左手の聖母 9

 とは云うものの。
 それから暫くは、概ね平穏な日々が続いていた。平穏――とある男のことを除いては。
「おい、クソがき!!」
 叫んで扉を開けると、中にいた巻毛の青年は、驚きもあらわにこちらを見た。
「……まさか、本当に来るとは思わなかった」
「何だ、そのもの云いは! ――いや違う、何だ、お前らのやったあれは!!」
「“あれ”って何のことだよ?」
 サライのそのとぼけた物云いに、ミケランジェロは、思わずその襟元を掴んで怒鳴りつけた。
「お前らのやった、あの碌でもない悪戯のことだ!」
「えーと……もしかして、風船の話か?」
「それだ!!」
 レオナルドのやった、碌でもない悪戯の話は、ミケランジェロの耳にも入ってきていた。実際にその場に居合わせたわけでは、もちろんない。
 聞くところによると、あの男は、何かの腸をきれいに洗った風船を、来客のいる部屋いっぱいに膨らませ、人々を恐慌に陥れたのだと云う。得体の知れない半透明のものが、徐々に大きくなっていくその恐怖に、あるものは泣き叫び、あるものは神への祈り――御許へ参りますという――を捧げだし、またうずくまったまま震えていたのだと云う。
 そこへ、レオナルドがひょっこりと現れて、謎の物体の正体を明かし、美徳もこれと同じに満ちていくものだ云々と云う、意味のわからぬ高説をぶったのだと聞いた。
「あれね! いやぁ、あれは面白かったよなぁ。フランチなんかも、がたがた震えるばっかで、動けなくなっててさ!」
「面白かった、で済むか!!」
 人々を死ぬほど怖がらせておいて、その挙句に“面白かった”などと――そんなふざけたことを!
「でも、ちょっとくらいは面白がったって、バチは当たんねぇと思うんだよな。あの風船、きれいに洗ったの、俺だもん」
 サライが、すこし不満そうに唇を尖らせた。
「大変だったんだぜ? 先生とバッティスタ――あ、従僕な――で、一匹分の羊の腸を買ってきたんだけど、バッティスタもこう、やぁなもの渡すみたいに袋差し出してきてさ。中見たら、ぬらぬらした腸が――あー、ざわざわしてきた」
 云いながら、自分で自分の両肩をさすり出す。
「そ――それで?」
 ミケランジェロも、思わず後じさりながら――彼とても、気持ちの悪いものは大の苦手だ――問いかけた。
「それをさ、もうひたすら洗うんだよ。たらいん中でざぶざぶざぶざぶ。先生は見てるだけでさ。“早く早く”って、そんな早くできるかっての。どんだけ長いと思うんだよ、なぁ!」
 この美しい顔をした男が、赤黒い羊の腸をざぶざぶ洗っている図、を想像したら、くすりと笑いがこみ上げてきた。
 サライが目ざとく、
「あんた、今笑ったな? 云っとくけどな、すっげぇ大変なんだぞ、あれ! で、洗い終わったらゆでて、脂を抜いて、乾かしてさ。最後、膨らますのにふいご踏んだのも俺。――わかるかよ、どんだけ大変だったかが」
「……それは――まぁ」
 何十ブラッチョもある長い腸を、一人で洗うのは骨が折れる。その上、それを脂抜きして、乾かして、となると、確かに悪戯ひとつのためにしては、大変な手間だ。
 だが、
「――だからと云って、人を怖がらせたことの云い訳になるか!!」
 我に返ってそう怒鳴るが、サライは肩をすくめただけだった。
「何だ、ごまかされねぇなぁ」
「! このクソがきが!!」
「――あんたさぁ、そんだけかっかしてて、よく卒中とかで倒れねぇな?」
「余計なお世話だ!! ……そう云えば、レオナルドはどうした? いないのか」
 これだけ怒鳴り散らしているのに、ちらりとも姿を見せない、などと云うことはなかろう。
「先生は、フランチ連れて、お呼ばれさ。誰だったか、絵描きかなんかじゃなかったかな。それで、俺が留守番ってわけ」
「珍しいな、お前があいつの傍にいないなんて」
「育ちの悪いのは、お呼びじゃないってさ」
 自嘲まじりの声に、ミケランジェロは、かける言葉が浮かばなかった。
 サライは、くすりと笑った。
「まぁ、仕方ねぇよな、ホントのことだしさ。先生に拾われなかったら、今ごろ俺、どんなことやってたか知れたもんじゃねぇもん」
「――フランチ、と云うのは、誰なんだ?」
 話題を逸らそうと思ってそう問うと、
「ああ、前に云ったろ、先生の新しい弟子で、養子にもなったやつだよ。ジョヴァン・フランチェスコ・デ・メルツィっての。お貴族の出でさ、“ちゃんとしたところ”へのお呼ばれは、俺じゃなくってあいつがついてくことになったってこと」
「……あいつが、そう決めたのか」
 あいつが――レオナルドが?
「どっちかっつーと、呼んでくれる方がな。ま、例外もあるけどさ。先生は、俺とフランチと、二人とも連れていきたいらしいんだけど――まぁ、いろいろあるからさ」
「――そうか……」
 確かに、上流階級の流儀は“いろいろある”のだ。そうして、そこに属さないはずの自分たち、彫刻家や画家なども、彼らとの付き合いがあるが故に、その流儀に縛られることになるのだ。例えば、サライのような人間を、公の場に連れてゆくことができなくなるように。
 すこし沈んだ空気を払おうとするかのように。
 サライは、明るい声を出して云った。
「だけど、フランチじゃ、先生の悪戯の手伝いはできないもんな。だから、そういうのの片棒担ぎは、いつだって俺さ。こないだの、トカゲのドラゴンも――」
「あれもか!」
 ミケランジェロも、その話は耳にしていた。
 レオナルドが、小さなドラゴンを箱に入れて飼っているのだと云う噂――もちろん、本物のドラゴンは火を吐くのだから、箱になど入れられるわけがあるまいとはわかっていたのだが。
「あれな、すげぇ大変だったんだぜ?」
 にやにやと、サライが云った。
「ベルデヴェーレ宮の庭師がさ、珍しいトカゲを捕まえたからって、先生んとこに持ってきたんだよな。ほら、先生、ヘビとかトカゲとか大好きだからさ。……で、でっかいし、見たこともないトカゲだしで、見たとたんに先生、何か思いついちゃったみたいでさ――角つけるの、羽根つけるので大騒ぎだよ。俺も付き合わされて、徹夜だよ徹夜! 歩いた時に羽根が動くようにって、つけ方にまでこだわっちゃってさぁ」
「そ――そのトカゲ、今見れるか?」
 ミケランジェロは、どきどきしながら問いかけた。
 レオナルドの作ったドラゴン、と云うのもさることながら、見た人々が皆、本物だと信じて悲鳴を上げたと云うその生き物を、彫刻家としても一目見ておきたいと思ったのだ。
「いいよ、ちょっと待って」
 そう云って、サライは奥の間へと消え、ややあって、箱を抱えて戻ってきた。
「ほら」
 云われて、箱の中を覗きこむ。
「……小さいな」
 箱の中には、確かにドラゴンに似た生き物がうずくまっている。岩肌に似た茶色の鱗、頭には小さな二本の角、背には蝙蝠に似た翼がついている。
「あたり前だろ、トカゲだってーの」
 サライは、呆れたように云った。
「あんた、なに期待してんだよ。いくらでかいったって、トカゲはトカゲだろ。これでもでっかい方だから、ドラゴンの子供、で通せるんじゃねぇか」
「そ、そうか――しかし、確かによくできているな」
 レオナルドがこだわっただけのことはある。
 その生き物が身じろぐと、背の羽根がはたりと動くのだ。岩のような肌とよく似た色、とても作りものとは思えない。
「その羽根な、別のだけど、トカゲの皮で出来てるんだぜ」
 サライの口調は得意げだった。
「たまたま、飼ってた別のトカゲが死んじゃってさ。先生が、それの皮をびーっと剥いで、骨組みに貼って作ったわけ。角の方は、何かの骨削って作ってと思うぜ。つけ方がミソでさ、膠じゃなくて、水銀使ってんだよ。見たカンジ、全然作りものっぽくないだろ?」
「ああ、本当にな……」
 見れば見るほど、良くできている。
 ミケランジェロは、箱の中に手をさし入れ、そっとその“ドラゴン”を持ち上げてみた。
 トカゲの皮膚は、鱗のせいでか、ひんやりとしてすべらかだった。トカゲがばたばたと身をよじる、その筋肉の動きが指先に伝わってきて、この生き物が確かに生きているのだと知らしめてくる。
 やはり、翼を動かすための筋肉――人間の、肩や背中のそれのような――はない。触れてみると、その羽根が、ただつけられたものであることが、はっきりとわかる。
 だがしかし、サライが自慢するのもわかるような、素晴らしい出来ばえの“ドラゴン”だった。
「あんた、気をつけろよ。そのトカゲ、意外と気が荒いんだ。食いつかれたりするから、落とすなよな」
 トカゲに気の荒いのややさしいのがあったりするのか、と思った次の瞬間、
「……うぉっ!?」
 掴んでいた指先をぱくりとやられ、びっくりして、思わず手を離してしまった。
 トカゲはひらりと地面に降り立つ、が、
「あああ、だから云ったじゃん、て云うか――角が……!」
 手を離した時にどこかに当たりでもしたものか、トカゲの“角”が、ほとんど取れかけて、鼻面からぶら下がっていたのだ。
「どどどどうする!」
「待ってろ!」
 云ってサライは、また奥へ駆けこみ、得体の知れぬものの入った器を持って、戻ってきた。
「あんた、トカゲ押さえてろよ。――いいか、動くなよぉ……」
 などとトカゲに話しかけながら、その得体の知れぬものをなすりつけた“角”を、そっと小さな頭に押しつける。
 トカゲが暴れようとするのを無理矢理押さえこんでいたのだが、つい手が緩んで、その瞬間、ずるりと“角”がずれたのがわかった。
「わぁ、ずれた!」
「俺がやる、よこせ!」
 と云いながら、今度はミケランジェロが一人で押しつける。
「ちょっと曲がってる! て云うか、そろそろ先生が帰ってきそうなんだけど!」
 サライが、ばたばたと走り回って、そのあたりを片付けはじめた時。
「――サラーイ!」
 聞き覚えのあるレオナルドの声が、廊下に近い方の部屋から聞こえてきた。
「わぁ、帰ってきた!」
 サライは頭を抱え――次の瞬間、庭に面した窓を開け放った。
「おい、ミケランジェロ、あんた、こっから出ろよ。トカゲは、俺が何とかするからさ!」
「サラーイ、いないのか?」
「いるよ! ――ほら、早く!」
「あ、ああ、任せた!」
 ミケランジェロは、トカゲを箱の中に放り出し、あわてて窓を乗り越えた。
 庭に下りて、身をかがめた次の瞬間、
「サラーイ、帰ったぞ」
 レオナルドの声が、すぐ近くで聞こえた。
「あ、ああ、お帰りなさい、先生」
 そう云いながら、サライがゆっくりと窓を閉め――室内の声は、それでほとんど聞こえなくなった。
 何だか間男のようだ、と思って、自分の考えにむっとする。
 ――何故、俺が、あのクソがきなんぞと!
 別に、サライのことが好きだと云うわけでもない――それは確かに、あの美しい顔のことは気に入っていたけれど。
 とは云え、確かに見つかると拙いのはミケランジェロも同じだったから、低くかがんだまま、こそこそと庭を出て、そそくさとベルデヴェーレ宮を後にする。
 次はいつ来ようかと、まったく懲りないことを考えながら。


† † † † †


みけの話、続き。間があいたのは、雪のせい。多分そう。
サラとみけのあれやこれや。


トカゲのドラゴンと腸の風船の話は、ちゃんと記録に残ってますよ。
ヒドイ人ですよね、が、まぁそれがレオナルド。『神さまの左手』読んで下さってた方なら、何となく流れで了解して戴けるのではないかと思いますが、そんな感じ。
ベルデヴェーレは、まだちゃんとヴァチカンの中にあるようですが、ツアーのかけ足では回れるはずもなく、建物の配置図とかから書いてますので、まぁどうだか。そもそも、この話はイタリア行く前に書いてるのでアレですが……


えーと、オっさんの話を一本読みました。
と云っても、『すばらしい新世界』ではなく、『恋愛対位法』(岩波文庫)の方。
タイトル詐欺でした――“恋愛”ないよ! “敢えて云うなら「色欲」”と訳者の方が書かれてましたが、うんまぁそんなカンジかな。
そもそも、作中に登場するオっさんがモデルと云われてるキャラが、恋愛がまったくわかってない――かれとその妻の会話が、どうも一昔前の、私と本館参謀殿的なカンジで、二人で大笑いしました。“いつかはあなたに、若い男と若い女が恋をして結婚して、困難にぶつかるがそれを乗りこえて、最後にはおちつくという、単純率直な小説を書いていただきたいわ”とかね! ははは、すみません、それがいつでも最難関。


とりあえず、新潮文庫の短編集をGetしたので、次はそれを読みたい。初長編の『クローム・イエロー』は、新潮の文学全集に入ってるそうなので、そして昔住んでた隣りの市の図書館に入ってる(そして借りられる)ので、今度借りて読みたいです。
角川文庫から出てた『時は止まらねばならぬ』は、ユーズドが一万円overと云う驚愕の価格なので、国会図書館で読むよ……
しかし、昔はオっさん、結構人気のある作家だったんだね。うむ。
読むのに教養が必要、と云うことでしたが、それは原典読む人で、翻訳は訳注がついてるから楽チンだよ!


ってわけで、次もみけの話〜。今度はもうちょっと早くしたい……