左手の聖母 15

 ミケランジェロが選んだのは、サライの部屋のすぐ隣り――レオナルドのものだと云う部屋とは反対側の――だった。
 南東に開いた窓からは、葡萄園と市壁、緑の野と遠い森、その向こうの空に霞むように、かすかに青く山の峰が見える。
「中々いいところだろ」
 と、窓を開け放ちながら、サライは云った。
「もともとイル・モーロの地所だったからかな、景色は最高にいいんだぜ。葡萄もまぁまぁ――去年の葡萄酒があるから、後で開けてやるよ」
「葡萄酒も作っているのか」
 まぁ、実がなるままに放置しておくわけもあるまいが。
「うん、まぁ、近くの農家に任せてるだけなんだけどさ。先生が、いろいろこだわって――木の根元に石灰を撒くといい葡萄ができるとか何とか、手紙に書いて指示したりしてさ」
「成果はあったのか?」
「どうかな――先生は、美味くなったって喜んでたけど、俺にはよくわからなかったんだよな」
「……後で味わわせてもらおう」
 そうして、夕食の席で出された葡萄酒は、まぁそう酷くはない出来のものだった。葡萄の種の違いからか、土質の違いからか、ミケランジェロの好むキャンティよりも、味も香りも薄く、深みもなかったが。
 サライに感想を訊かれ、思ったとおりを口にして、さらにもう一杯を所望すると、
「何だかんだ云って、もう一杯かよ」
 と云いながら、酒盃に注ぎ足された。
「いや、だが、これも悪くない、悪くないぞ」
「ほんとはどっちなんだよ?」
 笑って云いながら、サライも杯を重ねる。
 穏やかな晩餐だった。
 ミケランジェロは、いつもどおりの量を平らげて、その健啖ぶりで、サライを驚かせた。
「そこまで食べるやつ、俺、初めて見たぜ」
「そうか? 俺には普通なんだが」
「いや、“大食らい”の俺より食うってのは、びっくりだぜ」
 ミラノ風の料理は目新しく、味もまぁまぁ気に入った。
 リゾットや具入りパスタのスープ、それから、骨付き肉を叩いて薄く延ばしたものに衣をつけて揚げたもの――コトレッタと云うらしい――は、ミケランジェロの気に入った。穀物の粉を練って作る、ポレンタというものは、正直食えたものではないと思ったが。
「あんた、好物何?」
「鰯だ」
 即答すると、笑いが返ってきた。
「あんたらしいね」
「鰯なんぞ、誰だって食べるだろう」
「先生は食べなかったからさ」
「そうなのか? ……そう云えば、レオナルドは菜食主義だとか聞いたな」
「違うよ。先生、獣臭いのが駄目なんだ。胃が弱いから、脂っこいのも駄目だしね。だから、野菜ばっかり食べてたのさ。お蔭で俺も、あんまり肉が食えなかったんだよな」
「肉と脂が駄目だ? 人生の半分を損しているな、それは」
「ほんとだよな」
 笑みかわして、杯を重ねる。
 穏やかな夜だった。
 サライも、昼間のあの現実離れした様子が嘘であったかのように、よく食べ、よく飲み、よく喋った。
 昔に戻ったかのようだった――サライは、数日のうちに酢や油に漬けた鰯を手に入れてきてくれ、それからは、ちょくちょく鰯が食卓に上るようになった。
 ミケランジェロは、レオナルドの絵や素描を見て過ごした。
 サライは、右手のことを訊いたりはしなかった。食事も何も左手でやっていたから、何も思わないはずはなかっただろうに、何も訊かず、ただ、
「そうして左手使ってると、先生みたいだよ、あんた」
 とだけ云って、微笑んだ。
 バッティスタは、細君とともに、時折顔を見せに来た――夕食にと、何がしかの料理を持って。そうして、時には昔の話を聞かせてくれもした。例の羊の腸の悪戯の話や、動物の形を模した風船を持ち歩いて教会に睨まれた話、その他の小さな悪戯の話などを。
「……マエストロのお蔭で、サライもすこし元気が出てきたようです」
 後でこっそりと、バッティスタはそう云ってきた。
「ミラノへ戻ってきてからこっち、サライはずっと沈んでいたんですよ。我々も、腫れ物に触るような感じで、どうしたものやら考えあぐねていたところだったものですから……」
 その声は、明らかな安堵を滲ませていた。
「そんなにか。俺の前では、至って普通にしているようだが……」
「それは、マエストロが相手だからですよ。――いや、そうじゃありませんね。我々の前では、普通らしく振舞ってはいたけれど、どこか現実とはずれていたんです。でも今は、本当に普通にしているようだ……」
 そう云って、バッティスタは、サライのいる厨房に視線を走らせた。
「――マエストロ、図々しいお願いだとは思いますが、どうか、サライの傍にいてやっては戴けませんか。もちろん、できる限りで結構です。あいつは、マエストロと一緒なら、多分、こちら側に留まっていられると思うんです……」
 ?こちら側?。それは、生者の側、と云う意味なのか。
「……俺なら、いくらでも平気だが」
 どうせ、彫刻もできないのだし、この先どうするあてもないのだから。
 それを聞くと、バッティスタは、ほっとした様子で目を伏せた。
「ありがとうございます、マエストロ……」
 その手が、ミケランジェロの左手を握りしめる。
 と、
「おーい、葡萄酒の水割り飲むか?」
 サライが、杯と水差しを載せた盆を片手に、厨房から顔を覗かせた。
「ああ、飲むぞ」
 ミケランジェロが応えると、バッティスタは、慌てて握っていた手を離して頷いた。
「私もだ」
 云いながら、ミケランジェロに向かって、片頬で笑みかけてくる。
 いい男だ、サライのことを本当に心配している――そうしてまた、このように心配されるサライは、何と幸福者であることか。
 だが、今のサライは、そんなことは思い至りもしないのだろう。
 サライを現実に引き戻してやらなくてはなるまい。そのために、自分の存在が有効であると云うのなら――どれほどでも傍にいてやろうとも。
 バッティスタの微笑みを見つめながら、ミケランジェロは頷き返し、そう心を決めていた。



 サライはまったく普通のように思われた、が、やはりそれは表面だけであったようだ。
 珍しく夜中に目を醒ましたミケランジェロは、用を足しにいく途中で、例の南端の部屋――レオナルドのものだと云う――に、かすかな灯りがともっているいることに気がついた。
 ――サライ、か?
 それ以外には考えられなかった。
 教会の鐘が、闇の中に響く――朝課の時間なのだろう。夜明けまでは、まだ遠い。
 用を足して二階へと戻り、そっとその部屋の入口に立つ。
 案の定、そこにいたのはサライだった。
 燭台に蝋燭一本だけを灯し、椅子に坐って、一枚の絵を見つめている。
 否、“絵”と云っていいものかどうか――サライが向かい合っているその“絵”には、すっぽりと覆い隠すように布が掛けられていたのだから。
 画架に掛けられたその“絵”を見つめ、サライは無言で坐っている。
 壁には、他に二枚の絵らしきもの――蝋燭のかすかな光の中では、それとても、ただ絵板のようなものが見えただけのことだったのだが。
 あれが、レオナルドの残りの絵。
 そう思った途端に、見たいと云う気持ちが突き上げてきて、ミケランジェロは、ふらりと室内へ足を踏み入れようとした。
 その瞬間、灯りが消え――
「――入るな」
 闇の中から、声がした。サライの、聞いたこともないほど凍った声が。
「入るな、ここは先生の部屋だ。あんたがずかずかと入りこんでいいところじゃない」
 闇の向こうで、睨みつけてくる気配――まるで、そこに何か、牙もつ獣がひそんででもいるかのよう。
 ミケランジェロは、一瞬息をのみ、じり、と後じさって戸口を出た。
「わ、わかった――ここには入らん」
 手を上げて云うと、すこしやわらかくなった声が、
「――あんたに悪気のないのはわかってるよ。だけど――先生の領域にだけは、誰にも入ってきて欲しくないんだ」
「わかった――すまん」
 素直に詫びの言葉を口にして、自分の部屋へ戻ろうとし――ふと、ミケランジェロは振り返った。
「お前は、眠らんのか」
 このままずっと、レオナルドの部屋で、まんじりともせずに夜を過ごすのだと?
 問いかけると、闇の向こうから、かすかに微笑む気配があった。
「もうちょっとしたら、寝るよ。――あんたは、自分の部屋へ戻ってくれ」
 そう云われては、頷くより他になかった。
 部屋へ戻って寝台にもぐりこんでからも、ミケランジェロは、中々寝つけずにいた。
 サライは、もうずっとああして暮らしてきたのだろうか? 昼間はまったく普通の顔をして、夜になれば、ああしてレオナルドの部屋で、眠りもせずに坐りこんで過ごしていたのだろうか?
 何と云うことだ、と胸の裡で呟く。
 サライにとって、レオナルドの存在が非常に大きなものであることは知っていた。だが、それでも、その死の空洞は、何かで埋めていける類のものだと思ってもいた――例えば、ミケランジェロにおける、ジュリアーノの死の空白のように。
 だが、考えてみれば、ミケランジェロには彫刻があった。ジュリアーノを失った哀しみを石に刻むことで、己の心を軽くして、また生きていくことも可能だったのだ。
 それを思えば、そのような術を持たぬサライが、レオナルドの死の空虚を埋められずに暮らしてきたと云うのは、あるいは仕方のない話であったのかも知れない。
 だが、
 ――もう、五年だぞ。
 いかにレオナルドを失った空洞が大きなものだったとしても――もうそろそろ現実に立ち返り、自分の生を歩み出してもいい頃合だ。
 ――マエストロとならば、サライはこちら側に踏みとどまっていられると……
 バッティスタの心配していたのは、こういうことだったのか。
 正直、重い期待だと思った。
 今でも、あれほど――あの部屋にミケランジェロの出入りを許さぬほどに、レオナルドに心を残しているあのサライだ。それを、それほどの関わりがあるわけでもない自分などが、此岸に引き止め得るものかどうか。
 ふと、扉が閉まる小さな音が聞こえてきた。サライが、ようやく自分の部屋に戻ったものか。
 眠るつもりはあるのかと安堵した途端、睡魔が襲いかかってきた。
 眠りの淵に引きずりこまれていきながら、ミケランジェロは、サライを再び生かさなければと、そればかりを考えていた。


† † † † †


みけの話、続き。
まぁまぁこんなカンジのサラ。
次は「最後の晩餐」見に行きますよ〜。


関係ないのですが、オッさんの名前をぐぐってたら、何故かストラヴィンスキーが引っかかってきました。親しい友人だったのか、知らなかった!
ストラヴィンスキーは、オッさんが死んだ時に作曲してた 変奏曲に「オルダス・ハクスリーの追悼のために」ってつけて発表してるようです。そうか、意外とメジャーネームだったんだな、オッさん……(ストラヴィンスキー基準で考えている)
こないだ読んだ「トーマス・マン日記を読む」(池内紀)にも、マンの息子が作った雑誌の賛同者の中に、オッさんの名前が入ってました。結構交友関係も広いのか……意外。
割と近い人なので、まだいろいろ出てくる、か?
とりあえず、変奏曲「オルダス・ハクスリーの追悼のために」は、どっかで音源調達して聴いてみたいかも。


そのタイムラインは、ちょっとだけ拡張。ハクスリー→鬼→ロベスピエール暴れん坊将軍→伊達の殿→先生→十郎元雅→観阿弥→佐殿→御堂関白殿→阿闍梨聖武天皇聖徳太子→カッサパ王→劉備ハドリアヌス→!!!→アショカ王→!!!→アッシュールバニパル王→ゲルマン人(?)の王オーディン、と云うことに……
ゲルマン人? なのは、実は極東アジア疑惑があるからです。まぁ、“アース神族”とか、スノリが集めた資料ではアジアから来たとか云われてるようだ(うぃきによる)し、あながちアレでもないのかも……



ってわけで、次もみけの話。
鬼の話は続き書いてます。が、ちょっと本気出してる最中(笑)なので、UPできるのは来年かな……
とりあえず、次は「最後の晩餐」で。