも、あの絵の隣りに己も描きたかったのだ――そうして、ともに人々の称讃を集めたかったのに。
 ミケランジェロは、ふらふらとパラツィオ・ヴェッキオへ赴いた。
 五百人会議室に立ち、絵が描かれるべき壁面を見上げる――レオナルドの受け持っていた、右側の壁面を。
 そこは、まったく酷い有様だった。
 レオナルドが、蝋を用いた新しい手法を試みたという話を聞いてはいたが、この有様は、新手法が失敗に終わったことを、まざまざと見せつけるかのようだった。
 壁面には、まだ色の残っている部分も多くあった。だがそれも、端からひび割れ、あるいは剥がれ落ち、絵としてはどうにもならないことをミケランジェロに知らしめた。
 単色ですら美しかったあの戦いの様は、色を乗せることによって、なお一層の輝きを放っていたが――しかしやはり、それは剥落した絵以外の何ものでもありはしなかったのだ。
 剥落した後の画面にそっと触れてみる。ぼそぼそとした手触りの壁面――この上に再び絵の具が乗ることはないだろう、蝋と水分とを含んで変質した下地。
 ――これは……駄目だ……
 ミケランジェロにも、はっきりとわかった。この壁面はもう駄目だ。レオナルドの好むテンペラ描きも、世の画家たちの良くするフレスコも、どちらもこの下地に色を乗せることは適うまい。
 唯一、この壁面に絵を描きうるとすれば、それは、ここ一面に板を張り、その板の上にテンペラで絵を描くと云う方法だけだった。
 だが、それをしようにも、レオナルドの画稿は失われてしまった。もう、あの美しく怖ろしい絵が完成することはないのだ。
 ――何と云うことだ……
 ミケランジェロは、唇を噛みしめた。
 レオナルドの絵は決して完成しない、だが、自分は続けなくてはならない。
 そのとおりに、ミケランジェロは「カッシーナの戦い」の作業を続行した。
 ユリウス二世と、墓碑の作製の資金繰りについてもめた時も、フィレンツェに留まって交渉を続けながら、ミケランジェロは描いていた。
 だが、終りは突然に来た。
 夏のある日、彩色に入っていたミケランジェロは、壁面に細かくひびが入っているのを見つけたのだ。
 フレスコで画面にひびが入っていると、これからの季節、湿気がそこに溜まって、やがて絵が黴てくる。
 黴る、と思った瞬間、ミケランジェロの中で何かが切れた。
 レオナルドも対の絵を描かず、己の絵も黴るのが目に見えている、そんなものを続けて、一体どうするつもりなのか。
 描く気力が、一気に失せた。
 十一月、出征中のユリウス二世にボローニャへ召喚されると、ミケランジェロは、逃げるようにフィレンツェを発った。
 壁画はその後、二度と触れられることはなかった。



 パラツィオ・ヴェッキオの五百人会議室の壁画は、その後長く放置されてあった。
 剥落したレオナルドの絵は、それでもまだ人々を魅了し、ルーベンスなど様々な人々によって模写も行われ、今日にその片鱗を残している。
 一方のミケランジェロの画稿は、管理するもののないままメディチ家に置かれていたため、好事家などの手によって、ばらばらにされ、持ち去られてしまった。こちらも、サンガルロによる模写などの存在で、わずかにそのかたちを知ることができるのみである。
 五百人会議室にはその後、16世紀も半ばになってから、ミケランジェロの弟子であるジョルジオ・ヴァザーリの手によって、「ピサ攻略」が描かれることになる。
 ヴァザーリは、両巨匠の絵の上に直接絵の具を塗るのではなく、壁面からわずかに浮かせて板を張り、その上に自らの絵を描いた。「ピサ攻略」の絵の中には、“求めよ、さらば得られるだろう”との語句が書きこまれ、板と壁面との隙間とあわせ、壁面に残る二つの絵の存在を指しているのだと考えられてきた。
 一九七九年、二人の歴史学者が、ことの真偽を確かめるために、絵の一部を剥ぎ取った。だが、その下からは、レオナルドの絵は見つからなかったと云う。
 ヴァザーリの言葉の真実は、未だ闇の中にある――


† † † † †


みけの話、続き。
アンギアーリの戦い」のアレはそんなカンジですが、みけの絵も黴たと云う噂。
なので、みけは放棄したらしいです。噂うわさ。


まぁこの辺は、史実追っかけてるだけでちょっとつまんないとこなので(←おい)、さらっと流して戴いて結構です。順序だから上げてるだけなカンジだし!
いや、まぁみけの人生って、アップダウンは例のフィレンツェの揉め揉めな時くらいで、割と普通に職人風味と云うか、先生みたいに告発されたり、解剖止めろって命令されたり(ローマでね)、チェーザレ・ボルジアみたいなひとにスカウトされたりしてないから、まぁ淡々としてるわけですよ、特にこの時期!
だから凄い書き辛いのだ――ローマ行くと、ラファエッロと張り合ったり、先生に暴れたりといろいろ出てくるんですが。


でもって。
次の更新は、多分紀行になると思います。
来週末から、ちょっくら出雲へ行ってくるので。サンライズ取れた(JR×海ツアーズさん、ありがとう!)し、丁度“神在月”だし(←旧暦十月だそうで――すっかり忘れてた!)、出雲蕎麦食べたい! 温泉にも入るよー。楽しみです。
ホントは、去年の秋は会津に、今年の三月には高野山に行ってたのですが、まぁもういいかと思って(目新しいとこには行かなかったし)。
久々の紀行になるかと思います。ゆるゆるお待ちを〜。