左手の聖母 8

 再会のときは、案外早くに訪れた――但し、相手はレオナルドではなかったが。
 ユリウス二世の墓廟に関する契約のため、ヴァチカーノのベルデヴェーレ宮殿を訪れていたミケランジェロは、ふと、中庭をよぎってゆく、丈高い影を見つけ、足を止めた。
 豹の毛皮のようにまだらの、茶色の巻毛――間違いない、あれはサライだ、あのレオナルドの“小悪魔”。
 ミケランジェロが追いかけて、その袖を捉えようとすると、腕がするりと引き抜かれた。
おや、と思う間もなく、サライは振り返り、変わらず美しいその顔に、ひやりとした笑みを浮かべてこちらを見――
 次の瞬間、きょとんとした顔になって云った。
「あれ、あんた何でここにいんの?」
 美青年ぶりが台なしになった。
「俺は、ここ最近、ずっとローマに居続けだ」
「ああ、そう云やそうだっけね。……そうそう、あんたの絵を見たぜ。システィーナのあれ、特別に見せてもらえたんだ。――あんた、あれ独りで描いたんだって? 相変わらずすげぇな、って云うか、それでそんな、背中とか曲がっちまったのかよ?」
「あぁ、まぁ……」
 頷いた途端、叫ばれた。
「何だよ! 身体には気をつけないと駄目じゃねぇか! あんたら彫刻家は、身体が資本なんだろ!」
 ミケランジェロのことを心配するような口調に、彼は心底驚いた。
「クソがきのくせに、俺の母親のような口をきくな!」
 “レオナルドの”サライのくせに。
 だが、サライは、腰に手をあてて、胸を大きく反らしただけだった。
「あんたの母親になるつもりはねぇけど、心配すんのは当然のことだろ! ――それから、俺はあんたと五つしか違わねぇんだってーの!」
 美貌と同様、この憎まれ口も変わらない。
 ミケランジェロは、思わず笑い出してしまった。
「何だよ、笑うなよ、失礼だな」
 サライが唇を尖らせる。まったく、あの“小悪魔”の顔そのままで。
「……変わらんなぁ、お前」
 あれから七年の月日が流れた。ミケランジェロは38歳、五つ違いのサライは33になるはずだ。
 だが、サライは、その美貌も何も、ほとんど変わりがないように見えた――もちろん、幾分歳はとったように見えたが、しかし実年齢よりははるかに若い。二十代半ばと云っても、十二分にとおるだろう。
「そりゃあ、頑張ってますから」
サライは云って、ミケランジェロの背中を撫でてきた。
「あんたはどう? システィーナの絵は本当にすごかったけど、その後、無茶なんかしてねぇだろうな?」
「……ジョヴァンニは、ラファエッロが気に入りだからな。俺の仕事は、先の聖下の墓廟作りだけだ。まぁ、のんびりやらせてもらうさ」
 サライの掌がじんわりとあたたかく、いつもの頭痛が幾分やわらいだような気がする。
「それで――レオナルドはどうなんだ」
 本当に訊きたかったことを口にすると、サライはわずかに沈黙した。
「――先生は、絵を描いてるよ。ジュリアーノ殿のための肖像だ。……それと先生、新しく弟子をとってさ。貴族の子供なんだけど、これがまぁ生意気でさぁ」
 心なしか、苦いものの混じった笑み。
「貴族の子弟か! 親は、よく許したな?」
 画家になるには、聖書や神話などの知識が必要だが、貴族や、行政官・公証人などの所謂“知識階級”の出身の画家は、ひどく少ない。大抵は、金細工や鋳物などの、同じ職人の家の出身のものばかりで――レオナルドは、公証人の家の私生児であったから許された話だったのだし、行政官の父を持つミケランジェロも、仕事が軌道に乗るまでは、父親の執拗な反対にあった。今、父がミケランジェロに対してあまり文句を云わないのは、単に、父が望むだけの金銭を、彼が稼ぎ出しているからであるに過ぎないのだ。
 サライは、ひょいと肩をすくめた。
「まぁね、弟子入り先が、かの天才レオナルド・ダ・ヴィンチじゃあ、反対する方もちょっと腰がひけちまった、ってとこじゃねぇの? それにまぁ、実際この先、どうなるかも知れたもんじゃねぇしさ」
「お前は? 反対なのか」
「先生の決めたことだからさ。――先生、そいつを弟子ばかりか、養子にもしちまったんだ。その坊ちゃんを、自分の跡継ぎにするつもりらしいんだよな。……ま、俺が絵が描けないから、仕方ないっちゃ仕方ないんだけどな」
 絵が描けない。
 それでどうして、
「――レオナルドは、お前を工房に置いておくんだ?」
「さぁ、俺も、それが不思議なんだよなぁ」
 サライは、かなり真剣な面持ちで首をひねり、
「先生、俺の顔が好きみたいだから、それでじゃねぇのかな」
 と、笑いまじりにそう云った。
「いや、それも確かにあるだろうが……」
 それだけと云うこともあるまい。
 ただ顔がよいと云うだけならば、サライの他にも美しい人間は何人もいるだろう。
 だが、その中でサライを――ミケランジェロの知る限りでも十年以上、そばに置き続けていると云うからには、何か、美しさの他に美点があるからに違いない。例えば、今こうして向けられている、母親のような気遣いであるだとか。
「……まぁ、何でもいいや」
 そう云って、サライは背中をぽんと叩いてきた。
「そろそろ帰らないと、先生が探しにくるかも知れないからさ。――あ、そうだ、俺、今、この中に部屋貰ってるんだよ。俺って云うか、先生がなんだけど。場所は……」
 と云いながら、ベルデヴェーレ宮の一角の場所を口にする。
「――何故、俺などにそんなことを教える?」
 特に親しいわけでもないと云うのに。
「ん? や、まぁ、何だったら来りゃいいじゃん。一応な、一応」
 サライは云って、手を振った。
「じゃあな、ミケランジェロ。今度こそ、うちの先生いじめないでくれよな」
「……誰がいじめるか!」
 思わず怒鳴り返すと、サライは、笑い声を上げて去っていった。
 その後姿を見送って、ミケランジェロは、じわじわと感慨がこみ上げてくるのを感じていた。
 サライがいる――ならば本当に、レオナルドもこのローマにいるのだ。ジュリアーノの言葉が、今さらながらに実感されてくる。そうだ、レオナルドはローマにいるのだ。
 とは云え――と、ミケランジェロの心はすぐに凋んだ――自分とレオナルドの間が、これまで以上に近づくことがあるとも思えなかった。
 レオナルドはベルデヴェーレ宮の中にあって、自分はローマ市中で仕事をしている。顔を合わせることも、あるいは遠目に見かけることすらないのではないか。
 ともあれ、サライは、自分たちの部屋の場所を教えてくれた。それはそれで、レオナルドに近づくための、大きな一歩を許されたようではないか。
 ミケランジェロは、そう思って自らを慰め、ベルデヴェーレ宮を後にした。



 ジュリアーノは、言葉のとおり、割合頻繁にミケランジェロを訪ねてくれた。
 今の彼は、メディチ家当主の任を解かれ、教皇軍総司令官の地位の下にローマに留め置かれていた。
「まぁ、こちらの方がありがたいと云えばありがたいんだよ、私はね」
 と、ミケランジェロの工房の、粗末な椅子に腰掛けて、ジュリアーノは云った。
メディチの当主はロレンツォが継いだし、その補佐はジュリオに任されている。私は、名ばかりのゴンファロニエーレとして、ローマで気楽にやっていられるからね。あの二人がいてくれて、本当によかったよ」
「だが、要人の接待を、ジョヴァンニの代わりにこなしていると聞いたぞ。忙しいのじゃないか、顔色が悪い」
 ミケランジェロがそう云うと、ジュリアーノは、すこしやつれた頬を、それでも微笑みに緩めてみせた。
「そうかな? まぁ、ウルビーノでの気楽な食客暮らしとは、確かにかなり違っているのだけれどね。――ところで、モーゼ像の進み具合はどうだい? 私は、今日はそれを知りたくて来たんだよ」
「ぼちぼちな。――見てみるか?」
 と、ミケランジェロは云った――他のものになら、決して云わない言葉だった。
 ジュリアーノの顔が輝いた。
「いいのかい?」
 そういう顔は、心底嬉しそうで。
「あんたになら、いくらでも」
 そう云った言葉は、口先だけのものではなかった。
 ジュリアーノ・デ・メディチは、人の心を掴んで離さないところがあった。
 と云っても、支配者の強引さはそこにはなく、その鷹揚さと、言葉や立ち振る舞いの端々から滲む、彼の心のやさしさが、すべての人の心を惹きつけるのだった。
 ジュリアーノは、特に画家や彫刻家など、美を生み出す職人たちが大の気に入りで、中でもミケランジェロ、レオナルド、ラファエッロの三人の元をしばしば訪れていた。
 自らがパトロンであるレオナルドや、比較的のんびりと仕事をしているミケランジェロだけでなく、絵画に、サン・ピエトロ大聖堂の造営にと忙しいラファエッロすらが、彼の来訪を心から喜んでいるのだとも聞いていた。
 実際ミケランジェロも、こうしてジュリアーノに会って話をし、己の作り上げるものを見せてそれについて語ることに、無上の喜びを感じていたのだ。
「へぇ、もう粗彫りは終わっているんだね。これは、墓碑のどこに収めるつもりなんだい?」
 辛うじて表情がわかる程度に彫られた大理石を目にして、ジュリアーノはそう問いかけてきた。
「墓碑は、大まかに云って三段に作ろうと思っている」
 ミケランジェロは、問われるままにそう答えた。
「本当は、そのさらに上に聖母子像がくるのだがな。――モーゼ像は、その三段のうちの、ちょうど真ん中の段の右手に置くつもりだ。対には聖パウロ像、墓廟の両脇には、レアとラケルの像を置くつもりだ。最下段には四つの時の象徴を、上段には天地の像と、天使に支えられた聖下の像を彫る。完成したら、まったく類を見ない、壮大な墓廟になるはずだ」
「すごいな! このモーゼ像は、本当に墓廟の一部でしかないんだね。これひとつでも、充分に美しいのに……」
「全体を見たら、あんたはもっと驚くだろうさ」
「本当に凄いな。――ミケランジェロ、もしも私が、君より早く死んだなら、私のためにも、そんな美しい墓廟を作ってくれるかい?」
 突然云われたその言葉に、ミケランジェロはひやりとしたものを感じた。
「何を云い出すんだ、あんたは!」
 冗談として聞き流せなかったのは、ジュリアーノの顔に落ちた、青白い翳のせいだったのかも知れない。青白い、この世ならぬものの翼の翳――例えば“病”や“死”と云う名のものの。
 ジュリアーノは、くすりと笑った。
「例えばの話をしているんだけれどね」
「たとえだろうが何だろうが、そんな話はするな! ――あんたの墓廟を俺が彫るのかどうかは、実際にこれの出来上がりを見てから決めてくれ」
「墓廟の出来をかい? それは、気の長い話だね」
「そうだ! あんたはまだ若いんだ、墓の話なんかまだ早い」
「――そうだね」
 静かに笑って、ジュリアーノは頷いた。
 その話はそこで終わったが――ミケランジェロの胸の中に、苦い棘は刺さって抜けはしなかった。


† † † † †


みけの話、続き。やっとこローマ。


ジュリアーノ殿は、まぁこんなカンジで。モテモテだったらしいです(芸術家に)、ジュリアーノ殿。
まぁ少なくともみけにはもててたよね、ラファエッロの描いてるジュリアーノ殿と、みけの彫ったジュリアーノ殿較べてごらんなさい。って云うか、とっとと仕上げたくせに、片耳だけやりのこしてるって、どんだけ手離したくなかったのか――愛ですよね。ピエロはやりかけだもんなぁ。


さて。
例のオっさん(オっさんのオはオルダスのオ)ですが、最初の嫁の写真発見! 『オルダス・ハクスリー 橋をかける』(片桐ユズル)に載ってました。
って云うかこの本、オっさんの義姪(最初の嫁の姪)が回想書いてたりとか、結構面白かったです。二番目の嫁の回想も面白かったですがね。
で、最初の嫁ですが、なるほど確かに美人! 垂れ目だけど気が強そう! (二度目の嫁はアメリカ在住イタリア人ですが)流石はベルギー美人、って感じの、欧州風美女でした。息子さんがまた母に良く似てる(※幼少期)。
そしてやっぱりオっさんは愉快な人っぽいです。ヘンな小芝居の写真も載ってたよ……オっさん……


しかし、『永遠の哲学』はわっかり難い……あれ、私、小説読むより論考読む方が得意な人間なんだが……もしかしてオっさんのは、『素晴らしい新世界』(手持ちのは講談社文庫版)から読むべきだった? 二番目の嫁の回想録は読み終わりました。
クレッチマーの分類は嫌いなのにシェルドンのならOK(←ほぼ一緒)ってどう云うことだオっさん。ドイツが嫌い(イギリス人)だからクレッチマーも嫌い? だが、シェルドンよりクレッチマーの方が先に類型出してるぞ。ほぼ同じってどこの性格学の本にもあるぞー?
蔵書四千冊(しかし燃えた)か、そうか――薄い本入れれば対抗できるな(薄い本以外の学術系でも二千冊はある!)とか思ったのは内緒。
それと、よく名前が出てくるジッドゥ・クリシュナムルティの本もGet。『瞑想録』と、代表作らしい『自我の終焉』――しかし、『自我の終焉』はまだシュリンク破いてすらいない(古本だった)……何かものすごく痛みそうな本なので、しっかりした紙でカバーかけて、その上から未晒しのカバーを……ってどうだそれ。
とにかく、まだクリシュナジさんとやらは一行も読んでませんよ……


ってわけで、次もみけ話。そろそろまたサラーイ。ヴェルデヴェーレ宮でボクと握手!