熊野往還記。 三 +おまけ。

熊野紀行、最終日+おまけのかるい考察的な。
考察メインなので畳まないですー。


えー、最終日はもう時間がない(何しろ、13:18に乗り損ねると次が16:05で、東京着が22:00近くになり、自宅着は24:00近くになってしまう……)ので、ゆっくりに朝ご飯食べて、ちょっと土産物を物色(と云っても、酒と海産物と那智黒ぐらいしか……)、11:00くらいにチェックアウトして、12:00くらいに駅で、駅前のお菓子屋さん(?)で鯛焼き買って食べたりしつつ、ワイドビュー南紀で帰りました。それでも、帰宅したのは午後八時くらいだったはず。
遠いなー(鈴鹿方面出身の人が、お茶仲間にいるのですが、その人も伊勢より南には行ったことがないとか云ってた……)とは思うのですが、それだから割合に古いものが古いまま残っているのかも知れませんね。
今回は本宮大社には行けなかったので、次はもうちょっと考えて、初日に那智、二日目に本宮→速玉の川下りルート(90分で下ってくるようです)にしようかなと思いました。
例のお宿にあった『世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く』に載ってた、神内神社(紀宝町)が気になるのですが、ありゃ、以前買った『熊野古道を歩く』(くろしお文庫 1999年発行)に、神内神社の近くに“ゴトヒキ岩”ってあるぞ――気になる……
まぁ、次はそんなところも回りたいですね。回れればね……


† † † † †


で。
法華経の件ですが、詳しくはまた別項立ててやりたいので、今回はさらっと。



えーと、五来重氏の著作や『法華経物語』(渡辺照宏 岩波現代文庫)、それから岩波文庫の『法華経』なんかをとりあえず読んでみたのですが。
法華経の滅罪信仰の源は、どうも日本古来の嗜好(だと思っちゃうんですが)なんじゃないの、と云うことのようなのですが、法華経の中の直接的な根拠としては、第二十三の藥王菩薩本地品の“以神通力願 而自燃身”あたりの流れにあるそうです。まぁ平たく云っちゃうと、如来法華経を供養するために自らの身体に火をつけた、と。あと、そのちょっと先にも“燃百福荘厳臂”と云う表現があったりしてですね、まぁこの部分が全体的に、火定、捨身、入水あたりの根拠になるらしいです。



って云うか、どうも法華経って(『法華経物語』読んだカンジでですが)、全体的にはそう変なことは書いてないんですが、いきなり“宜しい、ならば戦争だ”的な、唐突に攻撃性がアレする感じがあってですね、それがどうも法華経信者の攻撃性に繋がってるような気が致します。
それは、あれだ、このお経の第五巻に、提婆達多品と云うのが入ってるのですが、この“提婆達多”と云うのが、例の仏陀に反逆して阿鼻地獄に堕ちたとか云われているデーヴァダッタのことらしいのですね。
で、その人が将来“天王如来”になるとか書いてあるのが提婆達多品なのです。
法華経物語』の中で渡辺照宏氏は、デーヴァダッタとジャイナ教(←戒律めっちゃ厳しい)の親和性を書いておられましたが、まぁ確かに法華経って苦行とかそう云うの好きだよね。仏陀の教えって“苦行のやり過ぎは良くない”だったのに、火定押しとか意味がわからん、って感じがするんですが、どうでしょうか。例のスジャータの乳粥の話とかそう云うことですよね?



うん、そう云うあれこれもあって、私は法華経が好かんのかも知れん。法華経に較べると、理趣経って非常に哲学的で、そう云う意味では理解しやすく、法華経の方は(特に藥王菩薩本地品とか)理性とかじゃなく“信じろ、そして信じろ!”みたいなところがどうも……
火定押しで“仏陀の最も正しい教え”とか云われてもなー、捨身飼虎ならまだしも、単なる捨身はなー。まぁ、やる方はある種の陶酔があるのでしょうが。
例の補陀洛渡海も、渡海前に百日とか三百日とかの潔斎と云う名の行をするそうです(例の千日回峰行のプチ版)が、それでハイになってそのままいくので、恍惚としたまま(以下略)だそうですが、何か、苦痛がなかったとしてもやだなー、そう云うの。



って云うか、千日回峰行も、個人的には好きじゃない。それで世界がどう動くの、って思っちゃうから。別に(中世ならともかく)、それで救われたりする人がいるわけじゃないよね、って思うと、それくらいなら別のことに力注げよ、と思っちゃうので。
佐々井秀嶺と云う人の半生(『破天』山際素男 光文社新書 など)を読んだりしましたが、ああ云う人の方がわかる。社会を、世界を動かすために闘う、そう云うものであるなら、あるいは、(これは若干アレですが)抗議のための焼身、衝撃によって世界を揺り動かす、そう云うものならば。
でも、そうでない苦行って、“苦行のための苦行”って感じで、どうも戴けないのです。それって尊いか? 自己満足のためでしかないんじゃないか?



宗教がリアルな、生きたものであるためには、やっぱり現実世界とコミットしたものじゃなくちゃならないと思うのです。
聖武天皇行基と結んで大仏を建立したのは、結局奈良仏教が頭でっかちで、社会の安定とかに本当の意味で繋がってなかったからなんだろうなぁと思うんですが。だから、当時禁止されていた優婆塞・優婆夷=私度僧なんかと結んだんだろうと思うのです。
そう云う意味では、最澄ってまったく現実社会とコミットしてなかったよね。
でもって、鎌倉新仏教って云うのは、その現実社会とコミットしていない天台から出てきた人が多いわけですが、そのほとんどが学侶(=昔の官度僧に近い)ではなく、実務を担当していた堂衆や、半俗半僧の聖から出ていたらしいと云うのも、天台のそう云う体質に対するもどかしさからだったんじゃないのかなァとか思います。



その天台の体質の、全部ではないにしてもかなりの部分が法華経から来てるんじゃないかと思うと、それだけで法華経が嫌いにね……
まぁなるわけですよ!
日蓮宗が(以下略)なわけは、またちょっと違うんですけどね! あ、日蓮は最近好きです。段々愛おしくなってきた……最澄はどうしても駄目なんだけどね!


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と云う、“余は如何に法華経が嫌いか”みたいなあれこれでした。
もうちょっといろいろ(法華経信者以外の本を)読んで考えたいですね。信者の人のは、信者だからなー。


ってわけで、ざらっとですが、熊野紀行は終了です。
今年もあんまり更新しませんでした、が、でも本気は出したぜ!
と云うわけで、今うpしている『左手の聖母』が終わったら、本気出して完結させた『北辺』をラストまで上げます!
とりあえずは、年明けは『左手の聖母』から。
それでは皆様、良いお年を〜。