左手の聖母 10

 一五一五年、ジュリアーノ・デ・メディチが結婚した。相手は、フランス王ルイ十二世――ジュリアーノがローマを発った丁度その頃に崩御した――の妹でフィリベルト・ド・サヴォア、完全な政略結婚であることは、誰の目にも明らかな二人だった。
 これにより、ジュリアーノはヌムール公の称号を得、名実ともに貴族の仲間入りを果たしたことになる。
 この結婚を、誰が仕切って推し進めたかは、明白だった。
 彼の兄、ジョヴァンニ――法王レオ五世が、己の地盤を固めるために取り持った縁組だったのだ。
 ジュリアーノは、文句ひとつ云わずに、この異国の娘との縁組を承諾した。
「よく、ジョヴァンニに何も云わずにいるな?」
 帰ってきたジュリアーノに、ミケランジェロが云うと、
「フィリベルトは、中々の女性だよ。私は、むしろこの縁組には感謝しているくらいだ――フィレンツェやローマの女性たちは、その、少々強烈でね。……フィリベルトは、君のピエタと天井絵を見て、ひどく感激していたよ。ここに来ると云ったら、ずるいと云われた  ――君に宜しく伝えておいてくれともね」
 まったく、新妻を自慢する男の口調そのもののジュリアーノの言葉に、ミケランジェロは、それでは悪い結婚ではなかったのかと、ひとまず胸を撫で下ろした。ジュリアーノは、中々良い運を引き当てたようだ。
 だが、
「――幸せそうで何よりだが、身体に気を配っているか? 最近痩せたようじゃないか――顔色も悪い」
「……まぁ、すこし、ね」
 そう云って、ジュリアーノは、青白い顔を笑うように歪めた。
「ロレンツォが……ね、またちょっとあって、その後始末が私に回ってきたりしたものだから、かな」
「ロレンツォ? またか! 今度は一体何だ?」
 ロレンツォ・デ・メディチ――“イル・マニフィコ”ではなく、その孫の――の奇矯なことは、今やフィレンツェ、ローマすべての人々の知るところだった。
 あくなき権力欲と、その当然の行使、横暴極まりない振る舞いは、まさしく暴君と呼ぶべきもの。性的に放縦なメディチ家の常として、彼もまた、男女を問わず美しい人間を好んだが、問題は、ロレンツォが、目をつけた相手を手に入れるためには手段を選ばないことで――それで度々揉め事を起こしては、周囲の人間を煩わせていた。
「ロヴェッツェアーノのところの徒弟に、有名な美青年がいてね。その子を呼び寄せて館に留めたまま、幾日も帰そうとしなかったんだよ。親方が心配して、こちらに連絡を寄越してね。聖下はもちろん動けないし、ジュリオも手綱を取りきれないでいるようだしで、私が大急ぎでフィレンツェまで行って、かたをつけてきたんだけど……」
「碌でもない奴だな! まったく、悪いところばかり、ピエロの奴に似やがって」
「――まぁ、仕方のないところもあるんだと思うよ。ピエロが追放された時、ロレンツォはまだ、生まれて間もなかったのだし――フィレンツェで市民として暮らしていたこともないんだ、“市民”の誇りを云ったところで、実感に乏しいのだろうね。自分が支配者であるのは、貴族たちと同じ、生得の権利だと思っているのじゃないかな。だから、あんな、無茶なことも、平気でしてしまえるのだろうね」
 ジュリアーノの言葉に、ミケランジェロは反論した。
「だが、幼い時にフィレンツェを追われたと云ったら、あんただって同じだろう。あいつ一人ってわけじゃない」
「あの時、私は14だったよ。14は、もう子供とは云えない」
「だが、同じ市民に敬意を払えんのは、そもそも支配者には相応しくないだろう。イル・マニフィコは、少なくとも、そんな人間じゃあなかったはずだ」
「――確かにね……」
 ジュリアーノは、苦く笑った。
「ただ、兄の――聖下の思惑としては、私よりはロレンツォの方が、フィレンツェの支配者としては良いように思えるらしくてね……フィレンツェを、確実にメディチのものにするためには、ロレンツォのあの性格の方が良いと踏んだのだろうね。もちろん、あのジョヴァンニのことだから、ロレンツォが引き起こす周囲との軋轢のことも、もちろん考えにはいれているんだと思うけれど……」
「くそったれめが……あのデブ!」
ミケランジェロ、仮にも聖下だよ」
 と云いながら、ジュリアーノの口調にとがめだてする気配がないのは、彼も、ミケランジェロの醜いものへの嫌悪を――そして、兄ジョヴァンニとの性格的な不一致を、よく知っていたからだろう。
「法王だろうが天使だろうが、デブはデブだ、それ以外の何だと云うんだ!」
 ミケランジェロは、吐き捨てるようにそう叫んだ。
「大体、あのデブが妙な色気を出さなけりゃ、あんただって、見も知らん異国の女などと結婚しなくとも……」
「だから、私はフィリベルトを愛しているんだってば」
 ジュリアーノはやんわりと云って、ミケランジェロの言葉をたしなめた。
 そうして、ふと思い出したようにくすりと笑い、
「そう云えば、この間、面白いことがあったんだよ。レオナルドのところのサライがね……」
「あのクソがきが、どうした?」
 と、思わずいつもの調子で訊ねると、
「レオナルドだけじゃなくて、サライの方も気になるのかい?」
「い、いや、そういうわけじゃあ……」
 まさか、レオナルドの目を盗んで、こっそり会っているなどと――そのパトロンであるジュリアーノの前などで、云えるわけがない。
 それでミケランジェロは、もっともらしく聞こえる、部分的な真実を口にのぼせた。
「ただ、昔、フィレンツェ時代に、あのクソがきにしてやられたことがあったんでな……」
「ああ――もしかして、例のサンタ・トリニタ寺院の話かな?」
 ジュリアーノがくすりと笑ったところを見ると、例の一件は、かなりの人々に知れわたっているらしい。
「君も、サライに何やら報復されたんだね。サライは、レオナルドになにかやった人間には、容赦がないからなぁ」
「待て、俺も、と云うのは……」
 ミケランジェロの他にも、あのような?報復?を受けた人間がいると云うことなのか。
 問いかけると、ジュリアーノは頷いた。
「そうだよ。何をやったかまでは、サライは白状しなかったけれど ――その後、彼らがおとなしいってことは、よっぽどこたえることをやったのだろうね」
 例えば――眠っている間に、自身の局部に、何かの腸を被せられたりするような?
 ミケランジェロが思わず――ぞっとして――沈黙すると、ジュリアーノが笑った。
「ああ、ごめん、こんな話じゃなかったな。――そう、サライのことなんだけれど、実はこの間、ロレンツォがローマに来た時に、サライを見たいと云い出してね」
「ロレンツォが?」
 それは――下手をしたら、サライがロレンツォに連れ去られた可能性も……いや待て、ロレンツォがローマに来ていたのは、すこしばかり前の話だったはずだ。そうして、その前後にも、ミケランジェロサライと会っていたではないか。
「そうだよ、大変だったんだ」
 ジュリアーノは、くすくすと笑った。
「ロレンツォときたら、ベルデヴェーレ宮に乗りこんでこようとするものだから、私も慌てて先回りしてね。レオナルドと二人で、サライを長持に押しこんで、その上にレオナルドが坐って、絵を描いているようにしたんだ。知らぬ存ぜぬで通そうとしたんだけど、結構ねばられてね――やっとのことで帰した時には、サライは長持の中で息が止まりそうになってたよ。サライには悪いけれど、あれはおかしかったな」
「そんなことがあったのか」
 別段変わった様子はなかったように思ったが、そう云えば、すこし疲れた顔をしていたかも知れない。
 ミケランジェロは、サライのことがすこし哀れになった。美しい顔をしていることが、こんな風にあだになることもあるのだ。
「美しいと云うことも、良し悪しなのだな……」
 もちろん、見る分には、美しい姿であるに越したことはないけれど。
「そうだね、レオナルドも、そんなようなことを云っていたよ。まぁ彼も、美貌で知られているから、いろいろとあったのだろうね。――ところで、君のモーゼ像はどうなっているのかな? サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂から、復活のキリスト像の依頼を受けたとも聞いたけど……」
「相変わらず、耳が早いな」
 苦笑すると、ジュリアーノはにこにこと笑った。
「それは、君の仕事のことだもの」
 そうしてまた、二人は製作中の彫刻を見ながら語り合ったり、他愛もない噂話などを話したりしていた。
 と、控えめに扉を叩く音がして、
「ジュリアーノ様」
 わずかな隙間から、従僕が顔を覗かせた。
「そろそろ、お時間が……ヴァローリ殿と、この後お約束がおありでしたでしょう」
「ああ、もうそんな刻限か――本当に、時には翼が生えているな」
 ジュリアーノは呟いて、席を立った。
「ずっと、君と話をしていられたらいいのにと思うよ。もちろん、そんなことができるわけもないのだけれど――また来るよ、いいだろう?」
「あたり前だ。いつでも、心から歓迎する」
 力をこめて頷くと、ジュリアーノはふわりと微笑んだ。
「ありがとう。そう云ってくれると嬉しいよ。――それじゃあ、また」
 そう云って、身を翻す。
 ミケランジェロは、その後姿をじっと見送った――寄り添う青白い翳が濃くなっているのを危惧しながら。



 サライとは、その後も割合頻繁に――レオナルドに怪しまれない程度の頻繁さだが――会っていた。
「あんた、この辺で先生見なかったか?」
 ばたばたと走ってきて、サライは云った。ひどく急いでいるらしく、自慢の髪が乱れている。
「先生、今、蝋を練ったのをこう、管の先につけて、割れない泡を作って飛ばすのがお気に入りなんだけど――あれ作ってると、また教会に睨まれるってのに、やりながら散歩に出ちゃったみたいでさ  ――なぁ、見なかったか?」
「見るか! ――と云うか、またあいつは、そんな碌でもないことを……」
「別に、悪戯じゃねぇんだよ。子供の遊びみたいなもんで――って、いた、先生!」
 ミケランジェロにかるく手を上げ、サライは、来た時と同じようにばたばたと去っていく。その走る先には、見覚えのある、長い髭の老人の姿。
 レオナルドは、ローマではほとんど絵を描く仕事はしていないようだった。描いているのは、例のジュリアーノのための婦人像――ミケランジェロは、まだそれを目にしたことがなかった――くらいで、後は数学や、鏡のついての研究に没頭していると云うのだ。
「先生曰く、鏡に映るものは、描かれた絵とは違うんだってさ」
 また別の日に、鏡の前に立って、サライは云った。
「鏡の中に見えるものは、触れなくても本物と同じなんだって。光の反射がどうとか、先生は云ってたけど――鏡に映った菓子は食えねぇじゃん、見た目本物と同じだって、俺にとっちゃ、絵と変わりゃしねぇよ」
「――レオナルドは、そんなことばかりやっているのか?」
 この永遠の都、名だたる画家や彫刻家の集う今のローマで、絵も描かずにそんなことを?
「絵を描くのに必要なんだって、先生は云ってたけど」
 と云って、サライは長椅子に坐りこみ、焼き菓子をひとつ、口に放りこんだ。
「ま、単にやってみたいってだけだよ、理屈つけてるだけでさ。ま、鏡のことは、実際役に立たなくもないらしいんだけど」
「しかし、部屋を与えられているからには、何がしかの仕事があるはずだろう」
 金銭的なあれこれと引き換えに与えられたはずの仕事が。
「だって、ジュリアーノ殿が、それでいいからって云ったんだぜ?」
 サライが肩をすくめるのに、二度驚く。そんな?仕事?があるものか。
 不審感が顔に出ていたものか、サライは、繰り返して云ってきた。
「本当だって。好きなことやってていいからって云うんで、先生、ローマにくることにしたんだからさ。まぁ、ジュリアーノ殿のことは、元から好きだしね、先生。――それに、ここにいると、建築とか治水とか、いろいろ助言を貰いにくる連中もいるから……仕事してないってわけじゃあないんだぜ」
「そ、そうか……」
 だが、考えてみれば、レオナルドは故ヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジアの軍事技師だったこともあるのだし、フィレンツェに戻ってからも、ニッコロ・マキャベッリとともに、アルノ河の改修工事の指揮を執っていたこともあったのだ。
 その彼が、特段の計画にも参加せずにいるのなら、それはそれで、様々の人から助言を求めて訪ねられることもあるだろう。
「あいつは、画家だけではないのだな……」
 彫刻家でしかない自分とは違って。
「でも、画家だ」
 サライは、また肩をすくめた。
「先生にとっては、数学も建築も機械の設計も、土木工事だって、絵のためなんだよ。絵で、世界を表現するんだってさ。――でも、本当はあんただってそうだろ、ミケランジェロ?」
「――そう、だろうか」
 自分は彫刻家で、彫刻に表せるのは人間のことだけだ。
 だが――そう、人間を表すのに必要なすべては、確かに彫刻のためではある。光と影のことも、神と人間のことも、人間同士のあれこれも、すべて。
「あんたと先生って、やっぱりどっか似てるんだよな」
 サライは、にやにやと笑って云った。
「先生も、何となくあんたのこと気にしてるもん。――いつか、あんたたち、ちゃんと話してみればいいのにさ。結構面白いんじゃないかと思うぜ、俺」
「そうか――」
 それはまさしく、ミケランジェロが久しく望んできたことでもあった。
そう、このローマでなら――ジュリアーノの近くにいる今なら、きちんと話をすることもできるかも知れない。ジュリアーノは、喜んで二人の間をとりもってくれるだろう。一緒にいて、話を聞きたいとも云うだろう。そうすれば、自分の望みは、これ以上ないかたちで実現することになるのだ。
 急ぐことはない、時機を待てば、いずれは実現されるだろう。
 ミケランジェロは、そう思って、すこし頬をほころばせて頷いた。



 だが――
 それは、あっけなく消え去る希望だった。
 ジュリアーノ・デ・メディチが死んだのだ。まだ、37歳になったばかりだった。


† † † † †


みけの話、続き。
この時期のみけは、大きな仕事は(ユリウス二世廟以外は)やってないので、どうも何て云うか地味です。
みけの大仕事ってのも、結構先生の最盛期とかぶってるような感があり。もちろん、メディチ家礼拝堂とかラウレンツィアーナ図書館とかいろいろあるのですが、あの辺は何かもう、メディチ家も凋落しつつある感じだし、フィレンツェはあれやこれやだし、あんまりアレなカンジなんですよね。
花の命は短いってヤツですかね……(←違う)



えーと、三月更新が一回だったのは、たいばにとかたいばにとかあなとかの映画であっちこっちしてたからです。いや、あなは四月に入ってからだった……
“大人が自分の殻に引きこもる話”と上記二作をまとめたら、知人の映画好きさん(どちらも視聴済)に笑われましたわ。とりあえずえるさえるさえるさです。萌え滾った……! おじさんはもちろん。どっちもBD買う……! えるさ!!



あと、オっさんの話を幾つか読みました。
新潮文庫の短編集と『二、三のグレース』。うむ、中では『片眼鏡』が割と好きかな。
っつーか、『多次元を生きる』(だっけ)を読んでるのですが、オっさんたとえがおかしい……“両生類”は蛙とかだろ、そう云う用法はねぇ! どうして小説は普通に書けるのに、論考とかになるとおかしなたとえを持ちだしてくるのか……解せぬ。
とりあえず何かアレな予感のする『すばらしい新世界』はおいといて、訳が若干微妙なカンジのにおいのする『夏幾度も巡り来て後に』(この漢字多用なタイトルで既に推して知るべし)を読んでみようかと思ってます。
あと、隣りのK市図書館に入ってる『クローム・イエロー』と、国会図書館の『時は止まらねばならぬ』。
オっさんネタは書けないので、たいばにのモブとして支部で書こうと思ってるのですが、途中までですでに参謀殿に爆笑されました。もろにオっさんみたいです。まぁ書き易いからそうなるよね、ええ、仕方ない。
五月のエア新刊に間に合えば、って感じだな……一石二鳥です。



さて、まだみけのはなし続きますよ〜。