北辺の星辰 54

「――蟠龍が来ないのです」
 海軍奉行・荒井郁之助は、いつもは能天気な笑みを浮かべるその顔を、不安げに歪めてそう云った。
「ただ単に遅れているだけなのではないのですか」
 山田港に入って、まだ半日しか経っていない。あの荒天で船団がばらばらになったのだ、集結の場を定めていたとは云え、そうそう簡単にたどり着くことができるわけでもあるまい――陸の上とは違う、そのあたりに道しるべがあるわけではないのだ。集結に多少の時間がかかるのは仕方がないと、海軍畑である荒井こそが、よくわかっているはずではなかったのか。
 あるいは、蟠龍は、嵐のために船体を損傷してしまったのかも知れない。そうなると――修復用の木材は積みこんであるはずだったが――、修復の上、航行可能になってからこちらへ向かってくる、と考えれば、それこそかるく半日くらいは時間差が出てきてしまうだろう。
 そう云う意味では、高雄は非常に運が良かったのだろう。嵐ではぐれたとは云え、山田港に入るまでにそう時間を食ったわけでもない。素人目にではあるが、見たところでは、航行にはまったく支障もない様子である。
 最悪、高雄の乗員のみで斬り込み、と云うことになるやも知れぬが、とりあえずは、蟠龍の到着を待ってみるのが定石と云うものだろう。
「ですが、甲鉄艦が北上してしまえば、この作戦そのものが水泡と帰すのですぞ!」
 荒井は、苛立たしげな身振りとともに、そのように云ってきた。
「我々に残された時間は、限られているのです。それが――蟠龍が来ないとなれば、作戦変更も考えねばならん、時間はそう多くはないのですよ!」
 だが、徒に騒ぎたてたとて、事態が好転するわけでもあるまい――とは思ったものの、もちろんそれを口に出したりはしない。皆、蟠龍の姿が見えないことで、苛立ちやすくなっている。そんな時に、口論の種をつくるほど、馬鹿々々しいことはない。黙って頷いておくに如くはないのだ。
 ――あるいは、海の藻屑と消えたのかも知れんしなァ……
 口には出さねど、皆の心の内にその不安があることは、歳三も良く承知していた。
 何しろ、昨夜の嵐はひどいものだった。船には強いはずの歳三も、眠ってしまっていなければ、船酔いになってしまったかもしれないほどだった。実際、回天乗組のものたちのなかにも、ひどい顔でよろめき歩んでいるものや、あるいはぐったりと倒れ伏しているものもある。
 よし蟠龍が無事であったとしても、乗組の遊撃隊隊士などは、使いものにならない状態なのではなかろうか。
 おそらく高雄乗組のものたちも同様であるだろうと考えれば、蟠龍を待つこの時間は、かれらの体調回復のためにも幸いであると思われた。
「……ともかくも、今日一日は待ってみてはいかがですか」
 歳三は、荒井を宥めるように、そう云ってみた。
「我々とても、蟠龍、高雄の二艦で攻撃するという考えでおりましたので――作戦変更となれば、またいろいろと協議せねばなりますまい、とりあえず、今日が明日になるくらいの、時間の余裕はあるのではございませんか」
 そうだ、それに、歳三たちがこの有様であれば、同じ海の上にあった甲鉄艦や薩長艦隊とても、その有様にさしたる違いがあるとは思えない。
 となれば、向こう方も、あの嵐によって被った損害を立て直すのに必死であるに違いない。
 幸い、こちらはさしたる被害もないのだから、すこしばかり蟠龍を待ち、その間に士気を高めていくなら、事態はむしろ良い方に転んだとすら云い得るのではないか。
 回天艦長の甲賀源吾は、荒井よりは落ち着いて、状況を的確に判断しようと努めているようだった。
 かれは、高雄乗組のものたちとよく今後について協議を重ね、また山田港の近隣の住民――それは漁師でもあったのだろうか――が何事かと船を寄せて問いただしてきた時にも、ニコールやコラッシュら仏人士官たちと協議の上、しかしかとした返答をしないよう気をつけたりしていた。
 以前から感じていたことだが、荒井よりも甲賀の方が、数段ものごとを運ぶ役には立つようだ。荒井が、蟠龍の不着に苛々とするばかりであるのとは、ひどく対照的に見える。
 甲賀は、停船中、甲板の端から端まで、歩き回り、乗組のものたちの仕事ぶりを見、時には細かく指示を出していた。
 いい男だ、と思う。
 些かならず愛想はないが、しかし、的確に仕事をし、またまわりにもそうさせている。荒井のように、理論家で口が巧いのとは違う、心底から船を愛し、またそこに乗り組むものたちを愛している様が、見ているばかりの歳三にも感じられる。
 甲賀のような男の下で働くものは幸福だろう――それは、回天乗組のものたちのきびきびとした足取りにも、はっきりと表れていた。
 しかし、こうなってみると、陸軍のものたちはまったくものの役には立たないようだ。むろん、船の上は海軍の独壇場であるのだし、陸軍には陸軍の役目があるのだが――こうして忙しく立ち働く海軍士官以下を目の当たりにすると、少々居心地の悪い気分になる。
 ――いやいや、我々の仕事はまた別にある。
 陸軍の仕事は、刀剣や銃器をとって戦うことだ。決して、船を動かすことではない。海軍が軍艦で敵を圧倒するように、陸軍には陸軍の戦い方がある。今度の作戦においても、歳三たちをいくさ場へ運んでくれるのは海軍だが、実際に突入し、甲鉄艦を占拠するのは、陸軍のものたちにかかっているのだ。
 ――ともかくも、蟠龍とおち合うことさえできれば。
 そうすれば、何もかもが動き出すのだ。
 だが――
 午後になり、陽が大きく傾いても、蟠龍は姿を現さなかった。いや、午後どころか、夕刻を過ぎ、あたりがすっかり夜闇のうちに沈んでも。
 荒井や甲賀をはじめとする面々は、夕食の後、回天の船室で会議を開いた。
「これ以上は待てません!」
 苛々と云ったのは、荒井郁之助。
「早くしないと、甲鉄艦がさらに北上してしまいます。明日朝一番に、宮古湾へ出港しなければ――さもないと、我々は甲鉄艦を手に入れるどころか、一気に喉元に刃をつきつけられるようなことにもなりかねませんぞ!」
 流石に、この時には、荒井の言葉に反論できるものはいなかった。
「――仕方ない、蟠龍は諦め、回天と高雄のみでの作戦決行と致しましょう。――ですが」
 甲賀は、そこで言葉を切り、一呼吸置いた。
「ぎりぎりまで蟠龍を待ってみたいのです。高雄のみの接舷攻撃は不安ですからな。……それ故、明日の昼まではここで蟠龍を待ち、その後、宮古湾へ向けて発したいと思いますが――皆様如何か」
 そう云って、歳三をはじめ、仏人士官たちや他の海軍組へ、了承を求めるまなざしを投げかけてくる。
 こうなっては、否も応もない。歳三とても、その案に頷かざるを得なかったのだが――
 しかし、蟠龍の脱落は、この先のかれらの作戦に、暗い影を投げかけているように思われてならなかった。



 ともあれ、翌二十四日昼過ぎまで、回天、高雄の二艦は、蟠龍の姿を求めて山田港に停泊し続けたのだが。
 蟠龍は遂に姿を現さず、午後二時ごろ、二艦は抜錨、宮古湾へと船首を向けたのだった。


† † † † †


鬼の北海行、続き。
おぅ、まるっと一カ月以上、この話に触ってなかったわ……


えーと、何とか鬼の話に戻ってこれたのは、村松友視の『土方歳三への旅』(PHP文庫)のお蔭。
っつーか、この本、全然幕末の本っぽくないよね――とにかく飲んだり食べたりヘンなこと考えたりしてる村松氏の姿を見て、何となーく幕末に帰ってこれました。
しかし、この本発行が1988年って……! っつーか、初出は1985年なのね……あら、私が最初に『燃えよ剣』読んだ頃だわ。あの当時は、司馬遼の魔法にかかってたので、鬼がひたすらカッコよく見えたものでしたが……ふふ、歳月って……


でもって、同時に読んでたのが講談社現代新書伊達政宗、最期の日々』。伊達の殿の最後の年の、一月から没日の五月二十四日までを、小姓の一人の覚書から探っていこうと云う本。
これが結構良かった、と云うか、最近伊達の殿って、戦国BSR絡みで何かもう食傷気味って感じだったのですが。
うん、この本の殿は、ちょっと立派に見えた。っつーか、死に対する覚悟が決まってるカンジ? ここまで周到に準備して死ぬってのも、かなり大変な話だなァ、とか思いながら読みました。うん、この(小姓の目から見た)殿はカッコイイ。
でも、これで気分が盛り上がったからと云って、『独眼龍政宗』のDVD見返すと、すっごい凹むんだよな、渡辺謙でもな……
でもまァ、いい機会だし、そろそろ東京大学出版会の『大日本古文書 家わけ三 伊達家文書三』は、買っておきたいよな、なくならないうちに……


ところで、再来年の大河、「平清盛」ですってね! 先取り! (笑)
ってことは――その次は、よもや御堂関白殿とかじゃああるめェな……?
最近、聖武天皇にも興味が出てる(この人、意外と策士なんじゃないのか)のですが、あの辺は先日「大仏開眼」やってたからにゃ……
あ、聖武天皇の皇子=安積親王やってた中村凛太郎に、再来年の大河の佐殿(子供時代)を……って、いくら平治の乱の時だって、あの子は少々若すぎるよな……


この項、終了。
次は久々源平話、(小説では)初の折り畳み記事です――御覚悟!