北辺の星辰 23

 急ぎ足で己の部屋へ戻り、襖を閉め切り。
 歳三は、へたりと坐りこむと、懐からミツからの書状を取り出し、再びそれを読み返した。
 ミツの文は、ひどく簡潔に書かれていた。
 総司が五月の末に息を引き取ったこと、刀を抱いて縁に這い出ていたと云うこと、最後まで、近藤刑死の件は知らずに逝ったということ――
 おそらくは、ミツも伝聞で総司の死に際を知ったのだろう。庄内がかの女の居所であれば、ミツ自身が弟を看取ってやれたはずはない。大方、勝からつけられていたあの老婆が、総司の死に際を、ミツに文で知らせてやったのだろう。それ故の、この簡潔な書状であるに違いない。
 くしゃり、と、手の中で書状が握り潰された。
 潰れたその紙の上に、ぽたりと滴が落ちる。ぽたり、ぽたりと、絶え間なく。
 ――総司……
 遂に、自分はあの男まで失ったのか。
 歳三は、瞬きもせずに涙を流していた。
 もちろん、総司が長くはないことは知っていた。知ってはいたが、しかしそれは、理解からはほど遠い“知る”であって――本当は、心のどこかで、総司はまだまだ生き続けるのだと思っていたのだろう。無邪気なまでに、あの男はまだ死にはしないのだと。
 だが、この書状が、歳三の愚かしい希望を打ち砕いた。
 総司は死んだ、もう決してかれが追いついてくることはない。今生で見えることは、もはや決してあり得ないのだ。
 これで独りになった、と歳三は感じた。
 自分は独りきりだ、これからは誰も、何ものも、自分と何かをわかち合うものなどないのだ。
 歳三は改めて、どれほど己が総司に頼っていたのかを噛みしめていた。
 あの男の、すこしばかり邪気を含んだ笑みと、かるい無駄口、時折背を、肩を、叩いてくる大きな手――井上源三郎とはまた違うかたちで、自分はかれに頼って生きてきた。
 総司は、自分と同じ考え方の持ち主と云うわけではなかったが、そう、譬えて云うなら、かれは歳三と背中合わせに立つものだったのだろう。まなざしを向ける先も、そこへ至る方法も違っているにも拘らず、かれらはちょうど、互いを鏡映しにしたようによく似ていたのだ――かつて歳三の詠んだ「さしむかふ こころは清き 水鏡」のとおり、総司は清い鏡のような心の持ち主だった。
 総司のその鏡は、歳三を映して、かれ自身に見せつけてくるものだった。それは、決して心地よいものばかりを映すわけではなかったが――歳三にはなくてはならない鏡だったのだ。
 だが、今その鏡は砕け、己を映すものはなくなった。それでどうして、これからの己の所業が正しいかどうかを見極めてゆけばよいのだろう?
 あの男の代わりなど、どこにもない。
 無論、誰しも他人の代わりになることなどできはしないのだが――それにしても、総司の穴を埋め得る人間など、存在するとは思えなかった。そのためのともにある歳月を、もはや歳三が持ち得ることはなかったからだ。
 ――……いや……いっそ好都合だ。
 唇を噛みしめながら、歳三は、そのように考えようとした。
 奥州同盟が成らぬとなれば、歳三に残された使命は、幕軍を敗北させ、同時に己が死ぬことなのだ。
 そんな時に、己が心を残すような相手など――あれば、未練が募るだけではないか。
 だが。
 頬を濡らす涙は、一向に止まる気配もないままで。
 ――総司……
 歳三は、握り潰した文に涙を吸わせ、ただ俯いて肩を震わせた。



 ともかくも、このまま仙台にあり続けることはできなかった。
 仙台が薩長に恭順を示すなら、かれらにとっては幕軍の存在は邪魔以外ではあり得ないし、幕軍側も、このまま駐留していても、何も得るものはないのだ。互いのために、かれらは早々に身の振り方を決めなければならなかった。
「やはり、蝦夷地が良いでしょう」
 榎本は熱心に云ったが、北辺の地への渡航は課題も多く、すんなりと決まるとも思われなかった。
 まずもって、現在の幕軍の規模では、榎本率いる幕府艦隊の軍艦に収容することが難しいのだ。できれば三分の一、せめて半分に員数を抑えなくては、渡航は困難になることが予想されていた。
 また、渡航がかなったとして、初めての土地である蝦夷で、どこを足掛かりにしてかの地を徳川のものとなさしめるのか、そのための費用を、どこからどう捻出するのか――誰も、その答えを知らなかったのだ。
「正直に云って、私はやはり、蝦夷地行きには反対だ」
 松平太郎は、眉間にしわを寄せて、そう唱えた。
「ともかく、我々は北の寒さにあまりにも不慣れだ。渡航しようにも、充分な資金はなし、しかも行った先で落ち着くことができるかも知れないでは、兵たちも不安に思おう。かれらが不平を唱えた時に、いったい我々にどのようなことができると云うのだ?」
 松平は、江戸を抜ける折、かなりの軍資金を持ち出してきたと聞いていた。
 居合わせたものがそのことを問うと、かれは眉根を強く寄せた。
「たかだか数万両が、一体どれほどのものだと思うのだね? それしきの金など、蝦夷地へ渡航するだけできれいになくなるだろう。――金も何も、無尽蔵にあるわけではない。それでどうして、そのような無謀な挙に出られると云うのだね」
「だが、そうしなければ、我々には往くあてすらないのですよ」
 榎本は、宥めるようにそう云った。
「私とて、あなたのおっしゃるようなことどもを考えなかったわけではないのです。――ですが、どのみち、すべての将兵渡航させ得るわけではないのですし、ここはひとつ、離脱を希望するものはここで降伏させて、渡航したいものだけを率いてゆくと云うことにすれば……」
「それで、蝦夷地制圧に必要な数の将兵を確保できなかったなら、如何なさるおつもりなのですか!」
「それは、募ってみなくてはわかりますまい!」
「まぁまぁ、御二方とも、そう激されても仕方ありますまい」
 そう云って口を挟んできたのは、確か、荒井郁之助と紹介された男だった。丸い顔と生え上がった額、よく動く眼は邪気のないものだったが、どうにも軽さばかりの目立つ風貌だ。しかも、それが榎本のような軽さ――腰の低さや行動の速さ――であるならいいのだが、歳三の見たところ、かれの“軽さ”は、能天気さに通じるようなそれであって。
蝦夷地に開かれた箱館とやら云う港は、異国の民で賑わっていると聞き及びます。蝦夷は確かに地の果てでございましょうが、そうして異国に開かれた港がある以上、そこからの上納で、金策などどのようにでもなりましょうに」
 どう見ても、榎本と松平の口論に口を挟んだことも、深い考えあってのこととは思われなかった。
 案の定、
「馬鹿なことを云うな!」
 松平は激して云った。
箱館は、確かにこれまでは天領だったが、上様ご転封とおなりあそばした上は、必ずや薩長のものとなるだろう。それを我らが私するとなれば、薩長のみならず、その後ろにおわします帝をも向こうにまわすこととなるが、果たして貴殿にその覚悟はおありか!」
 かれの語気の強さに、荒井は鼻白んだようだった。
「……そのようにむきになられずとも」
 眉をひそめるが、松平の怒りはおさまらぬ様子だった。
「貴殿のような考えでは、我々の先行きなど知れたもの。いっそ、会津にて、薩長の輩と派手に一戦交えるが良いのではござらぬか」
 皮肉なもの云いに、流石に荒井が、何かを云い返そうと口を開きかけ――
「いい加減になされよ」
 それを押しとどめたのは、先刻から沈黙を守っていた永井玄蕃――元大目付、かつて、近藤らを伴って、長州へと出向いたこともある――であった。
 永井は、松平、荒井双方の顔を見やり、やや厳しい口調でふたりの諍いをたしなめた。
「今や、そのような些事で争っている場合ではあるまいに――松平殿、確かに荒井殿の申し様は軽はずみなところもござろうが、しかしながら、いつまでも仙台に逗留し続けるわけには参らぬのも、また確かなこと。貴殿の懸念は御尤もなれど、ここは幕府艦隊並びに陸軍のすべてのもののことも考慮にお入れ下され」
 永井のこのもの云いに、荒井はやや気分を害した様子だった。
 しかし、老中に次ぐ大役でもあり、また年齢も遙かに上の永井の言葉には、流石にあからさまな不快感を示すわけにもゆかぬものと見えて、かれは不承不承な様子ながらも黙りこんだ。
 松平はと云えば、
「……御尤もでございます」
 そう云いながら頭を垂れる、その表情は硬いものだった。しかしながら、荒井ほどの不満は見えはしない。まずは、年長者である永井に礼を示したと云うところだろうか。
「それでは、皆様、蝦夷地行きは決定したと云うことで宜しゅうございますな?」
 松平が沈黙したところで、榎本は、にこやかにそう云ってきた。
 歳三には否やはなかったが、それは、他の人間もそうであるらしかった。と云うよりも、明確に反対意見を述べたのは、松平ただ一人であったのだが。
 その松平にしても、蝦夷地行きの対案はと云うと、はっきりした答えがあるわけでもないようだった。
 それはそうだろう。もはや、幕軍には選択の余地などありはしないのだ。蝦夷地――あるいは、他の外地――へ往くか、あるいはここで降伏するか。二つにひとつなのだ。
 居並ぶ面々の顔を、榎本は満足げに見回し、頷いた。
「それでは、人員の削減については、もうすこし考えてのことと致しまして――」
 松平が、苦々しい顔になったが、榎本は、それに気づいてはいないようだった。
 卓上に並べられた切子の馬上杯に、異国のものだと云う赤い酒を注ぎまわし、皆に配ってよこした。
「まずは乾杯と参りましょう。……我々の未来に!」
 杯を掲げ、唱和し、赤い酒を干す。
 歳三も、皆に倣い、杯を空けたが――その酒は、まるで彼らのこの先を暗示するかのように、酷く渋い味わいで口の中を満たした。


† † † † †


鬼の北海行、続き。まだ総司死引っ張ってます。


えーと、うーんと、ちょっとこの辺、説明が難しいなァ……
総司が鬼にとってどんな存在だったのかって、こんなもんでわかって戴けたかしら……
つーか、前回の源さんが柄悪すぎ、ってご意見がありましたが、いや、むしろ鬼に素で「歳さん」とか云ってる(ってSSとか読んだことあります)方が私的には微妙。大体、源さんの兄さん=松五郎さんは八王子千人同心で、結構有力者なんだし、彦五郎さんちならともかく、鬼んとこじゃあ家格としては下だもん。第一、源さんが京都に行ったのだって、お目付け役的意味があったんだし、役職的には下でも、ある意味最強でしたって。
そうそう、総司も邪気ありますから。爽やかな邪気が(笑)。


そして、我田引水釜さん。こういうとこ、この人巧いんだよな、うやむやのうちに自分とこに流れ引っ張ってくるの。タロさんは下手だ――そういうとこが、後々の事業失敗とかで表れてくんだろうなァ。うむ。
しかし、釜さん+タロさんの云い争いが延びてるのはともかくとして、何で私は、中島さんより先に、荒井さんとか永井さんとかを書いてるんだろうか――しかし、話の成り行き上、と云うか、この辺のあれこれを以下略するともれなくこうなっちゃうんだけども……
つーか、蝦夷新政府好きの方々には申し訳ないのですが、はっきりきっぱりこいつら烏合の衆です。しかも、タロさん以外はみんな、考えも甘いんだ。本当に、どうしてくれよう。
まァ、これじゃあ勝てるわけないよね、と云うことを、今さらながらに痛感しているわけですけれども。


でもって、日野に行ってきましたよ。
本陣→池田屋高幡不動→石田寺と云う散策ルートでした――本陣、我々二人しか見学者おりませんでしたが、こないだの日曜は多かったそうですよ(受付の方談)。
とりあえずまたりとして、かるく説明を受け(しかし、あの建物は、完成が文久三年だよね? 前回は、そこまで説明されなかったし)、彦五郎さんの日記を買って日野本陣を後に。
用水路の脇の道をたらりと歩き、幕末飯屋で腹ごしらえ(私=観柳斎、沖田番=源さん)&一杯ひっかけ(私=八海山、沖田番=久保田……昼間っから……女じゃねェよ/汗)た後、高幡不動へお参り、石田寺の御神木の下でまたり(←墓参りは? ←してません)。
暮れてきたので万願寺から立川経由で中野へ。今日は中華。
と云う散歩道でした。
いろいろ愉快なネタが出てきたので、その辺は休日編+今後の阿呆話で。今日は新撰組関連書籍をいろいろ(日記2冊+歴史読本2冊+『鴨川物語』)GETしたので、そのうちネタ回収も致しますよ。


そして、こんなところで何ですが、やっぱり石 原 良 純の桂さん(「鞍馬天狗」)には納得がいかん……(2回目も見た)
かっちゃん=緒 方 直 人の方が善いもんっぽく、そう云ったらば沖田番に「鞍馬天狗はダークヒーローなんだよ!」と力説された――そうかなァ。白馬に乗ってるけどなァ。
しかしまァ、嫌・石原に関連して、今回の歴史読本が“幕末人の肖像”なので、桂さんの写真もりもりあるのをいいことに、売場の子たちに力説してた私は阿呆ですか。
あと、勝さんと中島(三郎助)さん、大久保一翁さんの写真も見せて、「カッコいいでしょ!」と云ってます……それもどうよ……(でもカッコいいじゃん、あと、会津の山川さんとか)
とか云ってたら、ばちがあたったのか、風邪が長引いた……! うっそ、褒めたのに! 酷ェや皆……(←お前が酷いよ) まァ、多分元もやしっ子なのが影響してるんだろうけども。(ちなみに現在の見た感じは、全然もやしっ子じゃありません、ふふ……)


えーと、とりあえずこの章終了で。
次――次は、もしかしたら山南役のバトンかも……