左手の聖母 18

 季節は、あっという間に過ぎていった。
 秋のはじめ、サライを訪ねてきたものがあった。
「スイスへ行くんだ。……一緒に行かないか、サライ
 明るい青の瞳の、がっしりとした身体つきの男は、来るなりサライにそう切り出してきた。
「いつまでもここに閉じこもっていたって、仕方がないだろう。スイスへ、一緒に行かないか。私は、そこで祭壇画を描くことになっているんだ。その時に、お前が隣りにいてくれたら嬉しいんだけれど」
 祭壇画――では、この男は画家なのか。
 サライが、レオナルド以外の画家と?
 ミケランジェロは、肚の底に、もやもやとした不快感が溜まっていくのを感じていた。おかしな話だ、自分には関わりのないことであるのに――だが、気にくわないものは、気にくわないのだ、サライには、レオナルドでなければ。
 と、
「――ありがとな、ベル」
 サライは、穏やかな声で云った。
 ベル、と呼ばれた男は、声に喜色を滲ませた。
サライ、それじゃあ……」
「本当にありがたいけど、俺は行かねぇよ。俺は、死ぬまであの絵と一緒にいたい。お前とは行けねぇよ」
「一生? この先、どれだけ長い人生があると思っているんだ!」
 男は激昂した。
「この先の人生全部を、マエストロに捧げるつもりなのか! それでは、お前の人生はどうするんだ!」
「俺の人生は皆、先生のためだったんだよ、ベルナルディーノ」
 サライの声は、あくまでも穏やかだった。
「考えてもみろよ、十歳からずっと、俺の人生は先生のためで回ってたんだ。先生が死んでからだって、そうだった――わかるか、三十四年だ、三十四年間、俺は先生のために生きてきたんだ。……今さら、俺のための人生なんてないんだよ」
「――あの絵が、お前を縛るのか」
 ベルナルディーノの声は、低くなった。
「あの絵がなければ、お前は自分のために生きられるのか。――確か、メルツィから、絵を渡せと云ってきていたな? あいつにやってしまえよ、サライ。フランス王が欲しがっているなら、渡してしまえばいいんだ。あの絵がなければ、お前は、マエストロの鳥籠から出ていくことができる、そうだろう」
「俺の前で、二度とそんな口をきくな」
 サライの声は、氷の刃のようだった。
 あれは、いつかの夜――レオナルドの部屋の入口に立ったミケランジェロに、“入るな”と云った、あの時と同じ声音。
「あの絵は、俺のものだ――俺が生きている限りは、誰のものにもさせやしない。あれは、俺の先生そのものだ。渡すもんか、フランス王だろうが、法王だろうがな。――二度と、俺にそんなことを云うなよ。云ったら、ただじゃおかないぞ」
「……そうして、ずっと鳥籠の中にいるつもりか。マエストロは、もう戻りはしないのに!」
「先生、鳥籠の鍵を開けてくれなかったからな。――だけど、もういい。俺にもわかった、鳥籠だって愛だったんだ。俺は、そのことと、あの絵があれば、それでいいんだよ」
「――私は、それでは駄目なんだ」
 男が、席を立った気配があった。
「諦めないぞ、サライ――また、来る。今度は、春になったらな」
「ああ、気をつけて行けよ」
 穏やかになったサライの声に送られて、男はつかつかと戸口まで歩み――
 戸口を出たところで、ミケランジェロに気がついた。
「立ち聞きとは、品のない――」
 云いかけて、こちらが誰なのかに気づいたようだった。
「マエストロ・ミケランジェロ……何故、あなたがここに……?」
「俺を、知っているのか」
 ミケランジェロは、相手のことを知らないが。
「ええ、私も一時、フィレンツェにいたことがありますからね。――私はベルナルディーノ・ルイーニ、マエストロ・レオナルドの工房にご厄介になっていたことがあるのです。……サライの友人ですよ」
「ほう」
 だが、ただの友人にしては、今までサライに投げかけていた言葉は、別種の愛情を示していたように聞こえたが。
サライが、ミラノへ戻ってから、この家に閉じこもりっぱなしなので、気になっていましてね。丁度、私がスイスへ行くことになりましたので、一緒にどうかと誘いにきたんですですが――」
「レオナルドを捨てて生きろとは、随分乱暴なことを云う」
 もやもやとした不快感を抱えながら、ミケランジェロは云った。
 友人だか何だか知らないが、あのサライからレオナルドを取り上げようなどと――そんなことなど、できようはずもないのに。
「だが、それくらいのことができなくて、どうやってこの先を生きていくと云うんです」
 ベルナルディーノは、強い口調で云い返してきた。
「あいつは、この先も生きていかなけりゃならない――いつまでも、死んだ人間に囚われていていいはずはありません。多少乱暴だろうと何だろうと、あいつが生きていくためなら、云ってやらなけりゃならないんだ、違いますか」
「――お前は、大切な誰かを亡くしたことがないのか」
 ミケランジェロは、ジュリアーノのことを思いながら、云った。
 ジュリアーノが死んで十一年、もう思い出して悲しみに涙することもなくなった。
 ただ、その不在がたまらなく淋しい。
 その淋しさを、抱いて歩いてゆくことはできても、捨てたり、忘れたりすることは決してできない。他人がさせようとしても、できるわけがないのだ。
 ベルナルディーノは、首を振った。
「両親は、もう亡くなりましたが」
「では、そのことを捨てて生きろと云われたら、お前、できるか」
「……それは」
「できるか。できないだろう。――お前が奴に云ったのは、それと同じことじゃないのか」
 十歳からずっと、とサライは云った。十歳から44の今まで、サライの人生がレオナルドのためだったとしたら、それは、あるいは両親に対するよりも強い結びつきであったのかも知れない。
 そして、そうであれば――それだけの絆が断ち切られてしまったことへの悲しみは、どれほどのものであるだろう。その悲しみを抱えて歩いていけるようになるまでには、どれほどの時間が必要とされることだろう。
「――お前が、やつの友人だと云うのなら、待っていてやるべきだ。やつが、レオナルドのことを抱えて歩き出せるようになるまで、じっと……それこそが、本当の友情というやつじゃないのか。違うか」
 徒に、サライが閉じこもっていることを非難するのではなく、その抱える悲しみをわかち合うこと――そうしながら、彼が歩き出すのを待つことこそが、結局は早道になるのだろう。
「……あなたに云われる筋じゃない。――だが、肝に銘じておきますよ。それでは」
 男は云って、かるく頭を下げ、身を翻して出ていった。
 その後姿を見送って、ミケランジェロは、サライのいる居間へ入った。
「……あの男、帰っていったぞ」
 そう声をかけると、絵を見ていたらしきサライは、こちらへ向き直り、ふと苦笑した。
「ああ。――あいつと、話したのか?」
「すこしな。レオナルドの工房にいたと云っていたが」
「ああ、うん。あいつね、ベルナルディーノ・ルイーニって云って、この辺じゃ結構有名なんだぜ。サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ聖堂の祭壇画とか描いたりしてさ。俺と同い年で、昔っから仲良くしてたんだけど――何だかな、時々妙なんだよな、あいつ」
「……お前のことが、好きなんじゃないのか」
 友人としてではなく、もっと違う――例えば恋に似た感情で。
 サライは頷いた。
「うん、俺も、大事な友だちだって思ってるよ」
「いや、だから、そうではなくてだな……」
 云いかけて、サライのきょとんとした顔に、言葉を呑んだ。
 この男はわかっていない。本当に、ベルナルディーノの向けてくる感情を、ただの“友情”だと信じこんでいるのか。
「――あの男も、報われんなぁ……」
 ミケランジェロが、溜息とともに呟くと、サライは唇を尖らせた。
「何だよ、わけのわからねぇこと云ってさ」
「あの男の不運は、お前に好意を寄せたことなのだろうな」
「変なこと云うなよ。ちゃんと、友だちらしくしてるってのにさ」
「……もういい」
 これ以上云ったところで、サライはきっと、わかろうとすらしないのだろう。
「何だよ、失礼だな」
「お前はきっと、云ってもわからんさ」
 そう云ってやると、サライはぶうぶうと文句を云った。
 それを適当にいなしながら、ミケランジェロは、すこし口許が緩むのを覚えていた。
 ――そうか、あの男のことは、何でもないのか。
 サライには、やはりレオナルドなのか。そうとも、そうでなくてはならぬ。
「……あんた、何でそんなにこにこしてんだよ」
 サライが、不気味そうに云ってくるが、ミケランジェロは構わなかった。
「何でもない、何でもない」
「何でもないって顔じゃねぇよ。――変だぜ、あんた」
 ただ、嬉しいだけだ。サライが、レオナルドのことを抱えて生きていくと決めているらしいことが――レオナルドを捨てないという、そのことが。
「やっぱ、変だよあんた」
 云い続けるサライに笑みかけて、ミケランジェロは、晴れやかな声で云った。
「それで、今日はどこへ散歩にいくのだ、サライ?」


† † † † †


みけの話、続き。
ルイーニ登場!



ご存知ない方のために一応書いときますと、ベルナルディーノ・ルイーニは、確かヴィンチェンチオ・フォッパとかの弟子(うぃきには書いてなかったけど、確かそう)で、先生の工房にもいたことがあります。ある時期を境にして、ルイーニの描く女性の顔は大体サライ! 聖母子像とか、先生の『聖アンナと聖母子』の聖アンナの顔に似てますよ(大笑)。面白いから較べてみてください。まさにサライ
ちなみにルイーニ、アマレットと云う酒は、ルイーニに惚れた宿屋の女主人が、奴のために作った酒と云う話。そんなイケメンだっけ? まぁ飲んだくれですからね、ルイーニ。死因はきっと肝硬変か肝癌だと思います。
ルイーニ→サライでサラレオですね。みけはまぁ、黙って見てる、がサラレオ押しかな。みけにとっては、ルイーニはぽっと出だし、自分とじゃ勝負にもならない(みけのライバルは先生だけ!)のでねー。



さて、だんだんラストに近くなってきたぞ。22でおしまいなので、あと4回か。そしたら、『北辺』上げて、それから『神さま〜』の続きにそろそろ取りかかりたい……
あと、凍結してる四郎たんの話とかね。泰範とか逸勢の話とかも!
先は長いですのぅ……



とりあえず、来週は高野山なので! その後は海辺の狩りとかなので! まぁアレですが、そう間をおかずに次の章上げたいです。
ってことで、次もみけの話〜。