北辺の星辰 68

 五月一日、歳三たち二股口守備隊は、五稜郭に帰参した。
 負けなしの戦いを切り上げて退いてこざるを得なかった兵たちは、やや不満げな面持ちではあったのだが、歳三としては充分以上の成果はあったので、気分はまぁ上々と云えなくもなかったのだ。
「無事帰参がかないまして、何よりでございました」
 市村が箱館を去ってこの方、心配性に拍車のかかった感のある安富は、五稜郭の門をくぐるなり、そう云って安堵の息をついた。
「大袈裟だなァ」
 笑いながら云ってやるが、安富はきっとこちらを睨み返してきた。
「“南軍”のあれだけの猛攻を、わずかな人数で迎え撃たねばならなかったのです、どれほどの犠牲が出るか、知れたものではなかったのですよ。幸いにも、奉行が戦巧者であられたので、死傷者も少のうございましたが……」
「俺ァ、攻めより守るが得手なのさ」
 “戦巧者”と云うなら、今は亡き沖田こそがそれだっただろう。歳三には、守りを固めることはできても、相手の守りを突き崩すことは難しかった。囲碁や将棋でもそうだったが、攻め具合を考えると云うのが、どうにも不得手だったのだ。二股口の攻防などは、あくまでも守る側であったから乗り切れただけのことだ。
 とは云え、
「“戦巧者”なんぞと呼ばれんのも、まァここまでのことだろうなァ」
 箱館府の拠点は、もうここ五稜郭箱館市中、そして室蘭の三カ所のみとなってしまった。
 頼みの綱であった海軍も、無事な軍艦は回天、蟠龍、千代田形の三艦のみ、ことここに至っては、さしたる戦力になるとも思われなかった。
「何を弱気なことを」
 安富は云うが、しかし、箱館府の命運が、早晩尽きるものであることは、誰の目にも明らかだった。
「まァ、最後の花火ァ、派手派手しく上げてェもんだよなァ」
 恐らく、本土の旧幕派は、ことごとく南軍の軍門に下ったことだろう。自分たちこそが最後の幕軍であり、最後の抵抗者である――それならば、最後の最後に思い切り暴れてやって、幕臣の意地を見せてやるか。
 ――いや、そんな余力ももうねェな。
 現に、五稜郭へ帰参する途中の村々でも、幕軍の脱走者が方々を荒らしながら落ち延びようとしていると云う噂話を聞いた。
 それが事実であるかどうかはわからない、が、事実であると村人が認識するほどに、箱館府の威が落ちているのだと云うことはわかる。
「“最後”などとおっしゃらないで戴きたい」
 安富は激しい口調で云う、が、
「本当の話じゃねェか」
 孤立無援の箱館府に、この先などと云うものはない。ここで敗れればそれまでなのだ。
「それにしても」
 安富は、厳しい表情を崩さなかった。
「先生のお立場でおっしゃることではありません」
「わかってるさ。おめェが相手だからこそ云うんだよ」
「できれば、私の前でもお控え戴きたいものですね」
「そしたら俺ァ、誰に愚痴りゃあいいんだよ」
「そっと胸の裡にお収め戴くのが宜しいのです」
「は!」
 云われちまった、と頭を掻けば、安富は苦々しげな表情で押し黙った。
 総裁と副総裁への報告は簡単なものだった。
「いや、よく頑張ってくれたね、土方君!」
 榎本は、いつものように満面の笑みでそうねぎらってきた。
 対する松平太郎は、こちらも相変わらずの渋面だ。
「申し訳ない、踏み止まることがかないませぬで……」
「何、あのまま残れば挟撃されて、全滅するばかりだっただろう。君は、兵を戻して、来るべき決戦に備えてくれたのだ、何を云うことがあるだろうか」
「そうおっしゃって戴けますと、私も安堵致します」
 頭を下げる歳三に、流石の松平も厭味を投げかけてはこなかった。まぁ、大敗して戻った大鳥とは違い、歳三はともかく敗北はしなかったのだから、厭味を云われる筋合いはないはずなのだ。
 それに、幕軍はもはや、ここ箱館を戦場にするより他になくなっている。せめて無様を晒さぬようにと望むなら、使える兵卒は多いほど良いはずだ。そして、それを指揮する将官も。
「ともかくも、今日のところはゆるりと休んでくれたまえ。今後のことについては、また改めて相談したい」
「わかりました」
 そう応えて一礼し、二人の前を辞す。
 せっかくなので、弁天台場に顔を出し、いつもの丁サにでも逗留するかと思いながら、玄関へ向かって歩いてゆく。
 と、士官が数名、こちらへ歩いてくるのと行きあった。徽章を見れば遊撃隊隊士のようだ。
 そう云えば、遊撃隊は木古内方面へ出撃していたのだった。そちらで大敗を喫したために、歳三たち二股口守備隊も撤退を余儀なくされたのだった。
 ――伊庭の野郎ァ、さぞかし凹んでやがるんだろうなァ。
 負けず嫌いのあの男のことだ、もちろん、そうと顔に出すことなどあるまいが。
「おい、君」
 歳三が声をかけると、遊撃隊隊士たちは訝しげに足を止め、相手が誰であるかを認めると、慌てて姿勢をただしてきた。
「これは奉行」
堅苦しい挨拶はいい。君たちは遊撃隊のものだな?」
「はい、さようです」
「訊ねるが、隊長の伊庭はどこに?」
 問いかけると、かれらは困惑したように顔を見合わせた。
 やがて、中では年嵩のものが、ゆっくりと口を開いた。
「伊庭隊長は、木古内で負傷致しまして、今は箱館病院で療養致しております」
箱館病院に?」
 大鳥率いる陸軍本体が五稜郭へ撤退してきたのは、二股口守備隊のそれより幾日か早かったはずだ。もしもその日から今日までを、病院で療養していると云うのなら――伊庭の怪我は、かなり悪いと云うことになる。
「ひどく悪いのか」
 そう問いかけると、相手は力なく首を振った。
「凌雲先生も、手の施しようがないと」
「何」
 高松医師がそう云ったとなれば、伊庭はもう絶望的と云うことだ。
「伊庭は箱館病院なんだな?」
「は、はい」
「そうか……」
 であれば、伊庭はおそらく、最後の戦いで散ることもできず、畳の上で死を待つことになるのだろう。それは、恰好をつけたがるあの男にとって、どれほどの屈辱であるのだろうか。
 考えこんでいた歳三は、遊撃隊隊士たちが、言葉を待つように佇んでいることにややあって気がついた。
「あ、ああ、呼び止めてすまなかったな。お蔭で状況がわかった、助かったよ」
「宜しゅうございますか」
「ああ、世話ァかけた」
「いえ。それでは、これにて」
 そう云って、かれらは一礼し、その場を立ち去っていった。
 歳三も再び歩き出しながら、頭の中では伊庭のことを考えていた。
 伊庭は再び戦場に立つことは適うまい。となれば、下手をすると、歳三はかれと顔を合わせることもないままに、死ぬことになるかも知れないのだ。
 その前に、一度は顔を合わせておきたかった。とは云え、宮古湾海戦直前の伊庭の態度を思えば、向こうは顔を見たくもないのかも知れなかったが。
 五稜郭を出て、箱館市中に向かう。箱館病院は、一本木関門を過ぎて少し行ったところにある。弁天台場へ行く前に、少し寄り道するくらいのものだ、大した手間でもない。
 おりたばかりの愛馬の背に再びまたがって、歳三は、箱館市中へと続く道を行った。
 いつもは五稜郭から千代ヶ岱陣屋の脇を抜け、まっすぐ箱館奉行所へと続く道を行くのだが、箱館病院へ寄っていくとなると、大森方面に抜けなくてはならない。
 箱館病院は、傷病者でごった返していた。大鳥率いる本隊の兵卒で、負傷したものがどっと運びこまれたのだろう。玄関に立っただけでも、院内のざわめきや傷病者の呻き声が聞き取れるような気がした。
 看護人たちがせわしなく行きかっている、それに、歳三は声をかけた。
「すまないが、良いか」
 相手は怪訝そうな、そして若干の苛立ちを含んだ顔で振り返った。が、こちらが何ものであるかに気がつくと、面を改め、頭を下げてきた。
「これは奉行」
「ああ、構わん。教えてくれ、遊撃隊の伊庭が、こちらに入っていると聞いたのだが」
「伊庭先生ですか……」
 男は、その名を聞くなり、痛ましげに眉を寄せた。
「悪いと聞いたが、会えぬほどか」
「いえ……むしろ、今お越し戴いて良うございました」
そう云うと、男は歳三を促して、伊庭の病室へと案内してくれた。
 廊下から見える病室の中には、包帯で巻かれ、呻きを上げる傷病兵たちの姿がある。血のにおい、膿のにおい、そしてその中に、かすかに死臭めいたものが混じりこんでいる。
 軽傷者は、簡単な治療を施されると、すぐさま隊に戻されているようだったから、つまり、今ここに入院しているものたちは、病人と重傷者、それから、明日をも知れぬ重篤な傷病者のみと云うことになるだろう。
 そのせいでもあるのだろうか、院内のものたちの表情は一様に暗く、一足先に白旗を上げてしまったかのようであった。
 と、
「――こちらです」
 そう云って、男が奥まった一室の襖を引いた。
 途端に、強い血臭が漂ってくる。そして、それに混じって、かそやかな死のにおいも。
 案内してくれた男に頭を下げ、室内に入りこんでその枕元に坐る。
 布団から出ている伊庭の顔は青白く、生気も薄い。なるほど、確かに手の施しようがないようだ。
 眠る顔をよく見ようと、わずかに腰を浮かせた時。背後で襖の閉まる気配があった。
 そして――それにつられたかのように、伊庭がゆっくりとその瞼を開いたのだ。



† † † † †



はい、久々(前回の日付見たら、2012年10月6日になってた……)の『北辺』でございます。
箱館帰ってきたよ。



えー、年末に本気出したのですが、箸棒だったっぽいので、悔しいからさくさくUP。いや、そうでなくてもUPはするつもりでしたが。
何かこう、どっか拾ってくんねぇかなーと云うね――まぁ自費系は御免ですが。
本屋として、自費系の“全国の書店で!”の裏は見てる(それ用の棚があるが、まぁ目につきませんわな)し、ああ云うのって結局、版元が損しないように、書き手が持ち出しを迫られる(結構な額――100万出すくらいなら、薄い本にしたりとかした方がよくね?)ので、基本的には信用してません。
つか、それ系の編集だか営業、書店のビルん中のファストフード店とかでお客と打ち合わせすんのはお止め。商談の中身が耳に入って、何かもう切ないっつーかいたたまれないっつーか、そんな感じになったことがありますのでね。詐欺まがいだよホント。
そう云うので本出されるつもりのある方は、過剰に夢を見ないようお勧めいたしますわ。



さて。
そんなわけで、この話ももうじきオシマイです。あと5章!
ってことは、結局73で終了と云うことですね。
でもまぁ、実際の文字数は、意外にそんなでもなかった……最近は、1章7〜8000文字くらいで書いてるので、初期の1章3000文字ってのが短く感じます。
箱館戦争絡みは(前に出した薄い本とかで)大体網羅したかな、と思うので、とりあえずこれがUPし終わったら、没後500年に向けて先生の話を、ってのと、止めてる四郎たんの話を書きたいですね。
まぁ、ぴくしぶにもってかれたり何だりしてますが……
がががんばろう。



ってなわけで、次も鬼の話です。
伊庭とごたいめーん。うちの伊庭は可愛げがないんですけどね……