左手の聖母 16

「散歩がしたい。ミラノ市内を案内しろ」
 翌朝、朝食が終わってすぐにそう云ったのは、半分はサライを家の外に引きずり出すためだった。
「ああ? ……別にいいけど」
 そう応えるサライは、昨夜のことが夢だったとでも云うように、ごく自然な様子をしている。
「いろいろあるけど、何から見る?」
「い、いろいろとは、どんなのだ」
「や、だから、たとえばミラノのドゥオモとか、ガリアの遺跡とか、うーん、頼めばサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院の絵なんかも……」
「見れるのか!」
 ミケランジェロは食いついた。
 もしも本当に見られるのであれば、それは大した幸いではないか。
「多分な」
 行く? と云って席を立つサライを、ミケランジェロはひょこひょこと追いかけた。
 サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ聖堂へ入ってゆくと、修道士 ――ミケランジェロが会ったのとは別の――が、にこやかに出迎えてくれた。
「これは、サライ殿、お久しぶりです。――今日はまた、いかがなさいました?」
「や、知り合いが、先生の絵を見たいって云うからさ。今、いいかな?」
「どうぞご遠慮なく」
「どうも」
 頭を下げると、サライはすたすたと歩いてゆく。
 慌てて後をついてゆくと、連れていかれたのは、僧院の食堂だった。
 ドナート・ダ・モントルファノの磔刑図と向かい合って、レオナルドの絵はあった。
 広い部屋の中、長いテーブルに居並ぶ、キリストと十二人の使徒たち。「最後の晩餐」の、鮮やかな一場面だった。
 まだ、完成から三十年も経ってはいなかろうに、壁画は一部に細かくひびが入り、絵の具の褪色や剥落も見える。フレスコを嫌ったレオナルドの手法が、ここでも絵を劣化させることになっていた。
 だが、それでもこの絵は、まだ充分に美しかった。
 これは多分、キリストが、弟子の一人の裏切りを示唆した瞬間の光景なのだろう。キリストは、中央で両手を広げ、卓上のパンとワインを示しているようだ。
 使徒たちは驚きをあらわにし、口々に師の言葉の意味を問いかけている。キリストの左側にいるのは聖ヨハネ、女性のような容貌を、悲しげに傾けている。
 ユダ――裏切りのユダは、ほとんどその表情を見ることができない。ただ、金袋を握りしめる右手と、伸ばされ、開かれた左手とが、内心の烈しい動揺を表しているようだ。その顔は、キリストへと向けられている。
 画面の右側へ視線を移したミケランジェロは、思わず笑いをこぼしていた。
 ――お前たち、こんなところでまで、一緒にいるんだな……
 キリストの右手、大きく手を広げて裏切り者を問う大ヤコブは、若かりし日のレオナルドそのものだった。
 そして、そのすぐ右に、両手を胸にあて、無実を訴える聖ピリポは、紛れもなくサライの顔をしている。
 絵の中でまで離れてはいないと云う、その事実に、レオナルドの、サライに対する深い想いを知る。
 この絵が完成したのは、フランスがミラノへ侵攻するより前のことであったはずだから、遅くとも1499年までだろう。その頃、サライは二十歳前――それから、二人が離れる1517年までの十八年間、そうだ、レオナルドとサライは、いつでも一緒にいたではないか。
 あるいは、レオナルドが死んだ今も、サライの心は、その傍に――
 否――ミケランジェロは首を振った。
 それでは、サライの心は既に死んでいるも同然と云うことになるではないか。サライは、これからも生きてゆかねばならないと云うのに。
 しかし、そんな個人的な感慨を措いても、「最後の晩餐」は、確かにすばらしい絵だった。
 レオナルドの得意とする透視画法が、画面に広がりと奥行きを与えている。使徒たちの背後の窓から、晴れ渡った空と、美しい緑の木々が見えている。
 壁に掛けられたタピストリ、長卓の上に並ぶ過越の祭りの食事、三人ごとに分かたれた使徒たちの群れ――その中で、キリストは独り、静かに光を放っているかに見える。
 否、光輪などは、その頭上にはない。ただ、ぽかりとあいた空間が、キリストを、そこだけ光に照らされたかに浮かび上がらせているだけだ。
 その後の受難の予感が、その顔にかすかに翳を落としているが――それ故にか、一層静かに美しい、その姿。
 それは、ざわめく使徒たちの姿とあいまって、画面をより劇的に見せていた。
 美しい、静と動とのコントラスト――
 ミケランジェロは、鮮やかなその光景に、呆然と見入っていた。
 どれほどの間、そうしていたものか。
「――まだ見てたのかよ、あんた」
 突然かけられたサライの声に、ミケランジェロは、はっと我に返った。
「そろそろ、午餐の時間らしいから、撤退しないと、悪いぜ」
 午餐――朝食が終わってすぐに来たはずなのに、もうそんな刻限なのか。
 慌てて、居あわせた修道士に礼を云い、僧院を出る。
「――いい絵だな」
 サライと並んで帰途につきながら、ミケランジェロはそう呟いた。
「いい絵だろ」
 サライが笑う。まるで、自分が褒められたかのように。
「ああ、いい絵だ――もう痛みはじめているのが残念だな」
「先生、フレスコ嫌いだったからさ。……何だよ?」
 喉を鳴らして笑うミケランジェロに、サライが不審げなまなざしを向けてくる。
「いや――あの頃から、あいつはお前をモデルにしていたのかと思ってな」
「元々、先生、そのつもりで俺を拾ったみたいだからな。手帖の中なんか、俺の横顔だらけだよ。何か、ここの線が好きなんだってさ」
 と云いながら、自分の額から喉にかけてを、指先でなぞる。
 その気持ちはわからぬでもないなと、ミケランジェロは思った。
 サライの貌は、こうやって見ても、本当に美しい。
 もう四十四になるはずだが、まだ三十になるやならずの青年のようだ。“豹の毛並み”と称された、鮮やかな茶の濃淡の巻毛も、鳶色と紺碧の入り混じった瞳も、人々の視線を集めるのに充分だったが、その貌の美しさときたら――流石に、美女と勘違いする人間はなかろうが、しかし、充分に両性具有的な美しさで、人々を魅了せずにはおかないのだ。
 まるで、神代を闊歩した、伝説の獣――その中身は、今でも“クソがき”以外ではあり得なかったけれど。
「――まぁ、中はクソがきだがな」
 云ってやると、サライは、また唇を尖らせた。
「だから、俺はあんたと五つしか違わねぇっての!」
 なじみの返答に、ミケランジェロは声を上げて笑った。
 サライは変わらない――だが、その変わらなさが、今は嬉しいと同時に哀しかった。
 滲みそうになる涙を、笑いに紛らせる。
「何だよ、くそ!」
 拗ねたように云うサライが気づかないことを願いながら。
 ミケランジェロは、笑いの中で、そっと鼻をすすり上げた。



 ともあれ、その日から、サライミケランジェロを、ミラノのあちこちへ連れていくようになった。
 街外れのガリアの遺跡、建設途中のミラノのドゥオモ、仰ぐ風景の美しい、街中の小さな辻、スフォルッツァ城の中までも。
「これ、面白いだろ。昔のガリア人の碑らしいぜ」
 街外れの丘の上、文字のようなものの刻まれた岩を撫でて、サライは云った。
ガリア人? 本当か」
 岩には、文字とともに、不思議な組紐紋のようなものが彫りこまれている。装飾のような、それ自体生命があるもののような、異族の紋様。
「先生、何が書いてあるか解読するんだって、これ、まんま写したりしてさ。俗語でもラテン語でもなくて、結局読めなかったんだけど」
 サライの口調は、ひどく懐かしげだった。愛しげな指先が、異族の文字をなぞる。それが、何かの証であるかのように。
 あるいはまたの日、二人は連れだって、ミラノのドゥオモに行き、作りかけの屋根の上にのって、市壁の彼方までを見渡した。
 ミラノはやはり異邦なのだと、このドゥオモに来て、改めてミケランジェロは感じていた。
 フランスに近い――そして実際、かつてその支配下にあり、今は今で、神聖ローマ帝国の実質的な配下にある――ためか、このドゥオモの造りも含め、街全体が?北?のにおいを感じさせる。
 ドゥオモの両翼から天に向かって伸びるいくつもの尖塔、フィレンツェであればクーポラののる主祭壇の上にも、このドゥオモでは尖塔が築かれるのだと云う。
 窓も、北方風に、高く大きく取られ、いずれはそこに、色ガラスで聖書の物語を描いたものを嵌めこむのだという。まったく、フィレンツェやローマのドゥオモとは違う、異国の風を感じる大聖堂だ。
「でも、これ建てるって云い出したの、正真正銘、ミラノ公の奥方だったんだぜ」
 屋根のてっぺんに坐って、風に吹かれながら、サライが云った。
「二百年ぐらい前の公爵夫人がさ、ミラノで生まれる子供がみんな不具だったり、自分も死産ばっかりだったのを嘆いてさ。マリア様に願掛けしたら、立派な子供が生まれるようになって、跡継ぎもできたんだって。それで、それを感謝するために、このドゥオモを建てることにしたんだってさ。サン・ピエトロ大聖堂に負けないのにするって、はじめたらしいんだ。何で北っぽいのにしたのかは知らないけど」
「――詳しいな」
「全部、先生の受け売りだよ。――ほら、あっちがあんたのフィレンツェだよ!」
 指さす彼方を見やるが、そちらには、一面の緑の野と、遠山の青い影が見えるばかりだった。
「……遠いな」
 故郷は、あまりに遠い。
 レオナルドは、こんな遠い街で、二十数年を過ごしたのか。
「遠いよ。でも、その分自由だって、先生は云ってた」
「自由、か」
 そうかも知れない。メディチの力も、法王庁の権威も完全には及ばぬ、この遠い北の街で、レオナルドは自由に、思うままに思索し、絵を描き、技師としての仕事をしたのだろう。
 それだからこそ、あの「最後の晩餐」の、あるいは失われた「アンギアーリの戦い」の、かたちに囚われない絵が可能になったのだろう。
 自由。それは、こっそり入れてもらったスフォルッツァ城アッセの間の、レオナルドの手になる装飾にもあらわれていた。
 天井を覆いつくす、桑の枝の装飾。絡み合う幾本もの枝は、生命力を象徴しているようだ。そして、その枝々の間に、スフォルッツァ家の紋章――公爵家の栄光を願うかのように。
 このような型破りの装飾は、フィレンツェでは決してなし得なかっただろう。樹木を、その繁り具合だけで装飾とするなど――人文主義の花咲くフィレンツェや、法王のお膝元であるローマなどでは、決して許されはしなかっただろう。
 この、ミラノの地にあったからこその、レオナルドだったのか――ミケランジェロは、そのことを思って、ただ呆然と、緑に覆われたアッセの間の天井を見つめていた。
「いや、ミケランジェロ、そろそろヤバいから! 行こうぜ!」
 サライが云って引っ張り出さなければ、いつまでもそこに佇んだままだったかも知れない。
 入れてくれた城の衛兵――サライとは顔見知りらしい――に礼を云い、ミラノ市街に出る。
 立ち止まった頭上に広がる、フィレンツェよりも広い空。
「――自由、か……」
 レオナルドが享受した自由を表すかのような、広く美しいミラノの空。
 自由――それが、レオナルドと自分を隔てるものなのかも知れぬ。
 自分は、フィレンツェやローマで、依頼主の顔色を窺って、汲々として彫刻を制作している。それに引きかえ、レオナルドは――こんなにも自由に絵を描き、部屋の装飾を行い、古今の事物に興味を示し――
「……何へこんでんだよ」
 サライが振り返って、頭をひとつ、ぽんと叩いてきた。
「! クソがきが!」
「あんた、そう云うとこ、先生に似てるよな。何か、わけわかんねぇもんに蹴つまずいて、勝手にへこむとこ」
 サライは小さく笑って、ミケランジェロの背中をまたひとつ叩いた。
「云ったろ、俺。あんたも、先生と同じくらいすげぇって。――先生みたいに好き勝手できる人間なんて、そうはいないんだって。それにあんたには、養わなきゃなんない家族があるだろ」
「それはそうだが……」
 ミケランジェロの、家族。
 過去にあったと云う“ブオナロッティ家の栄光”の夢ばかりを追う父と、兄の稼ぎにぶら下がって、自らは働くことすら考えぬ弟たち。
 もちろん、ミケランジェロは彼らを愛しているが――思うところがないわけではないのだ。彼らを、時に疎ましく思わぬわけでも。
「先生のことが格好よく思えるのかも知れないけどさ、傍にいる方は、たまったもんじゃないと思うぜ? 俺は、まぁ、そんなでもなかったけどさ。それだって、いろいろあったし――先生、家族らしい家族もなくって、身軽だったからなぁ。結構、無茶もできたんだよな。養うの、俺くらいだったしさ」
 サライは云って、ミケランジェロの肩に手を置いた。
「だから、あんたはそんなへこむことなんかねぇんだよ。あんたは、立派にやってるじゃねぇか。――だけどさ、思うんだけど、あんた、もうちょっと仕事は選って、ほんとにやりたいのだけに絞りなよ」
「――ああ」
 だがそれは、この右手が治って、また彫刻ができるようになってからのこと。
 そんな日が再びくるのだろうかと思いながら、ミケランジェロはそれでも、サライに向かって頷きを返した。


† † † † †


みけの話、続き。「最後の晩餐」見学とか。



「ほら、あっちがあんたのフィレンツェだよ!」は、7年前にミラノに行った時に、ドゥオモの上で沖田番とやりましたねー。当然、全然フィレンツェなんか見えませんが。
アッセの間も行きましたねー。しかし、スフォルツェコの目玉はみけのロンダニーニのピエタだったので、うん、まぁ。
しかし、ちょっと前(春先?)に、「最後の晩餐」ネタをたいばにでやったのですが、やっぱ書き方ちょっと変わった、と云うか、これ書いた時よりナチュラルに書けたなぁ――まぁ、あんだけ先生のやりたい放題書いた後だったので、いろいろ蓄積されてたんだろう、うん。



ところで、『阿・吽』一巻出ましたね。月末発売かと思ってたのですが、ゲッサンと云い月刊スピリッツと云い、月初(でもないが)に出すの、小×館さん?
……改めて読み返してみましたが、井上のおばちゃんがヒドイ……そりゃ御霊だけどさ!
って云うのと、阿闍梨も泰範も扱いが酷いわ……やっぱ最澄推しじゃねぇかよ!! ホントもう、1巻目にして投げてもいいですかね……好かぬ。いや、漫画としてよくできているのかも知れませんが!
あと、俺の知ってる奈良六宗と違う……いや、勤操さんはカッコいいですが、何かこう、全体に政治に強い寺ってカンジじゃないと云うか。三一権実論争で有名な徳一さんが既に出てきてますが、あんまこの徳一さんは好きじゃないなぁ。本人は結構気骨のある人だと思います、最澄に続いて阿闍梨に論戦仕掛けたあたりとか。割と(史実の方は)好き。思わず『徳一と最澄』(中公新書)買っちゃうくらいには。
↑の本にも、最澄の対徳一さん、対阿闍梨の態度の違いを、結構ずばっと書いてありましたが、うん、最澄別に真摯謙虚とかじゃねぇ。謙虚なら、南都とももっとうまいことやれたはずだし、真摯なら阿闍梨から経典借りっぱなしとか云うこともなかったはずだ。
世間は最澄=いい人で、南都=悪僧の巣みたいな分け方だが、私はそうは思いませんね。結局、最澄は自分の正義しか認めない偏狭なひとで、しかも自分が反論できない(=勉強が足りてない)“密教”に対しては卑屈になるような人間だったんだと思う。謙虚なら、自分が学んだことだけで事足れりとはしなかったはずだもん。どうせ見下すなら、阿闍梨の『十住心論』くらいぶち上げてみりゃ、そこまで揉めなかった(……かな?)かも知れないのにさ。
いやいや、これは『阿・吽』の感想じゃないか。まぁいいや。



あと、作家さんが好きで買ってる『応天の門』(灰原薬、新潮社)も二巻が出ましたね! 灰原さんは、BSRコミカライズから好き(『SP』とかも、もちろん)なのですが、女子が素敵で、おっさんがおっさんらしくてイイです、が、あの在原業平は……好きだけどおっさん過ぎないか……?
菅原道真がちびっこで目つきが悪く、某人類最強の男を思い出さなくもない(未読)、が、まぁ文官ですからね。
どうも阿闍梨あたりと御堂関白殿あたりの間の平安時代がごそっと抜けてるので、それを補う意味でも今後に注目。
そんなもんかな……



うむ、最澄嫌いが炸裂しちゃったな。まぁいいや。
次こそはもうちょっと早くうpしたいです。次もみけ話〜。