左手の聖母 11

 ジュリアーノの死の知らせを聞いた時、ミケランジェロは、彼にぴったりとはりついていた青白い翳が、遂にジュリアーノを呑みこんでしまったのだと思った。
 ――畜生、何だって、あんないい奴が……
 モーゼ像に鑿を入れながら、ミケランジェロはぼろぼろと泣いた。涙と鼻水を流しながら、それでも「モーゼ」を彫り続けた――ジュリアーノが愛した像だったから。
 ――完成した墓廟を見ろと云ったのに、こいつすら彫りあがらないうちに逝っちまいやがって……
“私が君より早く死んだら、私の墓碑を彫ってくれるかい?”
 この「モーゼ」を見ながらジュリアーノの云った言葉が、今さらに思い起こされる。
 あるいはジュリアーノは、あんな早い時期から、自身の早すぎる死を予見していたのだろうか?
 ――畜生、畜生……
 ミケランジェロの嘆きと同様に。
 ローマ中の画家や彫刻家が、ジュリアーノの死を悲しんでいた。
 ジュリアーノは、本当の意味での美の擁護者で――兄のレオ十世と違って、様々な美を愛していたので、今は不遇な職人たちの間にも、ジュリアーノを慕うものは多かったのだ。彼らにとって、ジュリアーノの死は、太陽が消えたにも等しいものだった。
 ミケランジェロも、心は同じだった。
 ロレンツォ亡き後のメディチ家で、最も愛した男が死んだ。
 ――もう、俺をメディチに繋ぐものはない。
ロレンツォ・イル・マニフィコも、ジュリアーノも死んだ。ジョヴァンニ――レオ十世とは反りが合わないし、ジュリオ――ジュリアーノの従弟の――とも、それほど親しいわけでもない。ピエロの息子のロレンツォはさらに――ミケランジェロの心を縛るものなどない。
その、ミケランジェロの心を見透かしたかのように。
 一五一六年十月、レオ十世は、ミケランジェロとパッチオ・ダニョーロに、サン・ロレンツォ聖堂のファサードの作製を依頼してきた。
 レオ?世の趣味が、ミケランジェロの作るものと違っているのは明白なのに、わざわざ指名してくるとは、
 ――俺を、メディチに繋ぎとめようと云う肚づもりか。
 サン・ロレンツォ聖堂は、法王庁に直接関わりのある聖堂ではない。老コジモや“通風病みの”ピエロなどの墓廟のある、メディチ家ゆかりの聖堂なのだ。
 そこのファサードの作製を任せてくると云うことは、ジュリアーノ亡き後のメディチ家と、縁を切らせないための方策以外ではあり得ないだろう。
 ――ジョヴァンニ……あの豚め!
 とは云え、ミケランジェロ的には、この依頼を受けることにやぶさかではなかった。
 何と云っても、サン・ロレンツォ聖堂は、メディチ家ゆかりの聖堂なのだ。と云うことは、ジュリアーノの墓碑も、そのうちあの中のどこかに作られるはずなのだ。
 ジュリアーノの眠るその場所の、入口に自分の彫刻を置ける――彫刻は、永遠にそこにあって、ジュリアーノの眠りを守るだろう。
 そう考えることは、ジュリアーノを失った悲しみに沈む心を、わずかなりとも浮き立たせてくれるような気がしたのだ。
 もちろん、ユリウス二世の墓廟は作製しなくてはならないが――そのための気力を取り戻すためにも、この依頼は必要なものだと思われた。
 だが、その依頼を受けたと同じころ、もうひとつの別れが、ミケランジェロにやってきた。
 レオナルドたちが、フランスへ行くことに決めたと云うのだ。



「うん、俺ももちろんついて行くよ」
 ミケランジェロの許に挨拶に訪れたサライは、頷いて云った。
「ジュリアーノ殿が亡くなって、先生もパトロンをなくしちゃったしね。先生、あんたと同じでしばらくへこんでたんだけど――フランス王の、フランソワ一世? の方から、熱心に誘いがあってさ。迷ってたみたいだけど、決めたんだって。もう、三日後にはローマを発つんだ」
「三日――早いな」
「本当は、もっと前に決まってたんだけど、準備とかで、中々抜けてこれなくってさ。とうとう今日になっちゃったんだよ。――先生と行くのは、俺とフランチ――メルツィと、従僕のバッティスタだけなんだ。真冬になる前にあっちに着きたいから、それでバタバタしてたんだよ」
 そう云うサライは、どこか浮かぬ顔だ。
「――お前、行きたくないのか?」
 ミケランジェロは、思わずそう訊ねていた。
 そんなことがあるはずはない。一国の王に招かれていく、と云うことは、画家や技師にとっては無上の喜びであるはずだ。ましてフランス国王と云えば、今やその威光は神聖ローマ帝国皇帝や、ローマ法王にも比肩するほどの大君主であると云うのに。
「まさか!」
 案の定、サライも笑い飛ばして云った。
「これ以上の後ろ楯なんか、望めっこねぇもんよ。それに、俺が、先生のいないところで生きてくわけもない――ただ、たださ、最近先生、考えこんでることが多くってさ……フランチって養子も迎えたことだし、俺、そろそろ用済みなのかなって……」
「用済み? お前がレオナルドを、でなくてか?」
 しょうもない悪戯ばかりしているレオナルドを、サライが見限るのではなく、その逆があり得るのだと?
 そう云うと、サライは唇を尖らせた。
「何で俺が捨てるんだよ。捨てられる方に決まってるだろ」
「いや、それがわからん」
 それだけの美貌――もう、サライは36になるはずなのに、まだ二十代でも通りそうなほどに、美しい――と、機転の利くその頭があれば、レオナルドならずとも引く手あまただろうに。
 第一、
「――あいつが、お前なしでやっていけるものか」
 足場から落ちるわ、仕事は放り出すわ、しょうもない悪戯はするわの、あのレオナルドが。
 サライは、くすりと笑った。
「ありがと。あんたくらいだよ、俺にそんなこと云ってくれるの」
「――もう、行くのか」
 立ち去ろうとする素振りに、そう云えば、サライはまたくすりと笑った。
「大丈夫、行くったって、ミラノよりちょっと先ってだけだろ。また会えるかも知れないじゃん。――それに、先生がまたおっ放り出されないとも限らねぇしな。……そうしたら、俺たち、ミラノに帰ってくるからさ。先生、ミラノの隅っこに、イル・モーロから貰った葡萄園を持ってるんだ。俺、万が一の時のために、あそこに家建ててるんだよ。今は、倉庫代わりにしか使ってないけど――もしも先生が食いっぱぐれるようなことがあったら、老後はあそこで暮らすつもりだからさ。そしたら、あんた、訪ねてきてくれよ。ローマやフィレンツェからは、ちょっと遠いけど――フランスほどじゃねぇだろ?」
「ああ……」
 この男も行ってしまうのだ――そしてレオナルドも。
 思わず声を詰まらせると、サライに背中を叩かれた。
「あんたも、元気でな。もう、こんな背中曲がっちまうような無茶、すんなよな」
「お前こそ」
 声が、涙の気配を帯びているのが、自分でもわかる。
「あいつに、ちゃんと紐でもつけておけよ」
「そりゃ難しいなぁ」
 頭の上で、ははと笑う声がした。
「ま、せいぜい頑張るさ。あんたも、頑張り過ぎない程度に頑張れよな」
 こんな時でも、サライは気遣いを忘れない。
 ミケランジェロも、思わず笑いをこぼしていた。
「まぁ、そう心がけるさ。俺の名前がフランスで聞こえたら、元気でやっていると思ってくれ」
「わかったよ。――じゃあな、ミケランジェロ。別れは云わない。また会おうぜ」
 別れは云わない。そうだ、遠いと云っても、地続きの場所に生きているのだ。別れは云うまい。また、会える日もあるだろう。
「ああ――また」
 頷いて返すと、サライはにっこりと笑って去っていった。途中幾度か振り返り、かるくこちらへ手を振って。
 ミケランジェロは、戸口に立って、その姿が角を曲がって消えるまで、ずっと見送っていた――こぼれそうになる涙をこらえながら。
 レオナルド一行がローマを後にしたのは、それから確かに三日の後のことだった。



 その年から翌一五一七年にかけて、ミケランジェロはとにかく忙しかった。
 暮れ近くになって、フィレンツェの弟から、父が重病だと云う手紙は来るわ、それで急いで帰郷しなくてはならなくなるわ、にも拘らず、レオ十世は、早くファサードの模型をよこせと矢の催促だわ、大理石の選別はせねばならないわ、もちろんユリウス二世の墓廟も作らなくてはならないわ――
 その上、ファサードの粘土模型が出来上がってきて、気に入らなかったので作り直して引渡してみれば、レオ十世からは、“壊れたから、木で作り直して引渡せ”――絶対に、法王自身が壊したに決まっている、とミケランジェロは確信していた――と云ってくる。
 前々からの依頼であった、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂の“キリストの復活”像も、まだかまだかと急かされて、ミケランジェロは本当に叫び出したいくらいだった。
 ――どいつもこいつも、俺に仕事をさせる気があるのか!
 自分は彫刻家なのだ、と、胸の裡でいつもの言葉を繰り返す。
 彫刻家のやるべきことは彫刻であって、依頼主のご機嫌とりは含まれないはずだ。そんなことに時間を割かねばならぬなど、本当に、単なる時間の無駄でしかない。
 とは云え――無論、ミケランジェロも職人の一人として、金を出してくれる人間が必要であることは、骨身に沁みてわかっていた。
 金を出してくれる依頼主がいなければ、彫刻をするどころの話ではない。ましてミケランジェロは、老いた父や、働きもしない兄弟たちを背負っている――そう、金がなければ話にならないのだ。
 ――くそったれめ!
 ミケランジェロは、心の中で罵りの言葉を吐き散らしながら、仕事をした。
 カッラーラの石切職人や運搬船の船頭たちともめながら、それでも石を選び、彫刻をした。
 レオ十世とも何とか折りあいをつけ、サン・ロレンツォ聖堂のファサード作製も正式な契約にこぎつけ、さてやっと腰を据えて仕事にかかろうかと思ったころ――
 一五一九年六月、レオナルド・ダ・ヴィンチが死んだとの知らせが届いた。五月二日、アンボワーズのクルー城で、その最期は、養子のフランチェスコ・デ・メルツィが看取ったと云う。知らせは、そのメルツィからフィレンツェに届けられたのだった。
 ――では、サライは……?
 サライは――昨年のうちに、ミラノへ帰りついていたと云うことだった。


† † † † †


はい、みけの話、続き。
先生が仏行き〜死亡で、一時代終わったカンジ、にはならないのですが、みけだから。
この後は、ロマン・ロランの『ミケランジェロの生涯』(だっけ 岩波文庫)を参考に、捏造をまじえて進みます。
なので、普通の研究者のアレコレとかとはかなり隔たった内容になってるかと思いますが、まぁその辺はアレコレ。そもそも夜の闇の電波情報中心なので、それに合致するのを参考にしてるのですがね。ふふ。



そう云えば、職場のコミック担当が「これどうですか」と勧めてくれたのが、19日に発売した『アルテ』一巻(大久保圭 徳間書店ゼノンコミックス)。
16世紀フィレンツェを舞台に、家出(?)した貴族の娘アルテが、画家の工房に入って一人前の画家を目指す話――と云うと、何となく違うような気がする……いや、大筋はこうだけど。
レーベルよく見ないで読んだのですが、掲載誌がゼノンとはオドロキ……絵柄は少女まんがっぽいです。が、少女マンガで相手役がごつい髭はねぇな……私は髭の方が好みですが。
そう、髭! 髭がアルテの師匠なわけですが、名前が“レオ”で、ヴィジュアルがみけらにょろと云うアレコレ。ぼっち工房でブルネットと云うと、やっぱみけの方が似てるかな……女嫌いじゃないけど(しかしみけらにょろだって、何だっけ、こないだ来てたクレオパトラのモデルのあの人、とは親友だったわけだしな)。
とりあえず、工房のあれこれはともかく(鍋釜直すようなマエストロではない)、16世紀フィレンツェの日常は、とても生き生きと描いてあります。あれ、よく知らんが、16世紀に入ると、画家は画業に絞られちゃうのかな? 先生がぶいぶい云わしてた頃は、鍋釜の修理も請け負うのが画家だったのだが……
まぁともかく、話は面白いです。期待。
一個だけアレすると、“サライ”は“小悪魔”で、でかいみけらにょろ的おっさん(と云ってもいんじゃないかな、たいばにのおじが“おじさん”なら)に使う言葉ではないような。『モルガンテ』っつーかルイジ・プルチのアレコレでも、ニュアンスは“小悪魔”なので――悪魔は普通に“ディアブロ”だか“サタナ”か“ルチフェロ”か、その辺じゃないかな〜。



でもって。オッさんは、行ってきました国会図書館
しかし、デジタル化されてる書籍はうちでも読めるっぽい(利用者登録者に限る)ので、『時は止まらねばならぬ』はうちで読もうと思います。
で、隣りのK市で借りた『クローム・イエロー』は、半分まで読みましたが、うんまぁ普通に読めた。が、『恋愛対位法』の方が面白いかもね。
やっぱり訳が駄目だった(訳者が本業の翻訳家ではないらしい――日本語おかしいよ)『幾度も夏巡り来て後に』はちょい投げ中。同じ訳者の『すばらしい新世界再び』には手はつけまいと決意。
国会図書館のデジタル資料はうちで読みますが、加藤周一のオッさん批評がマイクロフィルムだったので、そのまま返却しちゃったのが……どっかに普通の転がってないか……
あとは、『島』とか短編あれこれとかをちまちま読みたい所存。
何か、オッさん本国では、日本における太宰的なアレなのだそうで――え、それって結構大物じゃん。それにしては、今翻訳少ないけど。しかし、国会図書館で読んだ古い評論で、評者が何か“何で変わっちまったんだよぅ”(後期のオッさんの作風について)とか愚痴ってるのがあって、面白かった。完全に拗ねてる感じでした。いやいや、人は変わるものですよ(笑)。うん、確かに太宰ファンがいきなり肩すかし食ったカンジっぽい。
そうか、意外に大物だったんだね、オッさん……ホントかなー。



ってわけで、まだまだみけ話。ふふふ……