左手の聖母 14

 サライの建てたと云う家は、確かに葡萄園の南よりの場所にあった。
 二階建ての、決して大きくはない――けれど、二人ばかりの人間が生活するには、充分すぎるほどの家。
 だが、そこはひっそりと静まり返り、人の気配は感じられなかった。
 本当に、サライはここに住んでいると云うのか?
 不安な思いを抱えるミケランジェロの見る前で、
「サラーイ! いるんだろう、サラーイ!」
 ぴったりと閉ざされた扉を叩き、バッティスタは呼ばわった。
「お前にお客様だ。出てこい、サラーイ!」
「……俺に客って、何だよ」
 奥から、聞き憶えのある声がした。
「開ければわかる。びっくりするぞ」
「そうそう、俺が驚くかよ」
 そんな声とともに、扉が開き――
 姿を現したのは、記憶にあるのとほとんど変わらぬサライだった。あれから、もう八年も経っていると云うのに!
 サライは、その鳶色と紺碧の、不思議な瞳を見開いた。
「――ミケランジェロ……?」
 呆然と、呟く。
「本当に……? 何であんたが、こんなところにいるんだよ?」
 そう云いながら、ミケランジェロの肩や背中をぺたぺたと撫でまわしてきた。
「あんた、また面変わりしちまって……あんなに云ったのに、また無茶ばっかしてたんだな」
「お前は――変わった、のか?」
 髪の長さ――背の半ばまである――以外は、サライはほとんど変わりがないように見える。
 いや、すこしまとう空気が変わったか。昔よりも、どこか現実離れしたような風だ。たとえば、夢の中で生きている人間のように。
「変わらないわけねぇだろ、あれから何年経ったと思ってんだよ」
 サライは唇を尖らせて、不満そうに云った。
 だが、その口調も何もかも、すべてが芝居であるかのように、奇妙に現実味がない。まるで、レオナルドの死とともに、現実で生きることを止めてしまったかのように――それによって、老いることすら止めてしまったかのように。
「それにしても、本当に、何でミラノになんか? まさか、俺に会いにきたとか?」
「いや、俺は……」
 何と説明すれば良い? 右手のこと、フィレンツェから逃げるように出てここまで来たことを?
「マエストロ・ミケランジェロは、こちらへ来るご用がおありだったのだ」
 と、バッティスタが助け舟を出してくれた。
「そのついでに、こちらに寄られたのだそうだ。――私のところは、狭くて、とてもマエストロをおもてなしするどころじゃない。その点、こちらならば、部屋も多いし、大丈夫だろう? と、云うわけだから、任せたぞ、サライ
「ちょっ……任せたって、何だよ!」
「任せたは任せただ。――それではマエストロ、私はこれで失礼致します」
 バッティスタはそういって微笑み、微妙な表情で目配せしてきた。サライを頼むとでも云うように。
 その背中を見送っていると、
「何だよ、バッティスタの奴――そりゃ、泊めてはやれるけどよ」
 サライが、云いながらばりばりと頭を掻いた。
「でも、本当に何にもないぜ、この家――倉庫に使ってただけだからさ」
 だが、そう云っていたのは、もう八年も前のこと――レオナルドが死んでからですら五年が経っていると云うのに、この男はその間、一体どうやって暮らしてきたのだろう?
「俺は別に、泊めてもらえるなら何でも構わん」
「嘘吐けよ。先生の絵、見たいとか思ってるだろ」
 サライは、“小悪魔”の顔でにやりと笑った。
「素描やら手稿の類はフランチが持ってるけど、絵はほとんど俺のところだからな――入れよ」
 促されて、家の中に足を踏み入れる。
 思ったより、綺麗に保たれているようだ。空気は淀んでいるが、締切でもなかったらしい――埃っぽさも、黴臭さも感じない。
「二階の部屋で、空いてるところは好きに使ってくれていいぜ。ただ、南端の部屋には入らないでくれ。階段上がってすぐが俺の部屋だから、使ってくれていいのは、その左隣りからだな」
「南端の部屋は、何なんだ」
「――先生の部屋だよ」
 と云うサライの顔をよぎる、かすかな痛みの色。
 だが、それは一瞬で消え、またそこには、にやりとした笑みが浮かぶ。
「先生の絵が見たいんだろ? こっちに来いよ」
 そう云いながら、奥へと進んでゆく。
 通された部屋は、居間であるようだった。暖炉があり、その前に椅子が二つ、壁際には長椅子がひとつ、置かれている。
 その周りの壁に、無造作に立てかけられているのは、どれもこれも、間違いなくレオナルドの手になる絵画たちだった。
「おお……」
 ミケランジェロは、思わず感嘆の声を上げていた。
 「レダ」はなよやかな曲線を見せ、傍らの白鳥の首を抱き寄せている。足許には、割れた卵から這い出す幼児たち、背後には水辺の草木や花々が、あの繊細な筆遣いで美しく描かれている。
 レダの顔は、レオナルド独特のあの微笑に彩られているが、聖母たちと異なり、その表情はどこか官能的だ。サライをモデルにしているのだろうが、ぱっと見ただけではそれとわからぬほどに、描かれたレダは“女”そのもののように見えた。
 それから、未完成の「聖ヒエロニムス」。獅子に守られた老人の横には、苦行に用いたのであろう岩が転がっている。片手を胸に、もう一方の手を大きく横へ伸ばし、神に問いかけるように、ねじれた視線を上へと向けている。苦悩の貌――救いをどこにも見出せぬ苦行者の。
 その隣りには「聖ヨハネ」――明らかにサライを描いた、崖の前に腰を下ろした若き預言者の姿。杖を肩にかけ、片手で彼方を指し示し、物云いたげに口を開いている。背後には高い樹と遠い山、鹿とおぼしき動物の姿もある。こちらも未完成らしく、筆跡のぼかしが甘い。
 最後に、もう一枚――黒衣をまとった、若い女の肖像。円柱を両側に配した窓辺で、すこし斜めに椅子にかけ、上体をこちらへ向けてひねっている。
 朱い唇、頬紅を施した顔、眉は柳葉か三日月のよう。肌はどこまでも白く、瞳は深い茶色。暗い色の波打つ髪に、薄いヴェールを被っている。
「この絵は――ジュリアーノの云っていた女のものか?」
 ――私は、彼女が誰だか気になって仕方がないんだ。
 ジュリアーノ・デ・メディチをして、そのように云わしめた、あのレオナルドの描いた絵では?
 だが――それにしては、この絵の女の化粧はしっかりと施されているし、確かに美しい女ではあるが、聡明さが際立っているとは云い切れぬ。もちろん、魅力的でないとは云わないが、しかし、ウルビーノやローマで美女を飽きるほど見ていたジュリアーノが、そこまで惹きつけられるほどとも思われぬ。
 何より、女のその微笑――見るものの不安をかき立てるような、どこかに苦悩を孕んだ、そのかすかな笑み。
「ジュリアーノ殿の見たのは、この絵じゃないぜ」
 サライが云う。
「それは、例の『アンギアーリ』の頃に描いてたやつで――フィレンツェの商人の夫人を描いてるんだ。知ってるか、モンナ・リーザ・デル・ジョコンドさ」
 デル・ジョコンドと云う名の男は知らないではなかったが、妻の方は記憶にない。
 第一、
「……依頼された肖像なら、何故、こんなところにある?」
 見たところ、ほぼ完成した肖像のようだ。しかも、レオナルド・ダ・ヴィンチの完成した肖像となれば、依頼主の手許に渡っていないはずはなかろうに。
 サライは、かるく肩をすくめた。
「似なかったんだよ。モンナ・リーザは、こんな顔じゃなかったんだ。で、依頼主もいらないって云うんで、ここに放りこまれてたってわけさ」
「――そんなことがあるのか」
 あの、レオナルド・ダ・ヴィンチにも。
「先生が“笑わない”って云ってたよ――そんなことない、笑ってるだろって云っても、どうしても笑わないって……その上、モンナ・リーザにも似なかったもんだから、引き取ってももらえなくってさ。仕方ないんで、ここに放りこんでたってわけ」
「そうか……」
 ミケランジェロは、再びその「モンナ・リーザの肖像」に視線を戻した。
 黒衣の、かすかな微笑みをたたえた若い女――美しいが、どこか不安なその微笑。
「――苦しそうだな」
 モデルがか、それとも描く画家がか。
「あんまり幸せな女じゃなかったからな」
 サライの声は、思い出の中の痛みを見つめているかのようだった。
「この絵を描く前に、子供を死産したんだって云ってたよ。同じ頃に旦那が浮気したりとか――だからじゃねぇのかな」
「そうか。――では、ジュリアーノの見た方の絵は?」
 絵がほとんどここにあると、サライは云った――それならば、ジュリアーノの見たと云う黒衣の女の絵も、サライの手許にあるのではないか。
 期待をこめたミケランジェロの問いに、けれどサライは首を振った。
「あれは……駄目だ」
「ないのか」
「あるよ。あるけど、あれだけは駄目だ」
「何故?」
「あれは――あんたにだってあるだろ、他人に見せたくない彫刻や素描ってやつが。あの絵は、先生にとってはそういうものだったんだ――ジュリアーノ殿にならともかく、あんたには見せられないよ」
 そういうものか、と半ば疑問に思いながらも、ミケランジェロは頷いた。
 まぁしかし、己が他人に見せたくないものがないかと問われれば、もちろんそういうものも存在はしていたから、レオナルドもそうなのだと云われれば、おとなしく引き下がるしかない。見せたくないもの――昔こっそりと描いた、レオナルドとサライの素描のような。
 サライはほっと息を吐き、その代わりのように描きかけの聖母子像を持ってきた。
「ほら、こういうのもあるからさ。『聖アンナと聖母子』の、気に入らなかった下絵なんだけど」
 板の上には、確かにレオナルドの筆致で、聖母子と聖アンナの姿が描かれている。が、それは、ミケランジェロがかつて見たのとは違う構図のものだった。
 人物が三人に減り――洗礼者ヨハネの姿がない――、幼いキリストは、子羊に戯れかかっているようだ。聖母は、相変わらず母親の膝の上だが、フィレンツェで見たカルトンとは異なり、こちらではちゃんと、どのように坐っているかが頭の中で組みなおせる――但し、絵のとおりであるためには、聖アンナがかなりの大女でなければならないが。
 レオナルドの気に入らなかった理由は明白だった。構図が、片側に寄りすぎているからだ。子羊と戯れるキリスト、それを抱き寄せようとする聖母は聖アンナの膝の上。美しい正三角ではなく、構図の頂点は、画面の左側に寄っている。
「――これも、気に入った構図のものがあるのか」
 それでも美しい聖母の微笑に、心を奪われながら問う。
「――ある、けど」
 サライの答えは、今度も微妙なものだった。
「駄目か」
「わかんねぇよ……もしかしたら、いつか――」
「わかった」
 もしかしたら、いつか――それは、完全な拒絶ではない。
 それならば、いずれ、いつか、目にすることができるかも知れないではないか。
「それでは、俺が使ってもいいという部屋を、見せてもらえるか」
 ミケランジェロがそう云って促すと、サライは頷いて、二階への階段を上りはじめた。


† † † † †


一ヶ月ぶりです、みけの話。
サラと再会〜。



作中、いろんな絵が出てきますが、『レダ』は模写だけ残ってるアレ、『聖ヒエロニムス』はヴァチカンのアレ、『聖ヨハネ』は有名なアレではなく、『荒野のヨハネ』とか『バッカス』とか云われてるアレ、そして『モンナ・リーザ』はアイルワース版です。
有名どこの三作は……ふふふふふ、まぁそのうちに。



ところで。
表紙(皇なつき)に惹かれてロジャー・ゼラズニイ『光の王』(ハヤカワ文庫SF 新装版)を読んでるのですが。
何だろう、これの主人公? サム=シッダルタ=仏陀如来=正覚者etc.が、何かこう、すとんと腑に落ちる仏陀でどうしてくれようと云うカンジ。
未読の方のために一言で云うと、“やる気のない阿闍梨”みたいな。っつーか、“奈良六宗だった阿闍梨”? 尻尾を掴ませないのらりくらり、って、わかんないことには口をつぐんでいた仏陀(パーリ語仏典とかの)みたいなカンジで、真面目な仏教徒の皆さんには悪いが、もの凄く腑に落ちた。これ(=腑に落ちた)はマズイ。マズイですよとても!!
聖☆おにいさん』より全然性格悪くてうはー。
まだ半分までしか読んでませんが、この仏陀はいい造形だ。でもって、こう云う仏陀なら、確かに阿闍梨もプチ(じゃないかも知れない)仏陀ですわね。うむ。うむ……(汗)



今度はもうちょっと早く更新を……!
次もみけの話ですよ〜。