左手の聖母 22(完結)

 サライが死んだ。
 バッティスタからの手紙によれば、ミケランジェロが帰ってすぐ、サライはあの家の中で、銃で撃たれて死んだのだと云う。下手人は、まだ捕まってはいないと云うことだった。
 家中を逃げ回ったものか、家具は倒れ、ものは床に散乱して、ひどい有様だったのだそうだ。だが、奇跡的に、レオナルドの絵は傷ひとつなかったのだと云う。
 ――“奇跡的に”?
 いいや、違う。
 侵入者は、敢えてサライを追いまわし、レオナルドの絵に傷がつかないところを選んで、サライを撃ち殺したのだ。
 撃ち殺した――そう、殺されたのだ、サライは。誰に? レオナルドの絵を欲した連中に。
 ――あの絵は、死ぬまで俺のものだ。
 そう云って笑ったサライの顔を憶えている。昏く淫猥で、ひどく甘い、あの「洗礼者ヨハネ」と同じ笑顔を。
 “死ぬまで”、そう、確かに、絵は死ぬまでサライのものだった。
 サライは、多分この結末をわかっていたのだろう。わかっていたから、ミケランジェロを急きたてて、フィレンツェに帰ると云わせたのだろう。じきに、己の生命を奪いにやってくるものがあると、そう予感していたからこそ。
 ――馬鹿め……
 手紙を握りしめて、ミケランジェロは泣いた。ぼろぼろと涙をこぼした。
 サライは多分、死ぬことを選んだのだ。メルツィからの手紙に返事を書くと聞いたあの時に、ミケランジェロの感じた不吉な予感は正しかった。あの時既に、サライは、己の短い先行きを見据えていたのだ。
 サライの死顔は、きっと微笑みを浮かべていただろう――ようやっとレオナルドの許へ行けるのだと、その喜びに微笑んですらいただろう。
 サライは満足だったかも知れないが――だが、それでは、残された自分たちは、一体どうしたらいいと云うのだろう?
 サライが立ち直るのだと信じていた、自分やバッティスタのようなものたちは。
 ――大馬鹿野郎め……
 ミケランジェロは、泣きながら、作りかけだった“曙”と“黄昏”に鑿を入れた。
 不思議なことに、右手はすこぶる調子が良く、一年前にあれほど痛んだことが嘘だったかのようだった。
 ――俺の右手、あんたにやるよ。
 あの時、ミケランジェロの右腕を掴んで、サライの云った言葉が、耳朶に甦る。
 そんなことなどできるわけがないと思っていたが、この手はもしかすると、本当にサライの右手なのかも知れない。サライが死んだ今、“やる”と云われた右手がミケランジェロの右手に宿り、こうして自在に動いているのかも知れない。
 そう思うと、己の右手がサライの形見のように思えてきて、一層大事にしなければと心に誓う。サライが生きるはずだった未来の分まで、この右手とともに生きなくては――そうして、あの男が見たがっていた美しい彫刻を、一点でも多く彫り上げなくては。
 ミケランジェロは、夢中で木槌を振るった。
 “曙”と“黄昏”の粗彫りを終え、仕上がりが揃うようにと“夜”に手をつける。
 “夜”――一日の業に疲れきり、深く眠る壮年の女の姿を描こうとして、自分の描いた素描にはっとする。
 眠る“女”――だが、この横顔は、サライのものではないか。時折、そう、レオナルドの部屋で夜を過ごした翌日などに、長椅子にもたれて眠っていた、あのサライの姿そのものではないか。
 ――サライ……
 レオナルドの愛した、この美しい横顔のかたち。
 “クソがき”と思う以上に、ミケランジェロにとって、サライはかけがえのない友人だった。あの美しい顔を前にして、確かに陶然となることはあったけれど、不思議なことに、決して不埒な感情は、この胸にわき上がってはこなかった。
 そうして、サライもまた、ミケランジェロのことを、同じように考えていてくれるのだと思っていたと云うのに。
 ――この世と秤にかけてすら、そんなにも、レオナルドが大切だったのか。
 レオナルドの死後六年を、半ば死んだように生きたほどに――そうして、生命の力を取り戻したかと思った途端、レオナルドの後を追って逝くことを選ぶほどに。
 結局、二人の間を引き裂くことは、死によってすらできなかったと云うことなのか。
 レオナルドのよく描いた“魂の双生児”とは、あるいはあの二人のことだったのだろうか? 対である二人、ともに生き、ともに死ぬ、そのように密接で、二つ身でありながら魂はひとつの、そのようなものだったのだと――だからこそ、別れて後、ひとりは死に、ひとりは生きながら死んでいたと云うのか?
 ――お前たちは、大馬鹿野郎だ……
 ミケランジェロは、心の裡で叫びながら、“聖母子”の石材に鑿を入れた。
 何故、手を離したのだ、その後すぐに、あっという間に死んでしまうくらいなら。何故、戻らなかったのだ、その後六年間を、死んだように生きるくらいなら。
 そして何故、あの時自分は取って返さなかったのだ、不吉な運命を予感していながら。
 ――大馬鹿野郎だ……
 自分自身も。
 サライを止められたはずだと思いながら、しかし同時に、あの男は決してそれを許さなかっただろうともわかっていた。別れ際、最後に大きく手を振って、きっぱりと身を翻した姿を憶えている。
 ――行きなよ、ミケランジェロ
 そんな言葉で背を押して。
 ああ、そうとも、俺は往く――ミケランジェロは、木槌を振り上げながら、胸の裡で叫んだ。
 自分は独りだ。妻もなく、あの二人のような“魂の片割れ”もない。自分は、ただ独りだ――だがそれも、ひとつの“自由”と云えはすまいか?
 それならば、自分は独りのまま、この“自由”と連れ立って、どこまでも行こう。行けるところまで行き、生きられるところまで生きて、あの二人が見ることのできなかったものを見、作ることのできなかったものを作ろう。ああ、そうだ、それこそが、サライの右手を受け取った、自分に課せられた義務なのだから。
 気がつくと、四つの時の像のうち、女の姿をとったもの――“曙”と“夜”――はサライの顔に、男の姿に擬したもの――“昼”と“黄昏”――はレオナルドの顔に、それぞれ似てきてしまったようだった。
 そして、中心に据えるべき“聖母子”は――
 ――何だ、お前たち、そんなにもくっついていたいのか。
 ミケランジェロは、思わず微苦笑した。
 青年のような面差しの聖母が、膝の上にのせた幼児キリストに乳を与えている。上体を大きくひねった格好で、母親の胸に顔をうずめるキリストの頭は、細かい巻き毛に覆われている――ミケランジェロのものとは違う、丁度サライの髪のように。
 組んだ左足の上に息子をのせた聖母マリアは、右手で身体を支え、左手で幼児の身体を抱えている。その顔は、かつてメディチの館で見た、ヴェロッキオの「ダヴィデ」に良く似ていた――つまりは若かりしレオナルドの顔に。
 すこし、淋しい顔だ――だが、それも仕方のないことかも知れない。
 レオナルドは、フランスで独りで死んだ。サライも独り、ミラノの地で殺されてしまった。二人とも、淋しさを抱えたままで――だから、その姿を映したこの像が淋しげなのは、仕方のないことなのだ。
 そうして、だからこそ、この大理石の上だけでも、あの二人がともにあって、離れまいとする姿を作り上げてやりたかったのだ、そう、ミケランジェロこそが。
 ――お前たち、もう、天上で再会できたのか?
 神の国があるのかどうか、ミケランジェロにはわからない。けれど今は、あの二人のために、あってほしいと思っていた。
 神の国で、あの二人は再会するのだろう。もしかすると、ジュリアーノもそこにはいるのかも知れない。
 それならば、死は、それほど恐れるべきものでもなくなるだろう。彼らが待っていてくれるかも知れないのだと思えば、それだけで死の恐怖など消えてしまうだろう。
 だが、ミケランジェロが彼らのところへ行くのは、まだ先の話だ。
 この墓廟と、ユリウス二世の墓廟を仕上げたなら。そうしたらやっと、彼らの許へも逝けるだろう。胸を張って、レオナルドに、サライに、相対すこともできるだろう。
 それまでは、この彫像たちとともにあるとしよう。再びまみえる寸前まで、この像たちとともにあれるよう、ゆっくりと、丁寧に仕事をしよう。ジュリアーノの像は完成間近だが、正面の耳がまだ彫れてはいない。人の目に触れる側であれば、未完成だと云い逃れることもできるはずだ。
 そうして、すべてが収まるべきところに収まった直後に、この世を去ることができたなら、それは何と云う幸福だろうか。
 ミケランジェロは、半ば姿を現している聖母子を見上げ、その白い肌を撫でると、にっこりと笑みをこぼした。



 フィレンツェ中心部にほど近い、サン・ロレンツォ聖堂の一角に、ミケランジェロの未完の作品群はある。
 新聖具室――ブルネッレスキの手になる旧聖具室と対応して、このように呼ばれる――メディチ家礼拝堂とも呼ばれるその一室は、部屋ひとつすべてがミケランジェロの作品だ。
 青白いカッラーラ産の大理石に覆われたそこに足を踏み入れると、正面に祭壇が設けられているのが見える。ここでは、今でも毎日ミサがあげられている。
 だが、部屋の本当の中心は、その祭壇の真向かいにある墓廟の方だ。
 墓廟、と云っても、そこにあるべき壁龕などはない。つるりとした、二人のマニフィコの名だけが刻まれた大理石の台の上に、ただ「聖母子」が据えられている。両側には、弟子たちの手によって刻まれた、聖コスマスと聖ダミアヌス、どちらもメディチ家守護聖人だ。
 石柩もなく、二人のマニフィコ――ロレンツォ・イル・マニフィコと、その弟ジュリアーノ――の亡骸は、台の下に納められている。
 ミケランジェロは、二人のメディチのための墓廟を構想していたのだが、その全容は、今に残るデッサンを検証しても、未だに明らかにはされていない。「聖母子」を中心に考えていたことは確かなので、弟子たちが二聖人の像を彫り足し、今のようなかたちに配しただけなのだ。
 二人のメディチのための墓廟に向かって、左手の壁にはヌムール公ジュリアーノの、右側の壁にはウルビーノ公ロレンツォの墓廟が、それぞれ設けられている。
 こちらも未完成ではあるのだが、それでも二人のマニフィコたちの墓とは違い、すくなくとも壁龕は設けられ、石の柩がその前に据えられている――どちらの廟も、壁龕には空白ばかりが目立ったが。
 ウルビーノ公ロレンツォは、ローマの将軍の衣装をつけ、冑をかぶった姿で坐っている。口許に片手を当て、F.ハートの言に拠れば「悪意に蝕まれて」坐るその姿は、他の肖像で伝えられるよりも整っており、実際、当時のフィレンツェ市民からも、美化しすぎているとの批判の声が上がったと云う記録が残されている――ミケランジェロは、?百年経てば、誰にもわからなくなる?との言葉で、その声に応えたと云うが。
 ほとんど未完成なものばかりの彫像の中で、唯一ほぼ完成と云って良いのが、ヌムール公ジュリアーノ――その右耳を除いては、すべてが美しく彫りこまれ、仕上げの磨きも全体に施されている。右耳――壁龕に収められた時、人々に向けられる側の耳――を、何故ミケランジェロが未完成のままにしたのかはわからない。
 今、墓廟の中央に据えられたジュリアーノ像は、未完の耳を訪れる人々に向けて、静かに坐っている。
 二人の?将軍?の柩の上には、四つの時の寓意像――すなわち「昼」「夜」「曙」「黄昏」――も、そのすべてが未完成のままだ。
 中でも特に名高いのが、ジュリアーノの柩の上の「夜」――身を折り曲げて深く眠る壮年の女の像。悪夢の仮面を踏みつけて眠る女の像は、後の「レダ」――失われた、白鳥と交接する眠るレダ――の原型になったとも考えられている。
 そして、二人の“将軍”のまなざしの先――フィレンツェで最も美しい聖母は、静かに坐している。
 膝の上にのせられた幼児キリストは、母の左胸に取りすがり、乳を含んでいるようにも、ただしがみついているようにも見える。
 それを左手で抱き寄せる聖母マリアは、身体つきも面差しも、青年であるかのように見える。すこしかしげられた首、夢想するように見開かれた目、かすかな微笑みを浮かべる唇――粗彫りの段階であるからか、その貌は薄紗のヴェールをかけられたかのようで、それが一層、この聖母の美しさを際立たせているようだ。
 ミケランジェロの聖母子像の、ひとつの頂点と云われる「メディチ・マドンナ」――だが、その面差しが、現在ウフィッツィ美術館に納められている、ヴェロッキオの「ダヴィデ」像に似ていることを指摘するものはない。そして、この聖母子のモデルが何者であるかを問うものも、また。
 すべては、五百年の時の彼方に埋もれているのだ――



      ‡ ‡ ‡



 世界は昏い。
 わかっている、自分はそろそろ死ぬのだろう。
 長かった、と思う。生まれてこの方九十年を、ほとんどがむしゃらに駆け抜けてきた。
 ああ、だがその間に、何かひとつでも自分のなし遂げ得たことがあっただろうか?
 ヴァチカーノの「ピエタ」、フィレンツェの「ダヴィデ」、それだけではないか。
 システィーナの絵? あれは、彫刻家の仕事ではない、云わば余技のようなものだ。パオリーナ礼拝堂の二点のフレスコも同じこと。
 彫刻家として歩んできたはずの人生で、自分は何も、確たる仕事をなし得なかったではないか。
 ユリウス二世廟は、「モーゼ」のみを完成させ、他は余人の手に委ねた。メディチ礼拝堂も、数々の彫刻こそ納めはしたものの、すべてが未完のものばかりだったではないか。
 だが、もはや、それらに手を入れる力は、自分にはない。老いて盲い、槌を持つ力すらない今の自分には。
 すべては往き、すべては去った。愛しい人も、親しい友も、若さも、時も、すべてが自分を置いて過ぎ去ってゆく。
 もう、いいだろう。自分は充分に生きた。この世にあると云う苦行から、もうそろそろ解き放たれても良いはずだ。解放を望むことを許されたとしても。
 目が見えず、息も苦しい。そろそろだ、もうそろそろ――御使いが現れて、自分の運命を告げるのは。
 ふと――
 まわりの様が一変していることに気づき、首をかしげる
 あたりを満たす、灰色の霧――“灰色の”? 何故、見えぬはずの目に、色がわかると云うのだ。あるいは、自分は既に死んでいて、それ故に、肉体の目に頼らずとも良くなったと云うことなのか?
 だが、そうであるとするならば、この灰色の霧のたちこめる場所は一体、天国なのか、地獄なのか。
 ――天国なわけはないな。
 苦笑がこぼれ落ちる。
 神の摂理にも従わず、一生を独身で過ごしてきた。悪徳に手を染めはしなかったが、さりとて功徳を積んだとも云い難い。孤独と云う“自由”を謳歌した自分に、神の国への扉が開かれるとも思われぬ。
 きっと、ここは地獄への道の途上なのだろう――あるいは、魂を清める煉獄までの。
 と――
 ――ミケランジェロ
 遠くから、名を呼ぶ声が聞こえた、ような気がした。
 懐かしい――ああ、そうだ、これはサライの声ではないか?
 ――こっちだ、ミケランジェロ! あんたも来いよ!
 声のする方へ目をやれば、灰色の霧のたちこめる向こうに、淡く輝く何かが見えてきた。
 あれは何だろう? 天使か、単なる幻影か?
 それとも、
 ――お前なのか、サライ
 四十年も前に別れたはずの、あの男の声なのか――悪魔の囁く声でなく?
 ああ、だがそれならば、確かに自分は死んだのだ。死んで、サライの――あるいは、レオナルドも?――待つところへ、招かれてでもいると云うのだろうか。
 ――早く来いってば!
 笑いを含んで、声が云う。その、何と楽しげな声音であることか。
 ――今、行く!
 叫び返す、自分の声にも、不思議なほどに力が漲っている。
 ふと見下ろした手には、しわひとつない。一番充実していたあの頃――ちょうど、三十あたりの、力に満ちた手に戻っている。
 ――今、行くぞ!
 そう云って走り出す、その足もひどく軽い。
 霧の中を、全力で走っていると、光が徐々に近づいてくるのがわかる。
 ああ、あれは“光る何か”ではない。そうではない、洞窟の出口、館の扉のように、光あふれる場所へ続く門戸なのだ。
 そうしてその先で、見覚えのある影が、大きく手を振るのが見えた。
 サライだ、あの時と同じように手を振るサライ。お前か、お前なのか。
 あの光のあふれる場所がどこであれ、サライが――そして、おそらくはレオナルドも――いる世界ならば、そんなに酷い場所と云うこともないだろう。それが、天国であれ、地獄であれ。
 声を上げて笑いながら、ミケランジェロは、眩い光の中へと、その足を踏み入れた。


† † † † †


はい、みけの話、完結。
これでオシマイ(勝さん風に)。
“左手の聖母”=メディチ家礼拝堂の聖母子像は見てみたいんだけどなァ……(海外行くだけの休み取れねぇ!)



うむ、やはり最終章のアレの折りこみ方も拙いわ……今だとこう云う“ハァイ! いきなりですが作者です!”的な書き方はしないなァ。だって下手そうに見えるし(この時は実際に下手なわけですが)、司馬遼的考察挿入に長けているならともかく、結構普通の小説にこう云うの突っこむのって難しいし、ねェ。
ってわけなので、先生の話とか鬼の話とかはこう云う描写は入れてません。
近い書き方? なのは重盛の話ですが、あれは普通の処理で済んだもんな……
この話のそこらへんは書き直したい気がしないでもないのですが、実際やるとなるとどうしたらいいのかわからん……多分全部ばっさり切っておしまいにするなァ……
うまい処理がわかる方あったら教えて戴きたいですわ……



でもって、絶賛シュメル文化勉強中なのですが、何故か神話があんまり頭に入ってこない……都市文明云々は面白く読んだんですが、アレかな、日本神話に興味が(イマイチ)持てないのとおんなじなのかなァ……神社仏閣にはよく行くのですが、神様でピンとくるのが八幡系だけ(いや、世間的なイメージと自分のとがしっくりくると云うだけの意味ですが)だからかしら……『ギルガメシュ叙事詩』はものすごくわかるんですが、エンリルとかがな……あ、イナンナはものすごくよくわかりますがね。ウェヌスとかアプロディテとかフレイヤとか、まぁそう云うタイプだもんなー。
とりあえず、中公新書のを読み終わったら、一旦網野とか宮田登とかの対談『列島文化再考』(ちくま学芸文庫)を読もう……アタマリフレッシュ……



ってわけで、みけの話はおしまいです。
次はやっとこ! 鬼の話の続き〜ラストまで! 先生の話の続きは、それまでに覚悟完了できるだろうか……