神さまの左手 25

 レオナルドは、いよいよ“馬”に手をつけはじめたようだった。
 “ようだった”と云うのは、例によって例のごとく、レオナルドの移り気が、“馬”ばかりにその注意を留めておかなかったからだ。
 もちろん、まったくほうりっ放しと云うわけではなかったのだが――元来彫刻が苦手なレオナルドだ、興味の方向が、そこから逸れがちになるのも、致し方のないところだろう。
「――は、いいんだけどさ、レオ」
 サライは云って、大きな背嚢を担ぎ上げた。
「何なんだよ、この大荷物。コモ湖に行くのに、こんなでかい荷物が要るんだよ?」
「要るだろう、銀筆やら木炭やら赤チョークやら画帳やら」
 レオナルドは、そんなことを云いながら、コモ湖周辺の観光案内をめくっている。
「って云うかさ」
 袋の中をがさがさとあさる。確かに、銀筆やら木炭やら赤チョークやら画帳やら――つまりはレオナルドの商売道具一式が詰めこまれている。それに携帯食糧と、着替えがすこし――お大尽でもあるまいし、これだって大層な荷造りであるには違いない。
「そもそも、何でコモ湖? “馬”には全然関係ないし、絵にだってそうだろ」
コモ湖の湖畔の風景が素晴らしいと、教えてくれた御仁があってな」
 レオナルドは、うきうきした様子で、自分の持っていく予定の鞄――それは、背嚢よりもずっと小ぶりだ――を引っ掻き回した。
「ミラノでは、コモ湖のあたりは保養地として有名だと聞いたのだ。それならば、一度行ってみるのも良いのではないかと思ってな」
「それだけかよ!」
 もっと深遠な理由があるのかと思っていたサライとしては、大変に肩透かしな返答だ。
 大体レオナルドは、この冬に行われるドイツ帝国皇帝マクシミリアンと、スフォルッツァ家のビアンカ・マリアとの結婚式において、“馬”の原型を披露するつもりだ、とか何とか云っていたのではなかったか?
 そうであれば、今この時期に、悠長にコモ湖などに行っている暇などあるまいに。
「気分転換がしたいのだ!」
 レオナルドは、そう云って、詰め込むつもりらしい絵筆を振り立ててきた。
「“馬”のことばかりにかかりっきりで、最近は、目を愉しませることができなかったのだ。すこしばかり羽を伸ばしたとて構うまい!」
 ――って、単に“馬”に厭きたんだろ。
 とは思ったが、賢明なサライは、もちろん口に出したりはしなかった。
 ――まぁ、そろそろ厭きてきて、別なことをやり出したがる時期ではあったんだけどな。
 大体において、レオナルドは厭きっぽいので有名なのだ。実際、傍にいるサライにしても、それを否定する材料が見当たらぬほど――だが、気が乗れば、おそろしいほどの集中力でものごとを成し遂げてしまう。だからこそ、人一倍ふらふらとしているレオナルドが、なんとか余人と伍して仕事を完遂する――まぁ、大分時間がかかることは否めないのだが――こともできるのだった。
 そう考えれば、そして今後のことを思えば、レオナルドが今のうちに息抜きをしておくのは、そう悪いことではない、ような気もしないでもない。
 ――お披露目直前になって、厭きて逃げ出されても困るしなぁ……
 そんなことになれば、ただでさえ納期が守れないと思われているレオナルドに、仕事を任せる人間などいなくなってしまうだろう。
 生活をレオナルドの収入に頼っているサライとしては、そんなおそろしいことは願い下げだったので、ここは、早め早めに手を打っておくことで、最悪の事態を回避しようと考えたのだった。
「……まぁ、いいけどさ」
 不承々々な顔を作ってやって、サライは溜息をついてみせた。
「“馬”だって、大体のかたちはできてるんだしね――仕上げだけなら、何とかなる、んだよな?」
 どのみち、サライが何を云おうとも、それで自分のやりたいことを断念するレオナルドではないのだ。それに、もしここでレオナルドが折れたとしても――そのあとでぐちぐちと云われたり、あるいは仕事の進みが遅くなったりしたら、それはそれで問題なのだし。
「当然だ! 私を何だと思っている!」
 レオナルドは胸を張るが、それをそのまま信用するほど、サライも愚かではなかった。
 何しろ、この大先生とともに暮らすようになってかれこれ三年だが、その間にレオナルドが約束の期日を守ったのは――人と会う、などと云う細々としたものは守るのだが――、片手で数えられるほどだったように記憶しているからだ。
 ――ま、でもイル・モーロの手前もあるだろうしな……
 今回ばかりは、レオナルドも死にもの狂いで期日を守るだろう。何しろ、ドイツ皇帝に対するイル・モーロの面目がかかっている――と云うことは、レオナルドの馘だってかかっているのだから。
「わかった、わかったよ」
 サライは手を振って――レオナルドには、「本当にわかっているのか!」と怒鳴られた――、今度は身の回りの品々を、別の背嚢に詰めはじめた。
 レオナルドの背嚢は、どうせ絵画に関するものばかりに決まっている。着替えや靴の替え、それに散策の時に必要な携帯食糧などは、自分が改めて詰めこんでおかなければ。
 ――まったく、こういうところの目端は、からっきしなんだから。
 とは云え、自分がレオナルドの生活のある部分を支えていると思うことは、やはり嬉しいことではあったのだが。
 そうとも、レオナルドなど、自分がいなければ、〆切も忘れ、持ち物も満足に揃えられず、大変なことになるに違いないのだ。それは、サライがいなかった頃には、かれとても自分ですべてを行っていたのだろうが、最近では、すっかり“駄目な先生”になり下がってしまっている。
 荷づくりを済ませ、カテリーナに留守中のあれこれを頼んでしまうと、レオナルドは、画材の入った背嚢を担ぎあげ、意気揚々と云った。
「さぁ、では行こうか、コモ湖へ!」
「うん!」
 何だかんだと云っても、サライには初めての場所である。心が浮き立たぬわけはないのだった。
 レオナルドに急かされるまでもなく、サライは大きな荷物を担ぎあげ、コモ湖へ向かう馬車に向かって、軽やかな足取りで駆け出した。


† † † † †


あけましておめでとうございます。
新撰組忘備録、4度目のお正月です――ってことは、今4年目だってことですね。ふふ、意外に続いてるもんだ……
本年もゆる更新ですが、宜しくお願い致します。


さて。
まさかの元日更新ですが、ルネサンス話の続き。
“馬”から逃亡して、コモ湖に行くと云い出す先生です――まったく、相変わらずなんだから。
と云うか、コモ湖なんか、行ったこともなければ資料もないよ! どうするんだ自分!
っつーかそれ以前に、サライじゃないけど、ホントに11月(にあったのです)の結婚式までに、ざっとでも原型が出来上がるのか? 先生、彫刻苦手なのに! ……まァ、私が頑張るしかないってことですね……
それよりコモ湖! どうすりゃいいんだ、マイガッ!


そうそう、こないだ発売されたPS3「アサシン・クリード2」、すごく気になってます。
だって、ちょうど先生がいた頃のフィレンツェサン・ジミニャーノなぞの街中を疾走できるんですよ! すごい!
それに、若かりし先生も、主人公の友人として出てくるみたいだしね! 雑誌の記事の中に、先生の設計したグライダーで空を飛ぶ主人公の画像があったりして、非常にときめきます。ふふふ……
ただ問題は、私、通常のアクションゲームはかなり苦手だと云うことか……「ベヨネッタ」だって出だしで止めてるってのに、それ以上に難しいんじゃないかと思われる(洋ゲーだしなァ……)「アサシン・クリード」を、ちゃんと攻略できるのだか……
とりあえず、結構ものがない上に、値段もお高めなので、ちょっと様子見で――中古が出回りはじめたら考えてみようっと。


そして、いよいよやってくるラファエッロ!
ペアチケットは入手済なので、早々に沖田番と行きたいですね。
まァラファエッロ本人はどうでもいいんだけど(ラファエッロよりは、やっぱみけらにょろでしょう!)、「一角獣を抱く貴婦人」はね……先生の絵が元ネタだから!
しかし、これはいよいよアイルワース版モナ・リザが見たくなってきた……フジテレビとか日テレとか、展覧会やってくれないかなァ……お台場何たらとかでも構わないから! そしたら、¥1,500-でも何でも行くよ!
あ、もちろん、ルーヴルのあれも見たいですけどね。っつーか、あっちはサライの模写(あるはず!)も見たいよなァ……


この項、終了。ちょい短いか……まァいいや。
次は阿呆話、こ、このネタしかあり得ねェ……!