左手の聖母 21
「あんた、そろそろフィレンツェに帰った方がいいぜ」
唐突に、サライが云った――ようやく春の気配が感じられるようになった、とある日のこと。
ミケランジェロは驚愕したが――同時に、何となく、そう云われる予感のあったことにも気づいていた。
「俺が、邪魔か」
それでも素直に頷きかねて、そう問えば、サライは慌てて両手を振った。
「そ、そんなんじゃねぇよ! そんなんじゃねぇけど……」
云って、溜息ひとつ。
「――ほら、あんたさ、こっちに来てからずっと、ほとんどどこにも連絡取ったりしてねぇだろ。右手も、もう痛まねぇみたいだしさ、一遍、フィレンツェに戻って、いろいろ連絡取ったりとか、した方がいいんじゃねぇの? 流石にヤバいだろ、そろそろ一年になるぜ」
宥めるようなもの云いだった。
――こいつは、俺をフィレンツェに帰したがってる。
ミケランジェロは確信した。
サライは、自分を帰したがっている。それは確かだ――だが、何故?
彼が、ミケランジェロのことを煩わしく思っているわけではないのはわかっている。
暖かくなってきたので、またミラノ市中への散歩に出るようになっていたが、サライは何も云わずに付き合ってくれているし、冬枯れの葡萄園に、春の息吹を探しに出たときにも、楽しそうに枝々を見て回っていたのだ。
この唐突なもの云いには、何かがある――だが、ミケランジェロには、その“何か”に踏みこむことはできなかった。サライが許さなかったからだ。
もちろん、サライが言葉に出してそう云ったわけではない。そうではなく、そのまとう空気が拒むのだ。訊くな、知ろうとするなと、問いかけるまなざしを押し戻すかのように。
だがまぁ、それは仕方のないことだ、とミケランジェロは思っていた。
所詮、自分は闖入者だ。宿主であるサライが“行け”と云えば、出て行かざるを得ない立場でしかないのだ。
それに――やってきた当初には、奇妙な不自然さのあったサライの日々も、今やすっかり普通のものになった。そろそろ、お互い手を離してもいい頃なのかも知れない――肩を寄せあって過ごす冬は、もう過ぎ去ってしまったのかも。
「――そう、だな……」
やや暫くの沈黙の後、ミケランジェロは頷いた。
「俺も、いつまでもここでぬくぬくとしているわけにはいかんのだろうな――そうだな、俺も、フィレンツェへ戻ることにしよう」
このまま、法王やその他の依頼人、父や兄弟たちから逃げ続けても、どのみち逃げ切れるわけなどないのだ。
そうであれば、いっそすっきりと決着をつけるためにも、一度フィレンツェへ戻るべきなのだろう。
「そうしなよ」
云ったサライは、どこかほっとしているようにも見えた。
「云ったろ、俺――あんたの作るものはすごいって。……そろそろ、手も大丈夫なはずだ。俺、あんたに、もっといろんなものを作って欲しいんだよ」
「そうか……そうだな――手が本当に大丈夫ならな」
右手は――確かに痛まなくなってはいた。だが、まだものを掴むのが怖ろしく、ミケランジェロは、槌はおろかペンすらも、握ってみてもいなかったのだ。
サライは、それにばかりはにっと笑った。
「大丈夫、俺の手当ては効くって、近所の年寄り連中にゃ評判なんだぜ?」
確かに、サライの手当てを求めてやってくる近隣の老人は多かった、が、
「俺は年寄りじゃない!」
「先生みたいなこと云うなよ。五十過ぎりゃ、誰だって年寄りだろ、普通」
サライは大きく笑って、ミケランジェロの背中をばしんと叩いてきた。
「ま、でも、あんたはまだまだいろいろやれるさ。大丈夫、俺が保障するよ」
「お前なんぞに保障されても、信じられるか!」
噛みつけば、笑いが返る。
昔に戻ったようだと、ミケランジェロは思った。
フィレンツェで、ヴァチカーノのベルデヴェーレ宮殿で、自分たちはいつもこんな風だった。
だがそれは、いつもともにあったのではなく、時折会っていたからこそで。
そうだ、そろそろ別の道を歩みだすべき時が来たのだ。サライは己の往くべき道を見出し、ミケランジェロはこれまでの人生の始末をつけなければならぬ。
「――フィレンツェに帰る」
ミケランジェロは、遂に、そう決意した。
「支度ができたら、すぐに発とう――お前の云うとおりだ、いつまでも逃げているわけにもいかん。けりは、きちんとつけなければな」
「そうだよ――だけど、淋しくなるな」
自分で勧めておきながら、そんなことを云うのか。
サライのもの云いに、ミケランジェロは思わず笑いをこぼした。
「お前、云ってることが矛盾しているぞ」
「五月蠅ぇな、淋しいもんは淋しいんだよ。仕方ねぇだろ」
サライが唇を尖らせる。
ああ、そうとも、ひどく淋しい――ここを去って、サライと別れねばならない、そのことが。
だが、
「お前は、ここにいるんだろう?」
この、レオナルドの思い出に満ちた家に。
それならば――またミケランジェロが訪ねてくればいいだけの話だ。そうとも、フィレンツェとミラノは、決して地の端と端ほど離れているわけではない。また、来れる。その気になれば、いつであれ。
それに、ここには、レオナルドの絵があるではないか。あの男の、あふれんばかりの愛の証が。
「……そうだな」
サライが、かすかに笑う。
「よし。では、帰ろう」
一度戻って、様々なことにけりをつけてしまおう。
そう云ったミケランジェロを、サライは黙って、微笑みを浮かべて見つめていた。
よく晴れた春の日、ミケランジェロはミラノを発つことにした。
荷物などはほとんどない。来たときと同じに、ほとんど着の身着のままで、フィレンツェに戻るのだ。
サライとバッティスタが手配をしてくれて、帰りは、フィレンツェまで行く商人の馬車に便乗させてもらえることになった。
「じゃあ、俺はそろそろ行く」
小さな袋を担いで、ミケランジェロは戸口に立った。
「ああ、気をつけて行きなよな」
サライは戸口まで出てきて、ミケランジェロを見送ってくれた。
「かたがついたら、また戻ってくるさ」
右手の動かないことを皆に告げ、契約をすべて破棄し終わったなら。
だが、サライはくすりと笑っただけだった。
「かたなんかつかねぇよ。あんたは、フィレンツェに戻ったら、溜まった仕事に追われて、てんてこ舞いすることになるさ」
「だが……」
「云ったろ、あんたの右手は大丈夫だって。――ま、でも、戻ってくるなとは云わねぇよ。仕事がひと段落ついたら、また来りゃいいだろ」
そう、だろうか?
確かに、右手はほとんど痛まなくなった。気候が良くなっただけではなく、確実に、ミラノへやってきた時よりも、格段に状態は良くなったと感じられる。
だが、これですぐさま彫刻のための木槌を持つとなると――正直、ちゃんと仕事ができると云う自信は、かけらも持つことができなかった。
ミケランジェロが逡巡していると、
「大丈夫だって。……しょうがねぇなぁ」
溜息をひとつついて、サライは、自分の右手で、ミケランジェロの右手をぐっと掴んできた。
「そんなに心配なら、いいよ、俺の右手、持ってけよ」
「何?」
サライの右手を? そんなことなどできるわけがない――言葉どおりの意味でも、そんなことは不可能だという意味でも。
「俺の右手、あんたにやるよ。――本当は、先生にあげられてたらよかったんだけど……」
一瞬、その顔に、淋しげな色が浮かんだが――次の瞬間には、それは綺麗に拭い去られてしまっていた。
「だから、いいよ、あんたが持ってけよ。俺は、別に右手がどうなってたって、全然平気だからさ」
その言葉とともに、サライの手に力がこめられた。
ミケランジェロの右手を掴む、強い力――それとともに、熱が、力が、その掌から流れこんでくるような気がした。
――熱い……!
焔に触れられたかのように、ぱりぱりと指先が痺れるようで、それがまた、腕をめぐって、身体全体にも及んでくる。
だが、それは一瞬のこと。
「……ほら、もう平気だ。あんたの右手は大丈夫だよ」
そう云って、サライは腕を離し、肩をぽんと叩いてきた。
右手は、まだどこか痺れるようだ――だが、それは決して麻痺したと云うことではない。むしろ、自分のものではない強い力が、身のうちを巡っていったかのような、充足と虚脱の、奇妙な感覚があった。
「だから、あんたは、安心してフィレンツェに帰んなよ」
どうあっても、サライは自分を帰したいらしい。
だが、何故、こうまで急ぐのか。
考えた瞬間、何か、不吉な予感が、身の裡を駆け抜けていった。
ここでこのまま別れたら――サライとは、二度と会うことはないのではないか。
「サライ、やっぱり俺は……」
振り返って、口を開く。やはり、フィレンツェには帰らないと、そう言葉にしようとして。
「馬鹿なこと云ってんなよ」
サライが、笑いながら云った。
それは、心からのと云うよりも、ミケランジェロの言葉を封じようとするかのような、妙に力のこもった笑顔だった。
「あんたを待ってる人間は、フィレンツェにもローマにも山ほどいるんだろ。――それに、あんたには、養ってやんなきゃならない家族もあるはずだ。俺みたいなのなんかにかかずらわってないで、その人たちのところに戻んなよ」
明るい、反駁を許さぬ強い声だった。
「行きなよ、ミケランジェロ。馬車が待ってるはずだぜ」
その言葉に背を押され、ミケランジェロは歩き出した。
新しい葉の芽吹いた葡萄の木々の間を、とぼとぼと歩き、すこし行って振り返る。
サライは、戸口に立って、手を振っている。
それを見て、また歩き、すこし行っては振り返る。
帰ってはいけない、と、心のどこかで声がした。ここで別れたらこれっきりだ。帰ったら、きっと自分は後悔するだろう――だが、サライの笑顔が、戻ることを許さなかった。
すこし歩いては止まって、振り返る。段々、サライの姿が小さくなる。もう、表情も読めぬほど。
とって返そうか、サライがまだ立っていれば、やはり帰らぬと、あの家まで駆け戻ろうか。
と――
サライがふと背を伸ばし、大きく手を振って、踵を返すのが見えた。その姿が戸口から消え、扉が閉まる――何かを、未練を、断ち切るように。
――行きなよ、ミケランジェロ。
サライの呟きが聞こえたような気がした。
そうだ、もう戻れない。自分は、フィレンツェへ帰らなければならない。
ミケランジェロは肩を落とし、とぼとぼとミラノ市中へ――馬車の待つ商家の前へと歩き出した。
商人の馬車に乗って、フィレンツェへ帰りついたのは、まだ新緑の季節のうちだった。
ミケランジェロは、ひそやかにフィレンツェ市中に戻り、あちこちに連絡を取った。法王や依頼人、友人や家族たちに、長の不在を詫び、戻ってきたことを告げる手紙を書いて。
家を借り、放置していた石を見直し、友人知人の手紙に返事を返し――そうやって慌しくしているうちに、ミラノから、一通の手紙が届いた。
差出人は、バッティスタ・デ・ヴィラニス――サライが死んだと知らせる手紙だった。
† † † † †
みけの話。さよならミラノ。
そしてさよならサライ。
サラの死因等はまぁ次回に置いといて。
みけは行方くらまして、翌年には戻ってたそうですね。
と云っても、そもそも失踪してたと云うことが載ってるのが、ロマン・ロランの『ミケランジェロの生涯』くらいなので、詳細はまったくわからんのですが。コンディヴィとかトルナイとか田中英道とかは書いてなかったはず(一応その時期の記事だけチェックしたことが)。多分、手紙の日付の解釈によって、いろいろ出てきてるんだと思います。幕末だってそう云うのある(安富の手紙とか)んだから、もっと昔のルネサンスなんか、推して知るべし、ですよねー。
まぁ、みけもああ云う人なので、ぐあぁぁぁとなったら失踪くらいはしそうなんですけども。
しかしまぁ、はじめから読み直してみると、特に前半、歴史的事実やら何やらの折りこみ方が拙いわー。切なくなるほど拙いわー。
まぁもうかれこれ九年ぐらい前(このブログはじめる前)だから、もちろんものなれてないとこはあるんですけども!
とりあえず、多少なりとも進化はしてるんだなぁと思うと、ほっとはしますね。
人間、成長しなくなったらおしまいなんだと思うので。
あとは、小説としての面白さと、歴史としての面白さがうまく融合させられればいいんだけどな……要精進。
ってわけで、次はみけの話最終章!
終わったら鬼の話だ!