左手の聖母 7

 システィーナ礼拝堂天井画の完成後すぐ――翌年二月二十一日、ユリウス二世が逝去した。69歳だった。
 次に法王に選出されたのは、ミケランジェロの幼なじみ――ロレンツォ・イル・マニフィコの次男、ジョヴァンニ・デ・メディチ枢機卿だった。
 ジョヴァンニ――新法王レオ十世とは、昔一緒に育った仲ではありながら、ミケランジェロはどうしても反りが合わなかった。
 “史上最も若く、最も醜い法王”レオ十世は、その容貌に反して派手好みで、画家ならばラファエッロが気に入りだった。
 ラファエッロは、ヴァチカン宮殿のエリオドロの間や火災の間の壁画を任されたり、法王の肖像画を請負ったりと、忙しくしていたが、ミケランジェロには何の仕事も回ってはこなかった――それはそれで、ミケランジェロとしては大喜びだったのだが。
性格的な不一致もさることながら、ミケランジェロは、レオ十世の顔が嫌いだった。美しくはないと云えば、彼の父であるロレンツォ・イル・マニフィコも同じだったが、ロレンツォにあったあの精神の輝きは、息子の方には見られなかったからだ。
 仕事がなければレオ十世の顔を見なくても済むし、何よりこれでやっと、ユリウス二世の墓廟の作製に本腰を入れることができるのだ。
ミケランジェロは実際、新しい仕事をどんどんこなしていくには疲れすぎていた。青銅のユリウス二世像――それは、一五一一年には破壊され、フェッラーラのアルフォンソ・デステの手に渡って、“ラ・ジュリア”、ユリウスの女名をつけられた大砲へと鋳直されていた――やシスティーナ礼拝堂の天井画など、ここ暫くは大仕事が続いていた。
 そろそろ、本職の大理石彫刻に立ち戻り、自分の配分で仕事をしなければ、本当にどうにかなってしまいそうだった。
 4年に及ぶ天井画制作で、ミケランジェロの身体はすっかり傷めつけられてしまった。
ずっと上を向いての作業だったので、骨が変形し、手紙を読むのに、手を上に上げて――手紙を目の高さまで差し上げて読まなければならないほどだった。そのために、歩くのには背中を曲げて、ひどい猫背にならなければならず、いつも頭痛がするようになった。視力も落ちて、もともと眇目であるのに、なお一層顰めなくてはものが見えなくなった。四〇前であるのに、容貌は五〇近くにまで老けこんで、ミケランジェロは、ますます鏡を覗くのが嫌いになった――醜いものは、己の顔であっても見たくはなかったからだ。
 ともあれ、今度こそはと、ユリウス二世の実家であるローヴェレ家と契約を交わしなおし、ミケランジェロは墓碑の制作にとりかかった。
 当初の予定よりも縮小した――今の、疲れきり、弱りきった身体では、40体もの彫像を手早く彫り上げるのは難しかったのだ――が、やり遂げようという意思は固かった。
 ユリウス二世は、自分を尊重してくれた人であったし、その無茶な要求には振り回されるばかりであったにせよ、ともに何かを築き上げた、その時の喜びを忘れてはいなかったからだ。
 だから、ゆっくりであっても自分の配分で、納得のゆくものを仕上げたかったのだ。
 ミケランジェロはまず、モーゼ像に手をつけた。神と人の仲介者、律法を定めた預言者モーゼ――墓碑の中段に置かれるべき、偉大なるその像から。
 カッラーラから石材を採り、ローマへ運んで鑿を入れる。
 ユダヤの人々を救ったモーゼ、神と人との間で苦悩したであろう、偉大なその相貌を思い浮かべながら。
 そうこうしているうちに、ミケランジェロを、意外な人が訪ねてきた。意外で懐かしい人――レオ十世の弟、ジュリアーノ・デ・メディチが。



「久しぶり」
 そう云ってミケランジェロの前に腰を下ろしたジュリアーノは、相変わらずの優美な貴公子ぶりだった。
 ロレンツォ・イル・マニフィコに最も愛されたこの三男坊は、権謀術数渦巻く世界の中にあって、ひどく異質に思えるほど心根がやさしかった。
 彼が政治向きの能力に長けていると云う話は聞かなかったが、それは、才がないと云うよりも、そのやさしさ故に、己が持つかもしれない能力を発揮することを拒んでいるからだろうと、ミケランジェロは考えていた。
 暗褐色の髪と青い瞳の、優雅な貴公子――その様は相変わらずではあったのだが、
「――髭を伸ばしたと聞いていたいたが?」
 フィレンツェ追放の後に迎えられたウルビーノの流儀に従って、髭を伸ばしていたと聞いていたし、ラファエッロなどの手になる、そのような顔の彼の肖像も目にしていたのだが。
その問いかけに、ジュリアーノは苦笑した。
フィレンツェに戻ったから、それで剃ったんだよ。ほら、フィレンツェでは、髭の長いのは喜ばれないからね」
 と云いながら、つるりとした顎を撫で、次いでくすりと笑って、
「君は、フィレンツェでも、その髭のままなのかい?」
 と、悪戯っぽく問いかけてきた。
「……俺は」
 単に、自分の顔が好きではないのだ。髭を伸ばしているのは、そうすれば自分の顔が隠せるから――伸ばしはじめたわけは、それ以外にあったのだけれど。
 ジュリアーノは、またくすりと笑った。
「わかってるよ、私の意地悪だ」
「……あんたの意地悪なんぞ、全然可愛いもんだ」
 何より、ジュリアーノは、ミケランジェロの醜いものを嫌う気持ちをよく知っているのだし。
「そうかな? ――そう云えば、マエストロ・レオナルドも、昔から髭を長くしていたね」
 突然出てきたその名前に、ミケランジェロの胸はどきりと鳴った。
「――何でいきなり、あいつのことなんか……」
 あの男は、ミラノへ戻っていってしまったはずだ。もう六年も前、「アンギアーリの戦い」が完成しないとわかったあの年の夏、フランス王の招きに応えて、ミラノへ去ってしまったはずなのだ。
 その男の名が、何故、今ここで?
「ん? 云わなかったかな、彼は今、ローマに来ているんだよ」
 ジュリアーノは、小首をかしげてそう云った。
「ほら、マッシミリアーノ・スフォルッツァが、ミラノに帰還しただろう? それで、フランス王室に仕えていたレオナルドは、マッシミリアーノから生命を狙われるんじゃないかと危惧したのだろうね、弟子の一人の実家へ逃れていたようなんだ。で、私がちょうどローマへ来るから、一緒に来ないかとお誘いしたら、来てくれたと云うわけなんだよ」
 そう云って、沈黙しているミケランジェロをちらりと見、
「……気になるのかい?」
「――ば……誰がだ!」
 あの男のことなど――気にならないわけがない。本当は、この髭を伸ばしはじめたのだって、あの男の髭の長いのを知ったからなのだから。
 ミケランジェロの胸中を見透かしたかのように、ジュリアーノはにこにことしている。
「レオナルドは今、婦人の肖像を描いていてね。私のためだと云うのだけれど、とても素晴らしい絵なんだよ――今までに見たこともない構図の絵でね。その絵の前に立つと、本当に、絵の中の婦人に見つめられているような気分になってくるんだよ。レオナルドは、本当に魔術師のようだ――あんな、生きているような絵を描けるのは、彼以外にはないよ」
 生きているような、絵。
 昔見た「聖アンナと聖母子」も、生きているようだと思ったが――絵の中の人物に見つめられているような気分になると云うその絵は、一体どんなものなのだろう?
 そうして――あの男は、ジュリアーノのために、どんな婦人を描いていると云うのだろう?
「聞きたいかい? 聞きたいだろう?」
 と、ジュリアーノは、自分の方こそ喋りたくて堪らなさそうな風で、そう云ってきた。
「レオナルドが今描いているのは、黒衣の婦人像なんだ。聡明なまなざしの、美しい女性で――髪は波うつ暗い色、瞳は榛か、うすい茶色をしている。彼女は、斜めに置いた椅子に腰掛け、やや身体をひねって、まっすぐにこちらを見ているけれど、その様子はひどく自然で、組んだ手もゆったりとくつろいだ風だ――装身具はなく、化粧もごく薄くしかしていない。でも、それでもひどく魅力的な女性なんだ。レオナルドは、それが実際のモデルを使って描かれているのだと云うけれど――誰なのかは、決して教えてくれないんだよ」
「……あの、サライとか云う小僧を、女に化けさせたとか云うんじゃないのか?」
 暗い色の髪、と聞いて真っ先に思い浮かんだのは、あの“小悪魔”の名前だった。
 美少年や美青年を、女性を描く際のモデルにすることは、画家の工房では実際よくある話だったし――それに、あの美少女のような貌の“小悪魔”であれば、小細工をせずとも、胸を描き加えるだけで、充分美しい女として描けるだろう。 だが、ジュリアーノは首を振った。
サライじゃないよ。それなら、見ればわかる――レオナルドは、彼をモデルに『レダ』を描いているからね。サライじゃないよ、私は  ……彼女が誰だか、気になって仕方がないんだ」
 サライではない、見知らぬ女。
 ジュリアーノの心を動かし、何よりも、あのレオナルドにモデルにと望まれた――その幸福な女とは、一体どこの何ものなのだろう。
「――気になるんだろう?」
 ジュリアーノが、くすりと笑った。
「気になるのなら、素直にそう云えばいいのに。そうしたら、私が君を連れていってやれるのだから」
「俺は――仕事があるんだ」
 意地を張ってそう云うと、ジュリアーノは、またくすりと笑った。
「知ってるよ。前の聖下の墓廟を作らなくちゃならないってことは。――だけど、その合間に、私の誘いに乗って、ちょっと息抜きに出歩くくらい、あったっていいんじゃないのかな?」
 この申し出に、心が動かぬわけではなかったが――しかし、やはり自尊心が邪魔をして、素直に頷くことができなかった。
 大体、レオナルドには、かつてひどい罵りの言葉を投げつけたことがある。そのせいでか、フィレンツェで同じ仕事をしていた時も、一定の距離をとられてしまったミケランジェロだ。
 そんな自分が訪ねていっても、レオナルドはよい顔はしないだろう。
 ミケランジェロが沈黙していると、ジュリアーノはくすりと笑った。
「意地っ張りだね、相変わらず。――まぁ、私もずっとローマだから、気が変わったらいつでも云ってくれよ」
 また来ると云い残して、ジュリアーノは帰っていった。
 ミケランジェロは、しばらく呆然と椅子に坐ったままだった。
 レオナルドがローマにいる。
 それを喜んでいるのか悲しんでいるのか、自分でもよくわからなかった。
 あの男の絵に打ちのめされるのを恐れる心と、それでも見てみたいと望む心と――二つの心の間で揺れ動くばかりで。
 ――まぁ、いいさ。
 どうせ、同じローマの空の下だ。その気にならなくとも、噂話は聞くだろうし、偶然顔を合わせることだってあるだろう。
 ミケランジェロは肚を決め、再びモーゼ像に鑿を入れはじめた。


† † † † †


あけましておめでとうございます(遅い)、本年も宜しくお願い致します。


えーと、更新がアレしてたのはですね、出雲行きの紀行文を書こうとして頓挫してたカンジです――どうも、お寺系の紀行は書けるんですが、神社だけだと難しい……多分、お寺は人間のエリアなのですが、神社は神様のテリトリーだから、かも。
宮島とかは歴史のアレコレで人間の入りこむ余地があるのですが、出雲はなー……何か勝手が違うカンジで(汗)。
まぁそんなわけで、散々引っぱりましたが結局これを上げてくことに……まだまだ続きますので、じわっとお待ち下さい。


とりあえず、今年はポッライウォーロ(兄か弟かどっちだっけ)が来るらしいので、それ見に行きたいです。
年末の新聞で見たのですが、何展でくるのかがわからん……早めにチェックすれば、割安チケットあるかもなので、さくっと調べないと!


あと、十日付の×声×語見てたら、例のタイムラインのピースが降ってきた!
オルダス・ハクスリー(この音が原音に近いんじゃないかと思う)、1894〜1963、英国の作家。のちロサンゼルスに移住。
何か、先に名前だけ降ってきたので、今どんな人だか調べ中ですが、読むのに知性を要求される小説だそうです……考察やエッセイの方がわかりやすいかしら、と思いつつ、まずは二人目の嫁の書いた回想録から読んでます。
片目の視力がアレだったり(右目か?)、消化器系の不調で菜食主義やってたことがあったり、何かこう、誰かとか誰かとかに似てるので、やはりこの人が直近のピースなんだろうなぁ、と。
つまり、ハクスリー→鬼→ロベスピエール暴れん坊将軍→伊達の殿→先生→十郎元雅→観阿弥→佐殿→御堂関白殿→阿闍梨聖武天皇聖徳太子→カッサパ王→劉備ハドリアヌスアショカ王→アッシュールバニパル王、と云うことに……直近のピースは二つかと思ってたが、この人の生没年見ると一人だなぁ。
まぁ、まだ存命中に接点のあった方も生きておられるので、この人の話は書かないと思いますが。
とりあえず、一人目の嫁の写真が転がってないものか……!
じわっと調べていきますよ。


ってわけで、次もみけ話。さくっと上げたいです……