左手の聖母 19

 九月も半ばになったころ、サライが唐突に云った。
「もうじき収穫祭だけど、あんたも出るよな?」
「収穫祭?」
「うん、葡萄のな」
 そう云えば、この間から空気が甘い匂いに満ちているなと、ミケランジェロは改めて思った。
 熟れた果実の甘さと、葡萄特有の渋さの混じった香りが、枯れつつある葉の香りと土のにおいにまじって、風に運ばれてくる。そう云えば心なしか、肌がべたつくように思ったが、それは葡萄の匂いの甘さのせいでもあったのか。
「もう、収穫自体ははじまってるから、そうだな、今月の末だか来月の頭には、祭りになると思うんだけど――あんた、その辺、まだここにいるんだよな?」
「う、む、まぁ、な……」
 特に、どこへ行くあてもないのだし、それは、いていいものならいるつもりではいたのだが。
 すると、サライはぽんと手を打ち、
「じゃあ、あんたも参加な、決まり!」
「お、おい、参加と云って――俺に何かしろということか」
「や、別に? 収穫祭つっても、アレだよ、うちとバッティスタんとこの葡萄が収穫された後に、世話してくれてる農家の皆を呼んで、どんちゃん騒ぎをするってだけさ。農家のおばちゃんと、バッティスタんとことで料理は作ってもらえるから、俺は専ら接待役なんだけどさ」
「俺に、接待役をやれと云うのか!」
「云ってねぇって。ま、あんたは飛び入りの客ってことにしとくからさ。――まぁ、愉しみにしてなよ。フィレンツェじゃ、絶対こんなことやりゃしねぇからさ」
「まぁ、それは――」
 確かに、フィレンツェの街中にいる限りは、こんな葡萄の熟れる匂いすら知らないままだったかも知れない。
 その葡萄の匂いは、日に日に強くなっていき、空気は蜜を溶かしたかのような甘さで、肌にまとわりつくようになった。
 サライは、宴のために、何かと忙しくしているようだったが、ある日、
「明日、収穫祭になるぜ、多分」
 と云ってきた。
「収穫の状況を見てたんだけど、明日の朝方には全部終わりそうなんだよな。昼ごろからはじめるから、あんたちょっと手伝ってくれよな」
「あ、ああ……」
 と頷きはしたものの、ミケランジェロは、何をどう手伝ったものやら、さっぱりわからずにいた。
 が、翌日、ありったけのテーブルや椅子を運び出した先で見たものは、
 ――桶……?
 ただの桶ではない、風呂桶よりも深くて大きい、足のついた桶が、テーブルの並べられた真ん中に据え置かれている。その向こうには、摘み取られた葡萄が山となり、甘い匂いを放っている。
 と、向こうから、収穫を終えたと思しき老若男女が、やはり葡萄でいっぱいの手桶を持ってやってきた。
「どうも、お疲れ様でございました」
 と、バッティスタとサライが云って、
「じゃあ、はじめますか」
 と老人の一人が云う。
 二人が頷きを返すと、人々は、手桶の中の葡萄を、大きな桶の中にどんどん入れだした。
 若い娘たちが足を拭い、スカートの裾をたくし上げて、桶の中へ入ってゆく。男たちが、葡萄を入れながら口笛を吹くと、娘たちは、笑いとも悲鳴ともつかぬ声を上げながら、中の果実を踏みだした。
 甘い香りが、一層強く空気の中に漂いだした。
「……何だ、あれは」
 ミケランジェロが呆然としながら云うと、サライは、隣りに坐りこんだ老婆に杯を渡し、葡萄酒を注いでやりながら云った。
「葡萄踏みだよ。これをやって、葡萄を発酵させると、立派な葡萄酒の出来上がりってわけさ。大事な仕事なんだぜ。なぁ、おばちゃん」
「そうだよ。――そちら、お客さんかい、サライ坊?」
「そうさ。けど、“坊”はねぇだろ、“坊”は。俺、もう結構いい歳よ?」
 サライの言葉に、女は笑った。
 が、よく見ると、女は思ったほどの歳ではなかったのかもしれない。日に焼け、皺に埋もれてはいたものの、その歯はまだかなりが揃っているようだったし、声にもまだ若々しさが残っている。ミケランジェロと同じくらいか――あるいは、サライよりも年下なのかも知れなかった。
 娘たちが、裾をからげて、その白い脚をさらしながら葡萄を踏み、歌を歌う。
 と、男たちが、合いの手を入れるように歌いだす――それでわかった、これは恋のかけ引きの歌だ。男が誘い、女が気のない素振りをする。それを、葡萄踏みに絡めて進めていく、そんな内容の歌なのだ。
 女が、つれない言葉を投げかける、そこを娘たちが歌うと、桶のまわりに群がる男たちが、口笛を吹いて気を引こうとする。本当の恋のかけ引きも、その中には混じっているようだ。
「――実際、この後本当に結婚しちまう連中もいるんだぜ」
 声をひそめてサライは云い、桶を指さしてくっくと笑った。
「腹ぽこになっちまったりな。……街じゃ、こんなことはねぇだろ?」
「ああ、面白いな……」
 フィレンツェにも、謝肉祭のような祭りはあったが――こんなに和気藹々とした風ではなかったし、その後に子供が、などと云うことも、皆無ではないにせよ、そう多い話でもなかったのだ。
 葡萄は徐々に踏みしだかれ、甘い匂いが充満してくる。老いた男女は、周りのテーブルで酒を飲み、料理を食べ、向こうでは、若い者たちの歌にあわせ、踊り出しているものもある。
 桶の中はどうなっているのだろう――興味を引かれてミケランジェロが立ち上がると、サライがすかさず、
「あんま桶の傍までいくなよ、危ねぇから!」
 と叫んでくる。
 何が危ないのかと首をかしげていると、
「あら、まぁ、お客人だよ!」
 と女たちに手を取られ、あれよあれよと云う間に脚を拭われ、桶の中に引きずりこまれてしまった。
 娘たちが、葡萄を踏みながら、きゃーっと笑う。
「うお、と、と、と、と……」
 足の下で、葡萄がぐじゃりと潰れ、汁が足を濡らす。熟れきった甘い匂いが、一層強く立ち上る。
 ミケランジェロは、娘たちに手を取られながら、よろめくように反対側へ辿りつくと、縁にへばりついて叫んだ。
「俺の靴!」
「あれまぁ、焼き栗みたいな爺さんだねぇ!」
 老女――あるいは、そこそこの歳なのかも知れぬ――は、笑いながら靴を置いてくれた。
 すこしべたべたする足をざっと洗い、靴をつっかけてひょこひょこと戻る。
「何だ、あれは!」
 サライに怒鳴ると、肩をすくめられた。
「だから云ったろ、危ねぇって。お嬢さんたちは、悪戯がお好きなんだ。若いのだろうと年寄りだろうと、気に入れば、ああやって桶ん中に引っ張りこんじまうのさ」
 と云う視線の先では、中年の男がひとり、桶の中に引きずりこまれるところだった。
「あれは、遊んでいるのか?」
「いいや、立派なお仕事さ。だけど、仕事だって楽しいに越したことはねぇもんな。――そう云や」
 と、サライは喉を鳴らして笑った。
「何だ」
「や、先生がさ、ああやって踏むのは手間だろうって、葡萄絞り機を考えたことがあったなぁって。――まぁ、不評で、結局作んなかっただけどさ」
 と云うと、隣りにいた老人が、
「ああ、マエストロのあの機械か!」
 と、にやにやと笑った。
「何で不評だったんだ」
 ミケランジェロは、首をひねった。
 レオナルドの考えた機械がどんなものかは知らないが、労力が省けるならそれに越したことはないではないか。
「はっはぁ、あんたも、マエストロと同じ類の唐変木だね?」
 老人は、歯のまばらな口を開けて、大きく笑った。
 サライもその横で、やや苦笑まじりににやにやと笑っている。
唐変木とは何だ!」
「だって、考えてもみなせぇよ。機械で絞ったりしちゃあ、娘っ子の脚を拝めなくなるじゃあねぇですかい、なぁ!」
「まったくだ!」
 男たちが、どっと笑った。
「……なるほど」
 そんなものかも知れぬ。
 ミケランジェロは、女には興味がないが、例えばあれが、若々しい美少年であったなら――いやいやいや。
 サライも、くっくっと笑っている。
「やー、男連中にそう云われてさ、先生、憮然としてたもんなぁ。“絶対に、こっちの方が、楽に、無駄なく仕事ができるのに”ってさ。しばらく拗ねてて、ご機嫌取るの大変だったんだぜ?」
「そりゃ、悪いことしたな、サライ坊!」
「儂らだって、ちっとの楽しみは必要だでな!」
 男たちは笑い、「娘っ子の脚に!」と云って乾杯した。
「先生の、日の目を見なかった葡萄絞り機に!」
 サライが云って、杯を合わせてくる。
 ミケランジェロは杯を干し、またあたりを見回した。
 ほとんど葡萄を潰し終わったのか、娘たちは桶から上がり、杯を片手に、若者たちと語り合っている。あるいは、年のいった男女の踊りの輪に加わって、坐っている男をその中に引きずりこんでいる。
 リラ・ダ・ブラッチョの奏でる陽気な音、笑い崩れる女たちの声、男たちの手拍子と口笛の音。
「――これは、毎年こんなか」
 まだ陽も高いというのに、酒を呑んで、歌って、踊って。
「そうさ。だけど、年に一度、この時期だけのお祭りだ」
 サライが、杯の縁を舐めながら答えた。
「年に一度だけの馬鹿騒ぎさ。――いいだろ、これがミラノだ。俺たちのミラノなんだよ」
 “俺たちの”。
 そこにはきっと、レオナルドも含まれているのだろう。
 レオナルドとサライの、ミラノ。
「――いいところだな」
「いいところだろ」
 サライの言葉に頷きながら、杯を重ねる。
 レオナルドも、毎年ここで、この馬鹿騒ぎに加わっていたのだろうか。リラ・ダ・ブラッチョの名手として知られたレオナルドのことだ、きっと、求められるままに弾いてやり、時にはあの美声を披露しもしたのだろう。葡萄酒と、歌と踊りと。宮廷での取り澄ました顔でなく、ここではきっと、心からの笑いを見せてもいたのだろう。
 これが、レオナルドのミラノか――この、眩暈のするような開放感が。
 レオナルドがそうであったように、ミケランジェロも自由だ――今、この瞬間だけは。
 この自由を享受していれば、いつか、レオナルドと同じ高みへ行き着くことができるのだろうか?
 考えこんでいると、
「ほらほら、お客人、難しい顔してなさんなよ」
 踊っていた女たちが近づいてきて、ミケランジェロの手を引いた。
「こういう時は踊んなきゃ。ほら、来た来た、一緒においでなさいよ」
 立ち上がって、サライをちらりと見やると、にこにこしながら手を振ってくる。ああやって、レオナルドが引きずられていくのを見守ってもいたのだろうか――子供を見守る母親のように?
「――よし、行くか」
 ミケランジェロが頷くと、女たちは、きゃーっと声を上げて、彼を踊りの輪の中に導いてゆく。
 リラ・ダ・ブラッチョの音色、男と女の歌う声、杯のかち合う音、歓声、口笛――
 ミケランジェロも、その中に加わって、踊り、歌った。
 年に一度の馬鹿騒ぎ、一夜限りの祭り――その熱気にあてられたのかも知れない。小さい祭りであったからこそ、なおのこと。
 ミケランジェロは踊った。踊って、歌って、酒盃を干して、強かに酔って。
 気がつくと、夜は明けかけていて、あちこちに、自分と同じように行き倒れている男女の姿があった。サライは、テーブルに伏して眠っているようだった。
 白い朝靄の中に、収穫の終わった葡萄畑がぼんやりと霞んでいる。
 祭りは、終わったのだ。


† † † † †


みけの話、続き。
収穫祭と先生の葡萄搾り機。



イタリアの収穫祭が現在どんなものかは知りませんが、まぁ想像的なアレコレで。
確か、ワイン作るのに、こういうやり方してたような……何かのイラストで見たと思うんですが、記憶曖昧。
が、葡萄搾り機は、同じようなのが確か山梨の古い葡萄農園にあるのをTVで見たような。ワイナリーとかではなく、自分たちで消費する用に作ってると云ってたので、古いのを使ってたんだと思いますが。あの、昔々の脱水機(木製で、ぐるぐる回して水気を取るアレ)を転用してたのかな? 先生のもそんなだと思います。うん。



さて、別項立てるほどではないので、高野山のこと。
開創1200年の法要中で、今回の高野山行はものすごく人まみれでした。行きのケーブルカーなんか、ラッシュのバスみたいだった! 奥の院も混んでたし、秘仏御開帳見たさに行きましたが、うんまぁ、イベントごとは今回だけでいいかな……もっと静かな方が好き。
あと、今回は報恩院と云う宿坊にお世話になったのですが、日本人ほぼ私だけと云う状況で、他はともかく風呂が厳しかった……何で皆さん着衣! その中まっぱで入るのは、もうほぼ意地でしたね。郷に入れば郷に従えって云うもんね! いいの! 日本だから!
まぁそれはともかく、奥の院から遠かったので、それがアレでした。今回あの辺だったら、五月蠅くて仕方なかったかも知れませんが。
報恩院自体は、真雅の弟子、と云うことは阿闍梨の孫弟子の立てた割と由緒あるお寺で、珍しく本尊が大日如来なのは、高野聖大活躍の中世にも、その傘下に入らなかったところだから(五来重高野聖』にはまったく名前が出てこない)かと思われます。まぁ、小ぢんまりしたお寺ですけどね、高野聖関わってないと云うことは、宿坊になったのは遅かったんだろうなと思いますし。逆に云えば、聖が手を出せないくらいの寺だった、のかも知れません。
奥の院からは遠いですが、根本伽藍と大門には近いです。でも、西南院よりは中央寄り。
外国人率がものすごく高いので、国際交流したい方にはいいかも。私はonly Japanese! 英語できない! ので、次は日本人率高いとこにします……



あと、高野山行く前に、今回は四天王寺にも行きました。
本当は槇尾山施福寺に行きたかったんですが、アクセスがアレで、実質一泊二日の今回は無理そうなのと、現在天台の寺だと云うことで、「危ねぇから、俺と一緒の時にしなせェよ」と沖田番に云われたからです(←日蓮宗ともそうですが、天台ともあんま相性よくない)。
が、行ってみたらば、四天王寺も天台の寺……! 後で沖田番に、「実は大丈夫かな、って思ってました」とか云われました。はは。
大丈夫でしたが、何か、イマイチどうもよそよそしい感じで……何でしょうね、アレは。同じくらい古い寺でも、広隆寺(太秦の)はそうでもなかったんですが。まぁ、あそこは古いと云っても阿闍梨の弟子が再興したと云うことだから、平安初期の寺、なんでしょうが……でも、建物は割と新しかったですよ、四天王寺。あんま萌えなかった……
ざらっとお参りして、そこから、距離的にはいけたので、なんば駅まで歩く。途中一心寺とか云うとこに差しかかったら、何かお祭りやってるだかで凄い人出でした。が、建物新し過ぎて、新興宗教かと思っちゃった――やぐらの上で、女の人たちが謎の舞を舞ってたしな。検索してみたら浄土宗の寺だと云うことでしたが、何だろあれ、あのカンジ……何か、うん、やっぱ新興宗教っぽかった。それとも、大阪の寺のお祭りがあんなんなんか? どうもよくわからん……とりあえず、私東の人間なんだなぁと思いました。



今回はアベノハルカス見て(時間がないので中は探検せず)、通天閣見て(時間がないので以下略)、なんばでたこ焼き食べて、帰りにも食べて、ついでに日本橋で薄い本をあさって(だって! 行きにKブとか見ちゃったから……! 掘り出し物はありました)、かなり満喫してきましたよ。
だけど、高野山はもっと人のいない時期に行こう……いずれ二月に! 寒いから、一人で行きますよ〜。



後は、ちょっとF.a.t.e/Z.e.r.oとかにはまったせいで、古代シュメル文明にも手を出してみたり。と云っても、『ギルガメシュ叙事詩』読んだり、中公新書のシュメル関係読んだりですが。
そう云えば、シュメル関係の文学とかの資料のかなりのものが、ニネヴェのアッシュル・バニパルの図書館で発見されたものだそうなので、結構繋がりが? ギルガメシュとエンキドゥの関係が、どっかで見た感があって面白いです。ふふ。



さてさて、次もみけですね、あと3章!
頑張って早く上げたいです……