左手の聖母 17

 暫く経ったある日のこと、ミケランジェロはふと、例のレオナルドの部屋の扉が開いていることに気がついた。
 夜ではなく、真昼にだ。
 珍しいこともあるものだと思って、戸口から覗きこむと、サライが重い鎧戸を開け放っているのが見えた。
「何をやってるんだ」
 戸口に佇んだまま問いかけると、
「たまには窓を開けないと、部屋が傷んじまうからな」
 そう云って、サライは窓枠に身体を凭せかけた。
 壁際には、二枚の絵――大きな方は、多分“気に入った構図”の「聖アンナと聖母子」、小さめの方は、闇の中に浮かび上がったサライの肖像だ。
 そして――部屋の真ん中には、白い布を被せられた、画架の上の絵。あれが、ジュリアーノが見たと云う、黒衣の女の肖像に違いない。
 ミケランジェロが、絵をよく見ようと目を凝らしているのに気づいてか、サライがくすりと笑った。
「見たいんだろ」
 問われて、素直に頷いた。
「入ってもいいか」
「……いいよ」
 その言葉に、ミケランジェロはいそいそと室内に入りこんだ。
 “レオナルドの部屋”は、がらんとしていた。
 壁には、空っぽの棚がいっぱいに設けられている。その傍には書きもの机と椅子がひとつずつ、他には何もない。
 そして、三枚の絵。
「これが、例の“気に入った方”か」
 大きな方の絵の前に立って、問いかける。
「そうだよ」
 返る言葉に頷いて、「聖アンナと聖母子」を見つめる。
 聖アンナの膝の上で、マリアは大きく身体を曲げ、幼児イエスを抱き上げようとしている。その顔に浮かぶ微笑は、限りなく優雅で、慈愛に満ちている。
 幼いキリストは、受難の象徴である子羊と戯れているが、さしのべられた手に気づいたかのように、母の方へ顔を向けている。
 そして、聖アンナ――娘母子のその様を、微笑みとともに見つめるその顔は、サライにひどくよく似ていた。
 ――こんなところにも、サライか。
 そう云えば、聖母マリアの目許と口許は、どこかレオナルドに似ているかも知れない。だとすれば、これはレオナルド自身か、あるいはその母親をうつしたものか。
 三人の背後には、木々と、遠くに青い山。手前には、川か湖か、水辺が見える。
 自然に抱かれた、幸福な母子――もしも、ミケランジェロがそうであるように、キリストがレオナルド自身であるのなら、これは、彼の理想の家族なのかも知れなかった。サライと、母と自分自身と云う。
 その、幸福な夢から目を逸らし、小さい方の絵に視線を転じる。
 闇の中に浮かび上がる、サライの肖像――いや、十字の葦杖が描かれている、これはヨハネだ、洗礼者ヨハネ
 サライの貌をしたヨハネは、豹の毛皮――定められた駱駝の皮ではなく――をまとい、左手を胸に、右手で天上を指して、微笑んでいる。左手のあたり、右手の先に重なるように、うっすらと十字の葦杖が描かれているので、かろうじてこれが洗礼者ヨハネだとわかるだけだ。
 明るめの茶色から黒に近い褐色までの美しい巻毛も、唇をつり上げる微笑――聖アンナのそれと同じ――も、何もかも。
 ヨハネの持物はあるものの、これはサライだった。サライ以外の何ものでもなかった。
 ――あいつには、クソがきはこう見えていたのか……
 レオナルドの目には。
 生々しい、誘惑者の微笑。
 多くの人は、この絵に聖性を感じないと云うだろう――だが、本当にそうだろうか? もしかしたら、この女性的な、そのくせひどく男性的なこの姿こそが、聖なるものであるのかも知れぬ――教会の云う聖性からは外れているにせよ。
 それにしても、サライの周囲のこの闇の意味は、一体何なのだろう? 初源の闇、あるいは死の闇か、どちらでもあり、どちらでもないものか――
 目を凝らしていたミケランジェロは、ふと、絵の中に不思議なものを認め、まなざしを止めた。
 左手の肘ちかく、豹の毛皮の模様に埋もれるように書かれた、短い言葉。
 “di Leonardo”――“レオナルドの”。
「おい、お前――ここに書いてある言葉を読んだか?」
 サライに問いかけると、
「え、何、何かあったか?」
 云いながら、ミケランジェロの肩越しに覗きこんでくる。
「ほら、ここに――“di Leonardo”と書いてあるだろう」
「どこだよ……気のせいじゃねぇの?」
「そんなはずはない、ここに、しっかりそう書いてあるだろう」
 鏡文字ではない、普通の綴り方で――隠すように、だが確かにしっかりと、その言葉は記されていた。
 “レオナルドの”。そんな言葉を、絵の上に書き記すとは、中々意味深だ。
 まるで、
「――お前のことを、自分のものだと云っているみたいだな」
「……そ」
 サライは声をつまらせ、前髪をくしゃりとかき上げた。
「そんなの――そんなのってあるかよ……」
 泣き出しそうな顔で、絵を覗きこみ、レオナルドの言葉を探しているようだ。
「――そう云われりゃ、そう云う風に読めるかも知れねぇけど  ……やっぱり、あんたの気のせいじゃねぇの?」
「いいや、確かに書いてある」
 この絵を見るものすべてに知らしめようとするかのように――だが、どこかおずおずと記された、その言葉。
「――この絵は、レオナルドがよこしたのか?」
「……そうだよ――他の二枚は、俺がフランスから持って返ってきたんだけど、これだけは、後から送られてきたんだ――フランチの手紙より、ちょっとだけ早く、俺のところに……」
 サライは言葉を切り、「ちょっと、ごめん」と云って、窓際へ行ってしまった。
 窓の外を見ながら、小さく肩を震わせるサライを見やり、ミケランジェロは、再び絵画に向き直った。
 “di Leonardo”の文字を見るまでもなく、この「洗礼者ヨハネ」は愛に満ちたものだと、ミケランジェロには感じられた。
 特別な三枚の絵のうち、二枚までに描かれていると云うその意味を、サライはわかっているのだろうか?
「――愛されてたじゃないか、お前」
 まだ外を向いている背中に向かってそう云うと、
「――いらないって放り出されたのに?」
 思ったよりも落ち着いた声が、そう問い返してきた。
「言葉で、そう云われたのか」
「いいや。――だけど、フランスへ行ってからは、傍に寄らせてもらえなかったんだ……先生、具合が悪くなってたから、面倒みなきゃって思ってたのに、みんなフランチに任せるって云ってさ……居場所がないから、ミラノに帰ってきたんだ。大事にしてた絵を持ち出してさ……」
 そうして振り返ったサライは、布に覆われた絵をじっと見つめた。その顔は、案に相違して、濡れてはいなかったが。
「例の、黒衣の婦人像か」
「そうだよ。そしたらさ、先生が、『聖アンナと聖母子』も投げつけてきてさ――ああ、俺、お払い箱になったんだなって思ったよ。……それでも、どっかで期待してたんだ、そのうち呼び戻してくれるんじゃないかって――それが、さ……」
 まさか、それきりになるだなんて。
 サライは、両手で顔を覆って、ずるずると床にずり落ちた。
 ミケランジェロは、布に覆われた絵を見た。
 窓から入る南の風が、白い布をふわふわと踊らせる。だが、絵の中の女は顔を見せず、ただ、その組まれた両手が、黒衣とともにちらりと見えただけだった。
 あれが、ジュリアーノの見たと云う絵。
 下にあった「モンナ・リーザの肖像」と似た構図の、ジュリアーノとレオナルドの愛した絵――ミケランジェロは、それを見ることはできないと思った。レオナルドが、サライが、見せることができないというのなら、そのとおりに。
 だが――レオナルドは、サライがこれを持ち出すのを許したのだ。見せることが出来ないと云う絵を、サライが持ち去ることを許し、さらには「聖アンナと聖母子」までも持たせてやったのだ。
 そうしてまた、「洗礼者ヨハネ」に記された言葉をあわせて考えてみれば、その意味することなど、ひとつしかあり得ないではないか。
「――愛されていたんだぞ、お前」
 ミケランジェロは、もう一度云った。
「ミラノに戻ったお前に、わざわざこの『ヨハネ』まで送りつけてよこしたんだろう? ご丁寧に“di Leonardo”と入れて。まるで、“手離したわけじゃない、お前は自分のものだぞ”とでも云ってるみたいじゃないか、なぁ?」
「――そぉかなぁ……」
 サライの声は、泣いているようだった。
 ミケランジェロは、ふんと鼻を鳴らしてやった。
「部外者の俺がそう思うくらいなんだぞ。もっと近しい人間には、どれほどあからさまだったか、想像に難くないな。それなのに、お前ときたら、いつもどうしてそんなに自信がないんだか……」
 返答はなかった。
 もはや、顔を覆ってうずくまるばかりのサライに、そっと吐息する。
 サライには、レオナルドの愛がわからなかったのか――言葉であらわされなかったから? だが、言葉だけが、想いを伝える術だと云うわけでもあるまい。
 あるいは、レオナルドはすこしの意地悪で、サライに愛を表してやらなかったのかも知れない。
 だが今、この部屋にのこされているものは、愛だけだ。レオナルドの、サライへの溢れんばかりの愛。
 サライは、ずっと後悔していたのだろう。置いてミラノへ戻った後で、レオナルドが死んでしまったことに――その最期に、居合わせることすらなかった自分に。
 だから、五年もの間、時を止めたように生きていたのか――そうすれば、時が戻って、レオナルドに再び会えると信じるかのように。
 だが、レオナルドは?愛している?と囁いているではないか――サライの姿をうつした「ヨハネ」の上に、己の名を書き入れるほどに。愛して、死の際のサライの不在を赦しているではないか。
「――馬鹿だなぁ、お前らは」
 一緒にいたいのなら、いれば良かったのだ。離れてしまうことが、それほどの痛手だったのなら――それほどの後悔を背負って生きるくらいなら、何と云われようと、どう扱われようと傍にいて、その最期を看取ればよかったのだ。
 あるいは、こんな風に名を入れた絵を送りつけてくるくらいなら、はじめから手離さなければ良かったのだ。
 だが。
「――大丈夫だ、あいつはわかってたさ。わかってたとも……」
 云いながら、サライの頭を、左手で撫でてやる。
 サライは、最初こそびくりとしたものの、やがて、こちらへ頭を寄せるようにして撫でられるようになった。泣いているのかも知れないその顔は、まだ伏せたままで。
 ――これで、サライは変われるのかも知れない。
 撫でてやり続けながら、ミケランジェロは考えた。
 レオナルドの不在を、その死を、サライは受け入れようとしている――そして、注がれた愛をも。
 受け入れてしまえば、サライは変われるだろう。変わって、自分のこれからの人生を、自分の力で切り拓いていくことができるだろう。
 それこそが、皆の望んでいることだ。そうなれば良いのだ。
 ミケランジェロは思いながら、サライの頭を撫で続けた。


† † † † †


久々に! みけの話。例のルーブルの三枚の絵と一緒に。



もちろん、布をかけられた“黒衣の女”は「モナ・リザ」です。
「聖ヨハネ」の署名は、何かで読んだので――まだフランス行ったことないから、どれも現物は見てないのですよ。原寸大モナ・リザは、私の部屋にありますが(拡材のパネル貰ってきた)。横に(小さい)アイルワース版もおいてます。こっちはこないだの展覧会で買った分。
仏蘭西行きたいけど、情勢もアレだし、何より一週間とかの休みが取れない現状……夏に12人とか辞めるって、どんなんか、って云うか、それでこの先回るのか。上の人たちが対策してないのがもうもう。っつか、残るの5人くらいでどうしろと。海外旅行なんか、夢のまた夢だわ!
……ヨハネの背景の闇の意味とか、モナ・リザのモデルはちゃんとアレしてるのですが、この話では書かないので、いずれ書きたい『レオナルドの薔薇』の方で……書けるかなぁ……



とりあえず、この話は22章+αで終わるので、そしたら『北辺』を最後まで上げたい……
富/樫/倫/太/郎の『土方歳三』(KADOKAWA)が出たので、とりあえず下巻だけ買って、五稜郭のとこだけ読んだのですが――手前味噌かも知れませんが、『北辺』の方が面白かった……どう云うことだ。ちょっと、専業作家!
あ、前編は多分買いません、京都の話とか多摩の話とか、もう痛々しいことが多過ぎてね……自分で書くのも人のを読むのも、もう流山以降でいいかな、って云うね。
今月はピスメ鐡の続きも出るので、まぁまぁねぇ。しかし、そのピスメも若干痛々しいのだが……



あ、今月から高野山開創1200年の特別法要が始まるとかで、ちょっと月末、高野山行ってきます。休み取れなくて一泊二日だけどな! (辞める連中が有給ガンガン突っこんできて、もの凄い変則な休みしか取れなかったので……)
金剛峯寺の本尊の阿闍梨像が御開帳だそうで、それを見に!
残念ながら恵光院は取れなかった(最近メディア露出多くない?)ので、ランダムで選んでもらった別の宿坊に泊まります。西の方で、奥の院から遠いよ……大門に近い方……真雅の弟子が開いたところだそうで、本尊が大日如来、ってことは、高野聖とはあんまり関係ないお寺だったのかな?
まぁ、せっかくだから五来重氏の『高野聖』片手に行ってきますよ。
あとは、サンドロ来てるの見に行って、あ、アンギアーリの戦い展(タブラ・ドーリアが来る)が五月からやるのか――しかし、場所が八王子だ! どうする! しかも、関西とかでもやるのに、各展示会場で展示物が変わるって……! 鬼か! ……まぁ、もう一度(来年とか?)関東に来た時に考えるか……Y売新聞社め!!



はい、今回はこれで終了〜。
次ももうちょっとさくっと上げたいな……(汗)