熊野往還記。 二

熊野紀行、二日目。
松本峠と花の窟、那智の滝と補陀洛山寺。
興味とお暇のある方は下からどうぞ。



二日目の起床は六時半。お宿のオプションっつーか何と云うかで熊野古道歩き体験ツアーがついてるので、それに参加するアレコレで。聞けば、終了は十二時ちょい過ぎくらいだそうなので、そこから紀伊勝浦那智大社に行こうと云う肚。



七時に朝食予約していたので、さくっと戴きに行く。
私は洋食(パンとコーヒー派)、沖田番は和食です。昨日は気がつかなかったのですが、食事処が東向きで、ちょうど登ってくる朝日が真正面に――こんな海に近かったのかよ!


「うぉぉぉぉ、目がよく見えねぇ!」


網膜剥離やって、眼の中に何か入ってる沖田番、日光を真正面から見ると、ハレーションで視野が真っ白になるとかで、顔をそむけつつ食事。うむ、一番乗りだったから、一番ロケーションの良い席に坐らせてもらったのだが、それが徒になったか……イキロ。
ご飯はうまうまでした〜。地元野菜のジャムとか、うま〜。
でもって、九時ちょい前にロビーに集合。うむ、全部で五組十人ほど?
お宿のマイクロバスにぞろぞろと乗りこみ、まずは花の窟まで。そちらで、案内をして下さる語り部さんと合流するのだとか。



花の窟は、熊野市駅から南にちょっと下った、海沿いの道路際にある岩山です。
特に社殿的なものはなく、窟っつーか岩山そのものが御神体、って云うか、ぶっちゃけ伊弉冉尊のお墓だと云う話なのですね。
日本書紀にも記載がありまして、神代上第五段に「一書に曰く、伊弉冉尊、火神を生む時に、灼かれて神退去りましぬ。故、紀伊国の熊野の有馬に葬りまつる。土俗、此の神の魂を祭るには、花の時には亦花を以て祭る。又鼓吹幡旗を用て、歌い舞いて祭る。」(読み下しは岩波文庫日本書紀 一』より)とか書いてあります、ホントに。ただ、この頭についている“一書に曰く”を見ると、いつ頃この話が挿入されたのだかは気になるところ……『日本書紀』成立当初からこの文が入っていたとは考えにくいもんな、“一書”ってのは。
とは云えまぁまぁ古い追記だろうとは思うので、ここでやってるお綱かけ神事自体も、昨日今日でどうこうと云うものではないのだろうとは思います――平安時代とかには、埋経の場所だったらしい(『死の国・熊野』豊島修 講談社現代新書)そうですがね。


まぁそれはともかく、語り部さんは、年配のナイスな男性でした。枯れてる、が、結構しゃきしゃきと歩く方で(まぁ、松本峠を日々踏破してるわけだしな……)、カッコ良かったです。お名前失念。
駐車場で合流して、一緒に花の窟へお参り。
しかし、うむ、これは確かに何か違うな――白っぽい岩の壁みたいなのの前に金属の御幣が立ててあって、まぁそれだけと云えばそれだけなのですが。神気、と云うのかわかりませんが、何となくここは違う。沖田番に云わせれば、私が感じてるのは人びとの信仰心の作る何か、と云うことなのですが――まぁ、そう云う気分になるのも無理からぬと云うか、うん、とにかくでっかい。
でもって、その巨岩の上の方、何か欠けて歪になって、なのに何故か白っぽく光ってるところ、から背後の木立ちの方に向かって、長く縄がかけてある。縄で旗っぽいものを作ったのが三つと、扇を下げたのが二本、結構な高さにぶら下がってる――これがお綱かけ神事の“綱”なのだな。
沖田番は、この神事が日本書紀の時代から、ずっと地元の人たちの手で行われてきたことに戦慄してました(そういうのって、神代と今を繋げることになるらしい)が、しかし平安時代なんかは上記のとおりだったようなので、“ずっと”でもなかったんじゃないかなー。信仰の場ではあったんでしょうけどね。
向かいには小さな岩山――こっちは軻遇突智尊のお墓らしいです。今さら『日本書紀』読み返したら、軻遇突智尊って、(一書に曰く、ですが)伊弉諾尊に三つに斬られちゃったとか書いてあるよ……そこから雷神、大山祇、高靇(字出るかなー、雨+口三つ+龍)の三神が生まれたとか――五つに斬った話もあるそうです。何と……
まぁともかく、ざらっとお参りして、お土産屋を冷やかしたら、花の窟を後に。
次は獅子岩



マイクロバスでちょこっと行くと、海辺に佇むライオンっぽい巨岩――獅子岩です。
すぐ隣りにもうひとつこんもりした岩山がありまして、それと合わせて狛犬がわりなんだとか――どこの神社のかは忘れた。
何でも剥離し易い岩でできてるとかで、自然に咆哮する獅子のかたちになったみたいです。うむ、カッコいい。
写真を撮って、またちょこっとバスに乗って、今度こそ熊野古道歩き――松本峠です。
が、どうも小学生の遠足とかち合ったっぽく、うむ、五月蠅い――先に行かせますが、結構声が響いてる。
松本峠あたりの古道は整備されていて、まぁ木の根は結構張り出してますが、そこそこ歩きやすかったです。
途中、石段を横切る溝がちょこちょことあったのは、水が多いこのあたりで、雨が降った時に山からの水を川に流すためだとか――確かに、昨日南紀の車窓から見た感じでも、このあたりもの凄く川が多かったもんなー。それだけ水が豊かだと云うことなんでしょうが。しかし、そのせいで水害も多く、三年前? の大水害で、那智のあたりはまだ工事中なのだとか。
そこそこ急な(しかし当然、神倉神社のあれほどでは……)石段を上がると、ちょっと平坦になったところ、つまり峠のてっぺんに大きなお地蔵さんが一体。
これは鉄砲の痕が残るお地蔵さんなのだそうで、昔、この峠あたりで狩りをしていた男が、その日新しく立てられたお地蔵さんに気づかずに、物の怪かと思って鉄砲を打ち、その傷が残っているのだそう。うん、確かにちょこっと小さな穴がある。
お参りして、そこからちょっと脇道に。ちょみっと歩くと東屋があり(また小学生が……)、そこで七里御浜を見たりとか、熊野市旧市街の成り立ちを教えて戴いたりとかして、また本道に戻る。ちなみに、行きませんでしたが、東屋から下っていく脇道があり、そこから鬼ヶ城崎に行けるのだそうな。



お地蔵さんから下って、旧市街を散策。
途中寄った紀南ツアーデザインセンターと云うところで、地元の木綿で作ったお守り袋をGet――緑の縞のきれいな袋、何か入れて吊るしたら擦り切れるのは目に見えてるので、使うに使えん……
このツアーデザインセンターは、明治初期の古い建物で、土間に古い竈があり、その日はそこでお茶を煎じてました。中のお座敷の欄間も手がこんでた――明治の人って、ホント、こう云うとこに金かけるよな。ちなみに欄間の絵は、熊野詣の図だったはず。
そこからさらに街中を散策、秋刀魚鮨とか戴いて(しめ鯖の鮨みたいだった――ちょっと脂が抜けてる。ただ、頭と尻尾がついたままだったのはちょいと……いや、土地の人はそれで戴くんでしょうけども)、熊野駅前で解散。12時前だ……



電車の時間を見ると13:05(確か)だったので、それじゃあ先に飯、と云って、商店街に逆戻り。うろうろして、ゆるいウサギの看板のかわいい“てくてく”と云うお店でピタサンド的なもののセットを戴く。店の外のベンチでですけどね(テイクアウト専門なので)。ドリンクはタピオカ入りなのだ。
結構満腹になり(その前にも鮨とかコロッケとか食べてたのもあるしな)、ちょっと余裕をもって駅に戻る。そこから紀伊勝浦へ。


ワイドビューにも乗れる(自由席)ので、それで紀伊勝浦
ついたら駅前のバスセンターで、バスの一日乗車券的なものに交換して、14:10かなんかのバスで那智本宮に向かいます。
バスはほぼ一時間に一本ですが、電車の到着時刻と連動してるので、あんまり待たなくても大丈夫でした。
終点まで乗ると那智本宮前ですが、その手前の那智の滝のところで下車する予定。
で、たらっとバスの車窓から外を見ていると、結構大きなお寺が途中に――幟に“補陀洛山寺”って書いてあるぞ。あれは後で行かなくては。
しかし、熊野あたりの地名はちょっと面白いですね。“市野々”とか“野々”とか、謂れどんなのか知りたい。
とか思ってると、もう那智の滝。結構早い、15分くらい?



バス停で降りて道路を渡ると、すぐに鳥居があり、そこから那智飛瀧神社になります。石段(っても、ここは観光地も同然なので、きれいで水平な石段ですが)を下って暫く歩くと、目の前に巨大な滝が! これが有名な那智の滝か!
昔はここで滝行やったひともいるとか(例の文覚上人とか)ですが、正直、落差100m以上の滝の水って、打たれたら死ぬだろ! と思わずにはいられません。
そう云うのを禁止するためかどうか、まぢかで見られると云っても、滝壺からは結構距離が――飛沫がかかるとかは全然なしです。
じゃあどうやって例の延命長寿水戴くの、って云うと、滝を拝む御拝所的なものがあってですね(拝観料必要)、そこの中に、滝壺から水を引いてるところがあるので、それで戴くのです。まぁ、中に入ったところで、滝に10mも近くなるかどうか、ってくらいなんですけどね。
ともかくお参りして(滝が御神体ですからね)、水を戴いて、それから元来た道を逆戻り。今度は那智大社に参ります。
しかし、那智の滝まわりも、杉木立が立派と云うか鬱蒼としてると云うか――年季の入った森だなぁと。そう云えば高野山もそうでした。紀州は杉が多いのね。



で、バス通りは狭い&大型バスががんがん通って危ない、ので、脇道っぽい石段(古そう)を通って那智大社を目指します。
多分ここは、那智大社をお参りした人が那智の滝に向かうのに使ったんだろうなぁ、などと思いながら、石段を上がる。
表参道を通ればいいんでしょうけれど、何となく、そっちを通らずに横道から、那智大社の鳥居前に。ここからさらに上がります。
ここらへんで、バスツアーの年配の人と遭遇するのですが、皆さんぜぇはぁ云ってた……悲壮な顔で「戻りたいけど、もう戻れない!」って、そうですよね、ここからバスの停まってるだろう駐車場までも結構ありますよね……
まぁ一応若い部類(あそこにいた中ではね!)の私どもは、さくさくと階段をのぼります。てっぺんにつくと、那智大社
ここの社殿も結構新しいっぽい。まぁ、観光名所だよねと思いつつお参り。
ここでまたしても沖田番はお守りをGet(那智の滝のとこでも戴いてた)。私は、水晶に八咫烏のプリント(!)のお守りを戴く――水晶は擦り切れないからにゃ。プリントは禿げるかもだけど。



でもって、那智大社の横の門から御神木の横を抜けて、お隣りの青岸渡寺へ。
結構古いお堂で、新しくて赤くてぴかぴかした那智大社とは好対照。うむ。こう云う古いお堂の方が好き、なのだが。どうも個人的にはこのお寺イマイチ……
何となく雰囲気的にそうかなぁと思ってたが、やっぱり天台宗の寺だった――何でかこう云うことは外れないんだ。お堂に上がってお参りします。うん、W大師の片割れ、慈覚大師=円仁のポスターが貼ってあった。が、何だろうな、何かこう――どうも合わないんだよなぁ天台。その謎は、まぁ後日解けましたが。
ともかく、お参りし、階段を下って表参道に出る。
途中で那智黒石のお店(硯や碁石を扱っている)を覗いたりしつつ(沖田番はミニ碁石ストラップを、私は那智黒石の欠片をGet)、大門坂へ。



一般的には、大門坂を登って那智大社にお参りしよう! と云うガイドが多いのですが、既に午前中松本峠を制覇してきた私ども、とても600m? の石段を上がれる気がしない&下りの方が時間短縮! と云うことで、大門坂を下ります。
時刻は16:00ごろ、やはり西なので東京よりは日暮れが遅い(東京は、この時期日没は17:00ごろ)ので、まだあたりは明るいのですが、しかし何しろ杉木立の中なので、どうしたって道はほんのり薄暗い……
でもって、何となく花の窟のあれこれとか、あと(まだ行ってませんが)補陀洛山寺のあれこれ(宿にあった本のせい)とかで、じんわり熊野の怖さを味わっているせいか、古道を歩くのも急ぎ足に――
大体、時間が時間だけに当然ですが、対向者がいないのよ。あと、前後を歩く人も。そりゃあ、多少オカルティックなあれこれを大声で話してもどん引きはされないが、しかし場所が場所だけに若干怖い。何がってわけでもなく、空気がね。自然、足どりも早くなります。
どんどん下っていくと、夫婦杉と云う杉の古木が二本――樹齢八百年だって。ここまでくると、やっと人と遭遇。
何となくほっとして歩を緩め、大門坂のバス停に出る――が、那智大社前行きの方はすぐ見つかったのに、勝浦駅行きが見当たらぬ。
仕方ないので&多分まだ時間があるはずだからと、大門坂駐車場前まで歩きます。
バスがくるまで20分と余裕があったので、まったりと過ごし、来たのに乗って、次は那智駅へ。



えー、那智駅バス停で降りて、次に向かうのは、行きに気になった補陀洛山寺。例の補陀洛渡海で有名なお寺。
行ってはみたけど、17:00前だと云うのに閉まってる――後でガイド見たら、ここは16:00までしか開けてないようだ。
まぁでも、それで良かったのかな――正直、ここに展示されていると云う補陀洛船(復元)とか見ちゃったら、この夜の夢見は悪かったと思うので。
どうもねぇ、30日分の食料と油(中で灯りを燈すためらしい)を積んだだけで、外から釘づけにした船に乗せて流すって、人間の狂気だなって思っちゃうんですよね。全然違うんだけど、M.エリアーデが書いてたと云うヨーロッパの伝説“阿呆船”(狂人を船底に繋いだ船を、大海に流すって云う――私が読んだのは『狂気の歴史』そのものではなく、赤坂憲雄の『異人論序説』でですが)を思い出しちゃって、余計に怖かった。
でもって、この寺が天台宗だと云うのに、また納得。何だろう、どうも天台って、こう云うことやりそうな雰囲気があると云うか、法華経信者怖いって云うか。途中でネットで情報収集したら、ここの住職が61歳になったら強制的に補陀洛渡海させられる的な言説があったりして、余計に戦慄(や、後日いろいろ読んだら、そうでもないらしいと云うことはわかりましたが――それだけでもない、と云うだけかも知れませんが)。日も暮れかけて、薄暗さが増しているので、余計に怖かったのかも……
うん、正直、ここの寺はお勧めしないです。いや、よっぽどそっち系の信仰があって、とか、学術的に補陀洛渡海に興味が、とかなら止めませんが、これだけ死のにおいの濃厚な土地(何たって“死の国”だもんな)で、より死のにおいのするものに触れるのはどうなのか的な意味で。
お隣りの熊野三所大神社にもお参りしましたが、うーん、うーん。



ちなみに、うぃきに拠りますと、“補陀洛”とはサンスクリットの“ポータラカ”=観音浄土の音訳とのことで、華厳経に、これがインド南端にあると記されているので、それが転じて日本では遙か南洋上にあるとされ、そこへ向けて船出することを“補陀洛渡海”と称することになった、のだそうですが。
一種の捨身行だと云うこれをやるのが、修業大好き天台宗(これを云ったのは、夜の闇の彼方ではなく、現代の夜の坊主バーでお会いした高野山系のお坊さんでしたが)っぽいよなぁ、って云うか捨身行とか何の役に立つんだよ! と思っちまうのは、空海ルネサンス自然魔術的密教が好きな私だからなのかしら。
でも、捨身飼虎ならともかく、肉を与える対象もないのに身を捨てて、それで誰が楽になるんだろうってのは、こう云う話を見るといつも思います。そんな無駄なことするくらいなら、橋のひとつ、井戸のひとつでも作って、今、リアルに生きてる人間救わねぇのかよ! とか思っちゃう。何のための捨身なんだ、ホントに。
死にまで至る苦行って、すでに仏陀が“やり過ぎは良くない”とか云ってたのに、何それ以前まで逆行してんだよとか思っちゃうんですよね。それもあって、天台あまり好かんのだろうか。法華経嫌いってのは、日/蓮/宗が駄目(日蓮は好き)ってのもあるのですが、天台や、捨身行とかやらかす修験道の大半の依拠してるのが法華経だから、ってのが大きいのかも。まぁ、この辺は最終日と云うかおまけ考察的なもので書きますが。



何となくどんよりした気分になりながら、那智駅へ戻る。
本当は紀伊勝浦まで戻ったら、ワイドビューに乗れるんですが、時間的に間に合わない(バスは一時間に一本なので!)のと、そうなると那智駅から乗っても一緒なのとで、ここからで。
那智駅無人駅なので、さらっと入り、ちょうど月の出だったので、ホームから月を撮ったり、すぐ近くの海を撮ったりしつつ、電車待ち。
お宿には19:00近くに戻り(迎えを出してくれるのでありがたい)、食事して(今日は酒抜き――夢見が悪くなりたくない)大浴場で露天風呂。柚子風呂だった、はず。温泉じゃないけど良いお湯でした。あ、ご飯も美味しかったですよ、熊野牛とか! ニンジャサイダーとか飲んだ。普通のサイダーです、美味しい。



どうでもいいですが、この辺はどうも一年中〆縄をしているらしく、お宿の部屋も、どこも〆縄が入口にかかっていたのですが。
何故か我々の部屋だけ〆縄がなく。いや、別に悪いものはきませんでしたがね。しかし、他処はあるのに自分とこだけないって気になりませんか。それだけなんだけど。
そのせいではまったくなく、どちらかと云わなくても『世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く』のせいなんですけども、この夜はあんま夢見が良くなかった――酒入れた方がよかったのか。
沖田番が無音と暗闇を厭がって、TVをつけっ放しにしておりました。
が、寝るのは割と問題なく寝れた。夢見が(以下略)だったのは、やっぱり『神々の眠る「熊野」を歩く』のせいだな……



と云うわけで、二日目終了。
三日目、と云うか、おまけの考察に続きます。