北辺の星辰 69

「――おやおや珍しい。奉行御自ら、わざわざのお運びたァ」
 伊庭の声は、かすれてはいたものの、昔どおりの気の強さを思わせるものだった。
「昨日まで二股口でな。今日になって帰参したんだ」
 応えながら、歳三は、改めて旧友の顔をまじまじと見た。
 痩せた、わけではないが、ひどく窶れたようだった。発熱しているのだろう、美貌を謳われたその顔は紅潮し、瞳もぼんやりと潤んでいる。萎れた花のようなその様を、だが美しいとは思えなかった――それにしては、あまりにも面窶れし過ぎていたからだ。
 浅い息遣い、滲む汗、口を聞くのも怠そうな。
「おめェはいつ……」
「おいらが引き上げてきたのァ、二十二日のことさ」
 唇を歪めて、伊庭は云った。
「二十日の木古内の戦で、鉛玉ァくらっちまってねィ。いよいよ死ぬかと思ったってェのに、どうしたもんだか生き延びちまった。小太さんは、先に逝っちまったってェのにさぁ……」
 “小太”と云うのは、親しかったと云う本山小太郎のことだろうと察せられた。歳三は、一度簡単に顔を合わせただけだったが、中々気の良い男であったように記憶している。
 どう慰めるべきかわからずに、そっと話題を逸らしてみる。
「……随分悪いのか」
「良かァねェねィ、弾が入ったまんまだもの。だけど、抜いたら死ぬってんだから、それくらいなら、弾ァ残したまんまででも、南軍の連中に一太刀でも浴びせてやった方が、おいらの気も晴れるってもんさァ」
「……そうか」
 弾を抜けば死ぬと云うのなら、どんな名医でも手の施しようはあるまい。
 それならば、この伊庭のことだ、最後に敵に斬りこみでもして死にたい、とでも云い放ったのだろう。
「――そう云うあんたァ、どうなんだィ」
「あ?」
箱館府ァもうおしめェなんだろ。あんたァどうするつもりなんでィ、え、奉行?」
「……どうもこうも」
 何と答えたものかと思案しながら、歳三は肩をすくめた。
「俺ァ陸軍奉行並だ、釜さんや大鳥さんの云うに従うのみ、さ」
「嘘云いなよ」
 伊庭は、苦しい汗を滲ませながらも、にやりと笑ってきた。
「あんたがそんな、可愛いタマかィ。侍髷結ってやがった、バラガキのトシさんがよ」
「――懐かしいな」
 歳三は思わず笑った。
 伊庭と出逢ったころ――つまりは十五、六年も昔――には、ただの農民の子でしかなかった歳三は、試衛館のものたちや、伊庭などの遊び仲間に合わせるために、侍髷を結い、大小を腰に差して街中を歩いていたものだった。
 もちろん、多摩あたりの代官にでもばれれば大変なことになっただろうが――そのあたりは、多分にお目こぼしを頂戴していたような気がする。まぁ、咎めだてされたところで聞いたとも思われなかったし、それをよくわかってお目こぼし戴いていたのだろうけれど。
 伊庭は、そんな歳三を見て、“よくまぁそんなことおやりだねィ”などと、半ば呆れたように笑っていたものだった。
 そんな昔のことを引き合いに出されたことで、箱館で再会した時の、何とも云い難い距離が、ほんの少しだが縮まったような気がした。
「それでも俺ァ、全軍の上に立つような器じゃあねェよ」
「多摩の百姓の子が、陸軍奉行並にまで成り上がっといて、何云いやがるんでィ」
「おめェにそう云うことを云われると、面映ゆくてならねェぜ」
「はン」
 伊庭はかるく笑った。その拍子に傷が痛んだものか、小さく咳きこむ。
「おい、大丈夫か」
「……なァに、大したこたァねェよ」
 けほり、とひとつ咳をして、にっと笑う。
「ところで歳さんよ」
「何でェ」
「あんたァ、江戸を出る時に、勝安房から何ぞ申し含められたんだろィ? そいつァ、何なんでィ、おいらに教えてくんなよ」
 伊庭の言葉に、歳三の心臓は大きく脈打った。
 勝安房――勝海舟の申し含め。
 ――幕軍脱走兵を率いて江戸を脱し、そして……
 そして、北へと転戦し、時が来たれば幕軍を敗北させ、歳三もともに死ねと。
 江戸を、徳川家を守ることこそ大事と、それこそが百万の民草を救うのだと、信じて命じてきた勝の顔を思い出す。大の虫を生かすために小の虫を殺すことも厭わない、その心根に惚れこんで、歳三は頷き、この北辺の地まで転戦を重ねてきたのだ。
 ――どうぞ、存分にお使い下さいませ。
 勝の言葉に、そう応えて。
 だがそのことを、伊庭が知っていようはずはない。歳三が勝と会った去年の四月四日には、伊庭は寛永寺にて、謹慎中の将軍慶喜の警護にあたっていたはずだからだ。
 勝が、余人に歳三への密命を話して聞かせたとは思われないが――しかし、あの勝のことだ、思わせぶりなことを云って、南軍との交渉を有利に進めようとするようなことがなかったとは云い切れぬ。
 その話がひとり歩きして、めぐりめぐって伊庭の耳に入った、と云うのは、いかにもありそうな話ではあった。
「……俺ァ単に、戦をやるなら江戸の外でやれと、そう申しつけられただけさ」
 肩をすくめて云ってやると、伊庭は鋭く目を光らせた。
「それ以上のこたァなかったってェのかィ?」
「あんお人の考えを聞いたなァ、江戸の町をどう守るかってェことだけだ。おめェもよくわかってんだろうが」
「だが、相手はあの勝だ、そんなもんだなんて信じられるかィ」
 と云う伊庭は、よほど勝に対して不信感を持っているようだ。
「……どのみち、俺ァ投降したって斬首刑だ、そんならいくさ場で散ってやりてェって思うのァ、道理じゃねェのか?」
 新撰組局長だった近藤は、流山で別れた後で捕縛され、武士としては扱われず、一揆の領袖のごとくに扱われ、斬首されてその首を晒されたことは記憶に新しい。
 新撰組は、京の町で、不逞浪士どもから“壬生狼”などと呼ばれて忌み嫌われていた。主に長州や土佐のものの、かれらに対する恨みは深く、それ故の近藤の斬首であろうとは知れていたが――捕らえられれば、それが己の身にも降りかかってくるだろうことは、想像に難くなかった。
 伊庭はふっと笑った。力ない笑いだった。
「歳さんはいいねェ。おいらなんざァ、もう、臥して死を待つのみ、さ」
「そんなこたァ……」
「あるんだよ、わかってるんだろィ?」
 伊庭の言葉に、歳三は沈黙するよりなかった。
 高松凌雲医師に“手の施しようがない”と云われたのならば、確かに伊庭は、臥して死を待つのみであるのだろう。出撃もできず、ただ横臥して、迫りくる緩慢な死を待つ日々。それが、この男にとってどれだけ悔しいことであるのか。
「おいらァ、もう駄目さァ。だが、そいつァいいんだ、わかってることだからねィ。ただ、この戦が終わった後に、生き残っちまうのは厭だねィ」
 淋しい声。
 だが確かに、起き上がることすら厳しい伊庭は、流れ弾にあたることも期待できないのだ。もしも降伏――今すぐではないにせよ、いずれ箱館府はそうせざるを得ない――するまで生命ながらえるようなことになれば、どうすることもできぬまま、虜囚の辱めを受けることになるだろう。
「伊庭……」
「ま、それまで生きてられるとも限らねェんだがねィ」
 笑って、またけほりと咳きこむ。
「ま、あんたァどんどんやって、せいぜい南軍の奴らをきりきり舞いさしてくんな。そしたらおいらの気も晴れるってもんさァ」
「ああ、もちろんだ」
 実際、木古内で敗れたとは云え、幕軍の士気は底を打っているわけでもない。彰義隊や神木隊などの兵卒には、もはやこれまでと箱館府に見切りをつけて、隊を脱走するものもあると聞くが、陸軍の中核をなす諸隊からは、そこまでの話は聞こえていないのだ。士気は、完全には下がり切ってはいない。
 歳三のやるべきは、残っているものたちの士気を上げられるだけ上げて、その後に、己の死によって底まで落とすこと――それだけだ。
「……何ぞ、悪ィこと考えてるねィ、奉行?」
 伊庭の声に、はっと我に返る。
「い、いや、そんなこたァねェよ」
「嘘云いなよ、今のァ悪ィ顔だったよ、いかにも狐ってェ、ね」
「狐顔は元からだ!」
 思わず怒鳴ると、笑い声が返された。
 が、それはすぐに苦しげな咳に変わる。
「伊庭」
「……ッ、はは、情けねェ、この様ったら」
 けほっと咳きこみ、口許を拭う。痩せ我慢とわかる笑みが刻まれた。
「無理するな」
「なァに、どうしたって死ぬんならさ……恰好のひとつもつけてェじゃねェかィ」
 その言葉に、歳三は何と返したものかわからなかった。
 沈黙する歳三に、伊庭はにぃっと唇の端をつり上げた。
「そんな面ァすんねィ。あんたァ、悪狐の歳さんでいるのが一番さァ。何だか知らねェが、思うさまやりゃあいいじゃねェか」
 そう云われれば、歳三に云うべき言葉などありはしなかった。
「……また来る」
 そう云い置いて、立ち上がる。
「しけた面ァしてんじゃねェよ、奉行」
 部屋を出る歳三の背中に、伊庭のそんな声が投げかけられた。


† † † † †


『北辺』続き。伊庭の回。



うちの伊庭は、まァこんなカンジ。
って云うか、伊庭、こんな喋らせ方してたっけか……
勝さんは、まぁこだわりがと云うか、子母澤寛の書く感じで書いてるので結構やわらかめ(「〜かィ」→「〜かえ」とか)な仕上がりなんですけど、伊庭は真選組風味になってんな……実際に聞いた感じだと、真選組風味の方がそれっぽい(あ、江戸言葉がです)んだそうですが。まぁ、勝さんは勝好きとして! 子母澤寛がバイブルなので! (と云っても『父子鷹』『おとこ鷹』の方ですけどね――小吉パパ大好き!) こんな感じで行きたいと思います。っても、勝さんの出番ないんだけどね……



とりあえず話を書くことについては、うん、まぁ気分はアレなんですけども。
最近云われて川端康成を読んでます。まだそんなに読んでないんですが(『雪国』と『掌の小説』くらい)、流石ノーベル賞作家って云うか、凄い文章力だ! 知人のシロ(仮)の云うとおり、日本人作家最高の文章力ですね! 引き込まれるし、情景もはっきり浮かびます!
個人的には日本の文豪は芥川龍之介、だったのですが、間違ってた、川端康成も入れておきます! ……まぁ、構成はやっぱ芥川の方が上だとは思いますがね(苦笑)。
芥川の構成力と川端の文章力と司馬遼の資料の折りこみ方と、D.フランシスの冒頭とラストがあれば、もっとすごいものが書けるんだろうけどなァ……実際自分に書けるのは、頑張ってもオッさんくらいだもんな。頑張りたいです……
しかし川端康成って、ホントに最近の人なんですね、いや、亡くなったのは1972年だから、最近って云うほど最近でもないですが。でも、ホントに最近の人の本でもすぐ流通しなくなることを考えると、まだまだ流通しててありがたいですよ。芥川もそうですけど。
そう云えば、芥川と川端って、7つしか歳が離れてないんですよね。年表見ると交流がなかったわけでもないみたい(関東大震災後、川端が今東光と、芥川を見舞った記録あり)だし、ちょっと楽しいです。Dが第一回の芥川賞を取り損ねた時に、川端康成と論戦みたいになったそうなので、それも含めてちょっとによによ……(Dは好かぬ) 何かに昇華できたらいいなぁ……まぁ、文豪ナントカは難しいんですがね。



さてさて、次も鬼の話。
中島さん中島さん中島さん! (←え)