左手の聖母 6

 ボローニャへ到着すると、ミケランジェロを待っていたのは、ユリウス二世からの、ブロンズ像制作の依頼だった。
 等身大を超える青銅の法王像を、サン・ペトロニオ寺院の正面に据えつけよと云うのだが、正直に云って、ミケランジェロは気が重かった。ブロンズ像の鋳造は得意ではなかったからだ。
 そもそも、ブロンズ像の鋳造と云うのは、しっかりとした組織を持つ工房が請負うべきものなのだ。
 ミケランジェロは、しっかりとした工房を持っているわけではない。もちろん、“ミケランジェロ工房”と名づけたものは存在する。だが、そこには数人の助手がいるのみで、それとても、絵の具を混ぜたりする程度の手伝いをする、本当に“手助け”の意味での助手でしかないのだ。
 その上、ミケランジェロ自身も、鋳造に関してきちんとした訓練を受けたことはない。最初に入ったギルランダイオの工房はわずか1年で放逐されてしまったし、次に拾われたロレンツォ・デ・メディチの有名な“庭園”では、古代ギリシア・ローマの彫像を見たり、それを模刻したり、あるいは他の彫刻家たちの仕事を注視したり、と云うのが中心で、ブロンズは、本当に仕事の様を見たことすらないほどだったのだ。
「私には無理です」
 ミケランジェロはおずおずと云って、法王にその任を解いてもらおうとした。
 もともと、ミケランジェロがユリウス二世と交わした契約は、法王の霊廟の制作であって、決してブロンズの像などではなかったはずだ。
 法王が、サン・ピエトロ寺院の建設――それはまったく、世紀の大事業には違いなかった――に気を取られ、またブラマンテなどの讒言――生きているうちに、己の墓廟を作らせるのは不吉だと云う――を真に受けたりしなければ、ミケランジェロはただ、大理石の中に眠るものたちのことだけを考えていることができたのに。
 だが、法王の返事はにべもなかった。
「墓廟の件についての話は済んでいるのだし、お前はこうしてボローニャに来ているではないか。それはつまり、儂と新たな契約を結ぶと考えていると云うことだろう? ――それに、お前ほどの腕の持ち主が、石で作れるものを、粘土で作れぬと云うわけはあるまい」
 ユリウス二世はそう云って、いつも巧く、ミケランジェロの自尊心を煽り立てるのだった。
「――わかりました」
 遂に、ミケランジェロは頷いた――頷くより他なかった。
「聖下の像を鋳造致しましょう。ただ、私は、ブロンズ像には不慣れですので、助手として、鋳造の業に長けた職人を雇うことと、そのための賃金を上乗せすることをお赦し下されば……」
「よいよい」
 ユリウス二世は、手を振って笑った。
「儂とローマの栄光を、このボローニャに知らしめる像を作れるのなら、何でも構わん。必ずや、見事な像を作るのだぞ」
 ミケランジェロは、無言で頭を垂れた。
 さっそく制作に取りかかったものの、それは困難を極めた作業の連続だった。
 まず、大まかな型を粘土で作り、それが済んだら今度は等倍の、蝋による原型を作る。それから、それに鋳型枠をはめ、枠と原型の間に砂か石膏を流して鋳型を作るのだ。
 ミケランジェロは、この原型を作るところで躓いた。
 とにかく、勝手が違うのだ。ミケランジェロのこれまで相手にしてきたのは、冷たく硬い大理石ばかりだった。大理石は、扱うのに力と技術が必要だったが、ひと度鑿を入れてしまえば、しっかりとして崩れることのない形状が刻み出される。意のままには中々ならないが、なった時の美しさときたら、それはもううっとりとしたくなるほどなのだ。
 ところが、この蝋と云うものは、やわらかく扱いやすいのは確かなのだが、すこし触れるとたちどころに形状が崩れてしまう。
 お蔭で、際限なく触り続けなければならず、ひどく忍耐を要求されることになった。
 それでも何とか、一五〇七年の六月には原型が仕上がり、七月からは、実際の鋳造に取りかかれることになった。
 ミケランジェロが使ったのは、砂を使っての鋳型作りだった。砂型は、ひどく脆いが、その代わり細部までを美しく再現することができる。大きなもの――たとえば、レオナルドが作ろうとした、スフォルッツァの青銅の馬のような――を作るのには向かないが、等身大より多少大きい程度の人物像であれば、砂型でも何とか作ることができるだろうと云うのが、鋳造を手伝ってくれた鋳金ベルナルディーノの意見だった。
 慎重に作業を進め、途中失敗にあいながらも、像が完成したのが翌年の二月のこと。
 肩の荷を下ろした思いでフィレンツェに帰るも、三月の末には、もうユリウス二世からの新たなる仕事の話が舞いこんできた。
 今度も、大理石彫刻の依頼ではない、どころか、彫刻ですらなかった。
 ローマはシスティーナ礼拝堂の、天井に絵を描けと法王は云ったのだ。
 システィーナ礼拝堂は、ユリウス二世の伯父、教皇シクトゥス四世が、サン・ピエトロ聖堂――この当時、既に消滅の危機にあった――に次ぐヴァチカーノの聖堂として建設したものだ。
 もちろん、システィーナ礼拝堂の建築としての美しさは云うまでもなかったし、その壁面には既に、ペルジーノやボッティチェルリなどの手によって、「キリストの生涯」「モーゼの生涯」や、ペテロからはじまる初期の30人の法王の肖像が描かれ、充分に荘厳な雰囲気を作り上げていた。ただ、天井は星空をあらわす模様に彩られているだけだった。
 ユリウス二世は、伯父の法要のためにと、その天井に絵を描かせることを決め、その役にミケランジェロをと望んだのだ。
「私にはできません」
 と、ミケランジェロは、ブロンズ像鋳造の時よりもはっきりと、断りの言葉を口にした。
 自分はあくまでも彫刻家であって、絵を描くのは得手ではないとわかっていたからだ。
 だが、やはりユリウス二世は納得しなかった。
「儂は、お前の素描の素晴らしさを知っておる。それにお前は、フィレンツェで、かのレオナルド・ダ・ヴィンチと壁画の競作をするところだったそうではないか。画稿を見たものが、あれほど素晴らしいものは見たことがないと云っておったぞ」
「あれは! ――やはり、私には荷が重かったのです。天井画などとんでもない。どうぞ、他のものにお任せ下さい」
 苦い記憶に思わず声を荒げ、ミケランジェロは慌てて弱々しい声を作り直した。
 「カッシーナの戦い」――もう、触れてもいない――は、苦い思いに満ちていた。剥落したレオナルドの絵、ひびの入った自分の絵、失敗と失意の苦い思い出。
 触れられたくもなかったし、もう絵を描くのも――必要な素描を除いては――御免だと思うのに、法王は一向構う様子はなかった。
「ブラマンテがな、ラファエッロとやら云う、ウルビーノの画家に天井画を任せろと云うのだが――儂は、お前の描く絵が見たいのだ。描け、ミケランジェロ、儂のためだ」
「――過分なお言葉でございます」
 そう頭を垂れながら。
 ――ブラマンテめ!
 ミケランジェロは、内心で激しく歯軋りしていた。
 サン・ピエトロ大聖堂再建を請負ったこの偉大な建築家のことを、ミケランジェロは正直、好いてはいなかった。人間性が嫌いだったし、そもそもあのウルビーノの小僧――ラファエッロ・サンツィオと仲がよいのも戴けなかった。
 ラファエッロは、他人の構図や筆致を盗むのに長けた、盗人のような画家だと、ミケランジェロは考えていた。フィレンツェ時代は、レオナルドや他の画家たちの工房を見てまわり、そこで目にした何もかもを自分の絵に安易に注ぎこんで、ちゃっかり名声を己のものとしていたからだ。
 そのくせ、自分の手柄でもない称讃の声に、王侯のように応え、いつでも女と取り巻きをひき連れて歩いている。
 そのラファエッロの厚顔さが、ミケランジェロは唾棄したいほど嫌いだった。
 ――きっとこれは、奴らの陰謀に違いない。
 ユリウス二世がひどく自分を贔屓にしているので、それを面白くなく思って、わざと法王を煽り立てるようなことを云ったに決まっている。それでミケランジェロが失敗すれば、それみたことかとこき下ろすつもりなのに違いない。
 ――その手にはのるものか。
 今度の話は、ブロンズ像を鋳造するのとは訳が違う。それは明確に画家の仕事であって、彫刻家の仕事ではあり得ない。
 今はやる気のユリウス二世も、粘り強く話せば、わかってくれるだろう。
 ミケランジェロはそう思っていたのだが――法王は諦めず、ミケランジェロは終に、天井画を描く旨の契約をかわすことになる。



 システィーナ礼拝堂の天井画は、一五〇八年に描きはじめられた。
 当初、ミケランジェロは、助手として数人の画家を使うつもりだったのだが、彼らの仕事の遅さと仕上がりの悪さに腹を立て、早々に全員を解雇してしまう。
 その後は、絵を描くのは彼ひとり、絵の具を混ぜるだけの助手が何人か、と云う状態での作業となった。
口にするのは水とパンだけ、着の身着のままで眠り、起き出してはまた描く、という生活だった。高い位置で組んだ足場――それも、ブラマンテが最初に組んだ足場が、天井に穴を開けて、そこから吊り下げるかたちのものだったため、絵に差し障りが出ることに激怒したミケランジェロが、自分で組みなおしたものだった――の上で、上を向いて、なれないフレスコを描くのだ。“絵の具のせいで顔は床のようなまだら、腰が腹にめりこみ、ふんぞり返って、尻でバランスを取っている”――そんな状況でも、ミケランジェロは描き続けた。
 天井の中央に天地創造からノアの物語までを、スパンドレル(小三角壁)とルネッタ(半円型壁)にはキリストの祖先たちを、ペンナッキオ(天井四隅の大三角壁)にはイスラエル救済の物語を、スパンドレルとスパンドレルの間には七人の預言者と五人の巫女を。
 見せろと云うユリウス二世をしめ出して、しまいにはその足許へ木材を投げつけすらして、とにかく余人を入れず、ひたすらに描いた。
 父や兄弟たちの金の無心や、持ちこまれるごたごたに頭を悩まされながら、それでも描き続け――天井画が完成したのは、一五一二年の十一月のこと。
 巨大な礼拝堂の天井を、ミケランジェロはただ一人で、四年と云う短期間のうちに、絵で埋め尽くしたのだ。 その月の末には、完成したシスティーナ礼拝堂は公開され、堂内は驚愕と歓喜の声で満たされた。
 短縮法で描かれた、力強い筆致の神の姿、苦悩に満ちた“楽園追放”、疲労と困苦に悩むノアの姿――色鮮やかに描き出された神と人の物語に、人々は大いに喝采し、その声は当然、ミケランジェロにも向けられた。
 おそらくこれが、ミケランジェロの人生最高の瞬間だっただろう。
 この時、彼は、37歳になっていた。


† † † † †


はい、みけの話、続き。


いや、本当は紀行を次の更新にしようと思ってたんですけども、そうするとかなり間が空くので……


ブラマンテの評価がアレですが、まぁ、みけが気に入ってた芸術家っつーかは少なかったっぽいので、って云うのと、まぁ、研究書とか見てるとこんなカンジだったっぽいので!
っつーかアレだよね、先生は割となぁなぁなカンジだけど、みけって割とじゃなくぐあああああぁだよね。正直、みけの評価が割と高いのって、ヴァザーリとかのお蔭だろうなぁと思わずにはいられません。まぁ、先生におけるアノニモ・ガッディアーノみたいな人がいなくて良かったねと云うべきか……ああ云う人が記録残してたら、みけ、今以上に丸裸にされてたよね……


でもって。本編には何の関係もないのですが、ユリウス二世のイメージは、個人的に豊臣秀吉です。何かそんなん。
じゃあ信長さんは、って云うと――これが、チェーザレ・ボルジアなのですね。
美しい僭主と猿っぽい王者、って云う対比。まぁ、チェーザレとユリウス二世ってあんま相性がアレだったのですが。
とは云え実際には、信長・秀吉主従の方が、生まれたのは後なんですが。
は? 先生? 先生は、だから伊達政宗ですよ。みけは、そのころまだ生きてたはず……


ってことで、今度こそ出雲行き! 明日の夜から!
ふふふ、行ってきまーす!