左手の聖母 20

 収穫祭が終わると、段々秋の気配が冬のそれへと変わっていくのが感じられるようになってきた。
 葡萄の木はすっかり葉を落とし、冬の眠りに入りはじめたようだ。
 ミケランジェロも、朝晩の冷えこみで、背中や腰が痛むようになってきていた。
「ミラノは寒いからな。あんた、冬場はしっかり着こまないと、身体中が痛んで大変なことになるぜ」
 サライは云いながら、膏薬を貼ったり、香油を使って身体を揉み解したりしてくれた。
 確かに、ミラノはフィレンツェよりも寒さが厳しいようだった。
 その上、ひどいことに、十一月あたりは雨や霧でじめじめとして、古傷持ちには良くない季節なのだと云う。
 ミケランジェロは、聞いただけでもうんざりだった。
「どうする? フィレンツェに帰るんだったら、今のうちだぜ」
 と云われても、右手の動かないこの状況では、帰ったところで仕方がないではないか。
「まだ、いても構わんのだろう?」
 そう問うと、サライはかるく吐息した。
「俺は全然構わねぇけどさ――覚悟しなよ、ミラノの冬は厳しいぜ?」
「云うほどかどうか、わかるものか」
 そう云って、ミケランジェロはにやりと笑ってやった。
 とは云え、日ごとに冷えこんでゆく朝などは、フィレンツェに戻れないことが、非常につらく感じられてならなかったのだが。
 しかもこれが、まだまだ先まで続いて、ますます厳しい寒さになっていくのだ。まったく、考えただけでも憂鬱なことだった。
 散歩も、よく晴れた日の、暖かい午後だけになり、それ以外は、家の中の、居間の暖炉の傍で過ごすことが多くなってきた。
 そんなある日、ミケランジェロはふと、サライが割合頻繁に、どこからかの手紙を受け取っていることに気がついた。しかも、その手紙を、封すら切らずに戸棚に放りこんでいることにも。
 サライ個人のことだ、構うべきでない――そんなことはわかっていたが、その手紙の数――思い返してみれば、ミケランジェロが訪ねてきたときから既にそうだったようだから、結構な数にのぼるはずだ――を思うと、何も云わずにいるのは、彼の性分として難しかった。
「――その手紙、読まんのか」
 遂に、サライが新たな手紙を受け取った日に、ミケランジェロはおずおずと問いかけた。
 サライは片頬を歪め、手紙をひらひらと振ってよこした。
「読まねぇよ。フランチからだ、書いてあることは、いっつも同じだからな」
 フランチ――それは、レオナルドの養子になったと云う男のことか。
「そ、そうか……」
 それでは、二人の間には、いろいろと複雑な感情があるだろう。片やはレオナルドの正統な後継であり、片やはレオナルドに最も愛された男である――片やはその死に水をとり、片やは傍にいることもできずに、ミラノへ帰った。
 ああ、そう云えば、あのベルナルディーノと云う男が云っていたか――レオナルドの絵を渡せと云ってきているのだと。
 では、その手紙は、そんな内容のものなのか。レオナルドの絵を渡せと云う?
 ミケランジェロが黙りこむと、サライはふと笑い、
「……まぁ、でも、もう読んでやってもいい頃かな」
 と云いながら、手紙の封を切った。
 そうして、長椅子に坐って読みはじめる。その顔に浮かぶ、かすかな苦笑――“やはり”とでも云いたげな、それとも、何かの諦観を含んだような?
 内容を教えてはくれまいと思いながら、ミケランジェロは、サライの様子をじっと窺っていた。
 やがて、サライはひとつ溜息をつき、苦笑しながら手紙を折った。
「……絵を寄越せとさ。お宮仕えも大変だよな、フランチの奴、向こうの陛下にせっつかれてるみたいだ。――だけど、渡さねぇよ。あの絵は、死ぬまで俺のものだ」
 その言葉を口にした瞬間のサライの表情に、ミケランジェロはどきりとした。
 何と云う表情だ――甘く、昏く、どこか淫猥な、あの「洗礼者ヨハネ」と同じ笑み。
 だがもちろん、その笑みはミケランジェロに向けられたものではない。レオナルドに――死んだあの男に向けられたもの。
 と――
 サライは、ふと息をつき、にやりと笑った。
「……ま、こんなこったろうと思ったけどさ。――だけど、そうだな、そろそろ返事を書いてやらないと、フランチの奴が大変そうだよな」
 返事を書いてやるのか――だが、“渡さない”と云う返事であれば、出すも出さぬも同じことではないのか。
 その問いかけを、ミケランジェロは口にすることができなかった。
 ペンを取って返事を書きはじめたサライの顔が、何か、不思議な幸福感に満ちていたので。
 多分、サライは肚を決めたのだ。
 ――あの絵は、死ぬまで俺のものだ。
 そう云わしめる何かを得、それを誇らかに宣言することができるようになったのだ。
 それは、サライが、レオナルドを抱えたままで歩き出そうとしている、その証のようにミケランジェロには思われた。
 良いことだ、それこそがミケランジェロの、そして他の人々の願っていたことなのだ。
 だが――
 胸の裡に、じわりと不安が忍びこんでくる。
 ?死ぬまで?――その言葉が、胸の奥に不安を呼び起こすのだ。
 絵を欲しがっているのは、メルツィの後ろにいる、フランス王フランソワ?世であるはずだ。彼は、レオナルドに惚れこんで、絵を描くこともままならなくなった“画家”を、己の所持する城館を与えて庇護しさえしたのだから。
 そうして――今や強大な権力を持ち、この半島にまで版図を拡げるかの王が、たかだか画家の従僕――弟子でなければ、そういうことになるだろう――ひとりに、ここまで逆らわれて、内心穏やかであろうはずがない。
 ――サライ、お前、本当は……
 生きる気など、とうに失せてしまっているのか? フランス王を挑発してみせることが平気なほどに、心底から生への執着を断ち切ってしまったのか?
 そこまで考えて、ミケランジェロはぶるぶると頭を振った。
 考え過ぎだ。まさか、いくら何でも、自ら死地を招くようなことなど、サライはするまい。
 それに、今から返事を出したとて、ヴァプリオ・ダッタにいると云うメルツィにはともかく、フランス王にはいつ届くものか――冬のアルプスに遮られることになれば、手紙が届くのは春のこと。それより先に届いたとて、フランスとミラノは遠いのだ。そうそう大事には至るまい、いや、至らないでくれ――
「――どうしたよ?」
 サライが、振り返ってくすりと笑った。
「変な顔してるぜ、あんた。まるで、うっかり食った鰯が、まだ生きてて胃袋で暴れてるみたいな顔だ」
「いや――」
 苦笑とともに首を振りながら、ミケランジェロは、本当に生きた鰯が腹の中で跳ねているのかもしれないと、胃の辺りに手をあてた。



 冬は、足早にやってきた。
 十一月に入って、ミラノは雨と霧の日々が続くようになった。雨は、時に霙まじりになって、ミケランジェロにとっては辛い、冬将軍の到来の先触れとなっていた。
 湿気と寒さとで、身体中が軋む。節々の痛みも酷く、眠る前にかなりの酒を入れなければ寝つけないほどだった。
 サライに云わせれば、一月二月はさらに寒さが厳しくなるのだそうだが、冗談ではなかった。これ以上の寒さであったなら、ミケランジェロは、夜中一睡もできなくなるのではないかと思われた。
 サライは、もちろんひどく気をつかってくれた。毛布を何枚もミケランジェロの寝台に重ね、眠る前に暖炉の前に坐らせて、身体が温まりきってから眠れるように計らってくれた。
 それでも、真の寒さの前には、それもあまり効き目はなく、ミケランジェロは、寝台の中で、身体の痛みと寒さとで眠れぬ夜を過ごしたり、あまりに耐え難い夜などには、起き出して、暖炉に再び火を入れたりしていた。
 サライは――大概、ミケランジェロがそうやってごそごそやっていると、気がついて階下へ下りてきて、葡萄酒を温めたり、火を掻き立てたりと、何くれとなく世話を焼いてくれた。
 あるいは、気がつくとサライはまた、蝋燭をひとつ灯しただけで、レオナルドの部屋で坐りこんでいたりもするのだ。白い布を被せた「婦人像」をじっと見つめ。
 それを見つけると、ミケランジェロは、戸口の外から声をかけるのだ。
「おい、寒くて敵わんのだ。何か、温かいものでも作れ」
 そんなことをするな、と云ったところで、サライが聞きはしないことなどわかっていたから――そうやって、自分の用にかこつけて、サライをそこから引きずり出すのだ。
 そうすると、彼は苦笑しながら、
「……まったく、しょうがねぇな、あんた」
 と云って、部屋を出てくる。
 もちろん、サライはわかっているはずだ。ミケランジェロが、そうやって、彼を絵の前から引き剥がそうとしていることなどは。
 それでも、文句ひとつ云わずに付き合ってくれる。不思議なことだ。
 ミケランジェロは、暖炉の前で丸くなり、毛布にくるまって震えながら、身体が温まるのを待つ。そのうちに、サライが、温めた葡萄酒に蜂蜜を落としたものを持ってやってくるのだ。
 そういう夜には、ミケランジェロは、眠れぬ時間を、サライととりとめのない話をして過ごすのだった。
 話題は、昔の話が多かった。フィレンツェで、ローマでの、レオナルドの話などが。
「――そう云やあんた、ローマで目許を蚤かなんかに食われなかったか? ……先生がさ、何かそんな絵描いててさ、顔があんたのだったから、おっかしいなぁって思ってたんだけど」
「ああ、いつぞやの夏に、そう云えば――確かに、お前らがローマにいた時だったが――レオナルドが? 会わなかったぞ?」
「でも、確かにあんたの顔だったぜ。遠目にでも見てたのかな?   ――その後でさ、先生、俺に、何とか云う僧院へ、蚤に食われた時の治療法を教えてこいとか云ってきたな。わけわかんねぇと思ったけど……もしかして、あんたのいた僧院だったのかな、あれ」
「確かに俺は、あの頃はドメニコ会の僧院に厄介になっていたが……」
「ドメニコ会! じゃあ、やっぱりそうだ! そんな話、聞かなかったか?」
「そう云えば、修道士から、食われたところをよく洗って、強い酒で拭いて清潔にしておけと云われたな。――まさか、あれがそれか?」
「そうだよ、それ! ……そうか、やっぱりあれ、あんただったんだなぁ……」
 長年の謎が解けたかのように、しみじみとサライが云う。
 ミケランジェロも、感慨に浸っていた。
「そうか、レオナルドが……」
 ずっと、ただ避けられ、嫌われているのだとばかり思っていた。昔、サンタ・トリニタ寺院の傍で投げかけた言葉を思い出し、それも仕方のないことかと思っていた。
 だが、案外そうではなかったのかも知れない。ミケランジェロが、レオナルドのことを気になって仕方がなかったように、向こうもこちらのことを気にしていたのかも。
 そうだったなら――本当に、レオナルドが生きているうちに、話をすることができていたら良かった。レオナルドの絵、レオナルドの理論、レオナルドの――何もかも。話して、聞いて、語らって、そうすればきっと、さらなる傑作を、お互い生み出し得ていたのだろうに。
 まこと、冬は追憶の季節だった。
 あるいは、サライミケランジェロを煩わしく思わないようであるのは、それ故であったのかも知れない。サライの追憶を、ただ傍で懐かしむだけのミケランジェロは、あれこれ云いたがる、あるいは腫れ物に触るように接してくる他の輩よりもずっと、ともにあって煩わしくないと感じていたのかも知れない。
 追憶に浸りながら、やがて来る春を待つ――冬はまた、まどろむ季節でもあった。
 だが、そうもあろう、冬は、木々も虫も動物ですら、すべてが眠りにつく季節ではないか。そうして春にはまた、彼らは眠りから醒めて、新しい季節を謳歌するではないか。
 この冬は、ミケランジェロにとっては、そのような刻だった――そして、おそらくはサライにも。
 だが、まどろむように過ごしても、時は確実に過ぎてゆく。
 そうするうちに、厳しい冬の向こうから、春の確かな足音が聞こえはじめていた。


† † † † †


みけの話、続き。
いんたーみっしょん。



えーと、先生によるみけ(?)のスケッチは、確か解剖手稿の中にあったような――都立図書館でファクシミリ版見た時に載っててコピーした記憶があるので、解剖手稿かパリ手稿のどっちかだったはず。マドリッド手稿や鳥の飛翔に関する手稿、トリヴルツィオ手稿とかは国会図書館だったけど、確か都立図書館だったと……解剖手稿だったかなー。タッシェンの全絵画集にも載ってたと思うんだけどなー。
見た瞬間、どう見てもみけ! (鼻のかたちは違ったけど)だったので、ものすごく笑った、憶えがあります。
みけの方も、トンド・ドーニのヨセフがまるっきり先生だったので、ものすごく可笑しかった……結局この二人、ものすごく意識し合ってたんだよね。ちゃんと話ができたら、結構いい友達になれたんじゃないのかなぁと思います。
だって、先生は阿闍梨と似てて、みけは橘逸勢と似てるんだもん、頑張れば仲良くなれたと思うんですよねー。コミュニケーション取る意思があればねー。
某F/Zの弓陣営見てても思うんですが、コミュニケーション取ろうと思わないと、どんなに相性良さそうでも意味ないなーと云うね……次があったら、頑張れみけ。



そうそう、『ピスメ鐵』買いました。鳥羽伏見で痛々しく。かっちゃんムカつくあたりなんですが、まぁこの話のかっちゃんはそう云うキャラでもないので(以下略)。
とりあえず、鈴がどっち寄りになったのかでものすごく違うんですが、前の巻見る限りでは拗れちゃった(本人の中で)カンジなのかなぁと……ここまで買ってきたからには、もう最後までつきあわせてもらいますけどね!
関係ないけど、迷ってた『薄桜鬼 真改』、Fateやりたいので多分Vita買うだろうから、ついでにやることになるかと思われます。相馬はカッコよすぎるが、野村はまぁまぁ、伊庭はアレとして、本山さんがサブキャラで出るらしいので、その辺とか。しかし、観柳斎と三木がイケメンになってて、それだけは許さん……! この二人が出てくるってことは、もうちょっとかっしー回りアレコレするってことなんでしょうが、それより鳥さんをもう少し出す感じでお願いします。
りょうま? りょうまはいらねーなー。勝さんが出てくるなら大歓迎ですが!



あと、もひとつは『阿吽』の二巻ですね。
最澄推しなので、もう雑誌は買ってないのですが、一応二巻も買った……桓武が大嫌いなので、二巻はホントにもう! なカンジでした。
これの阿闍梨のキャラがねー。ああ云う生硬なカンジって、どっちかって云うと最澄のがそれっぽいような気がするんですが。阿闍梨はやや不真面目ですよ。いや、真面目は真面目なのかも知れないですが。でも、真面目一辺倒の人間が「三教指帰」みたいなひとを小馬鹿にした話は書かないと思うんだ。亀毛先生なんて、まるっきり阿刀大足だし、蛭牙公子も阿闍梨だろうしな!
って云うか、「三教指帰」≒「聾瞽指帰」って、今見るとバ……いやいや(汗)。若さっつーか馬鹿さ故のアヤマチですわね。やれやれ。多分国宝のアレを取っといたのは阿刀大足だと思うのですが、後で見せてにやにやされたんじゃないかと思いますよ。恥かしいですね!
さてしかし『阿吽』……三巻どうすっかなー。ホントどうしよ。



さて、この話もあと二章! はやく上げて、鬼の話を最後までうpしたいですね。
そのあとは先生の話、かな? お仕置きだべぁ〜! か……あ〜……
ともかく、次もみけの話で!