花がたみ 〜雪〜 四

「四郎叔父貴、己を得度させてくれそうな御坊をご存知ないか」
 やってくるなり、五郎は両手をついて、そのように切り出してきた。切羽詰まったような、すがるような声音であった。
「そ、それはいくつか知ってはおるが――お前、座はどうするつもりだ、兄者の許しは得てきているのか?」
 気にかけていたとは云うものの、ほとんど接することもなかったこの甥が、いきなり出家したい旨を云ってくるなどと――しかも、兄とは喧嘩別れの後である、許しなくして五郎を出家させたとなれば、怒鳴りこまれることも覚悟せねばなるまい。
 果たして、
「父者の許しなど必要ない。父者は、十郎さえおれば満足なのじゃ――出来の悪い己などがいのうなったとて、痛うも痒うも思われぬさ」
 前に見せた昏いまなざしで、五郎は床を睨みつけた。
「したが、お前とて、兄者の座の脇方では随一であろうが……」
 そうだ、醍醐清滝宮において、三郎の仕手、五郎の脇で演能したは、ほんの先年の話ではないか。あの時、自分は関東へ赴いていて、出ることはおろか、その場に居合わせることすらなかったのだが――五郎の後見についていた兄からは、三郎の舞の見事さと、五郎の成長を喜ぶ言葉とを、帰ってすぐに聞いたのだった。
 それ故に、兄は、仕手を十郎に、脇を五郎に任せて座を回してゆくつもりなのだろうと考えていたのだが――それが何故、五郎の出家などと云うことに繋がってくるのだろうか。
「――己は、もう厭なのじゃ」
 五郎は、膝の上で両の拳を握りしめた。
「父者は、明けても暮れても十郎ばかり、己や七郎次郎などは、ないも同然の扱いじゃ。己は――もう、あの家にいとうない、申楽者であることを続けたくはないのじゃ……!」
「それで出家すると云うか――だがそれでは、徒に逃げを打つばかり、と云うことになりはせぬのか」
 三郎とても、兄の家から逃げ出して、鄙の客たちの声援によって、何とか立ち直ってきた。
 五郎も、出家などと早まったことをせずに、たとえば自分の座に入るなどして、自らの地歩を固めてゆけばよいのではないか。そうすれば、もともと力のないものでもない、脇方の名手の誉れを、ほしいままにすることすらできるだろうに。
 だが。
「……叔父貴にはわからぬのじゃ」
 五郎は首を振るばかりだった。
「ああ、十郎は確かに凄い、父者が夢中になるのも、故なきことではない――己では、十郎に敵うべくもない、それは良うわかっておる。……だが、だからと云うて、妬心がわかぬと云うわけでもないのじゃ!」
 その唇が強く噛みしめられる。いろが白くなるほどに、血が滲むほどに。
「己は、もう厭なのじゃ、十郎が、父者が、申楽が――そう思うてしまう己自身が。己はもう、すべて捨ててしまいたい。家も、座も、十郎も父者も、申楽も――それを憎むおのれの心も捨て去って、心安らかになりたいのじゃ!!」
 それは、血を吐くような叫びであった。
「五郎……」
 もはや、かける言葉はみつかりはしなかった。
 五郎は、これほどまでに追いつめられていたのだ。十郎に、兄の無関心に、己自身の心の闇に。
 ――三郎従兄者は、もう戻られぬのですか。
 三郎の件で兄を訪ねていった時の、五郎の様子がまざまざと思い出される。十郎のことを口にした時の昏いまなざしと、三郎のことを問いかけてきた時の、取り残された子供のような面持ちと。
 だが、考えてみれば、五郎はかつて、三郎と引き較べられていたのだった。その三郎を、それでも頼みとせねばならぬほどに、それほどに、五郎にとっての兄の家とは、居処のない場であったのか。
 そうして今、さしてなついてもいなかった叔父である自分に、出家先のつてを訊ねるほど、逃げ出す先も、相談する相手も持ち得なかったと云うのか。
「――わかった」
 遂に頷くと、隣りにあった三郎が、驚いた顔でこちらを見たのがわかった。
「お前がそこまで云うのであれば、己とてもひと肌脱いでやらずばなるまいよ。――興福寺の別坊に、知った老師がある。一筆したためてやるほどに、それを持って老師を訪ねるが良いさ」
「……叔父貴!!」
 五郎は、ぱっと顔を輝かせるや、がばと手をつき、
「有難く……!!」
 感極まったように声をしぼり、深く深く頭を垂れた。
「――五郎」
 と、声を上げたは三郎だった。
「まこと、出家すると云うのか、申楽を、捨てるのか……?」
 一度落ちた底から這い上がってきた三郎には、五郎の選んだ道が承服し難いのかも知れなかった。
「まだ、お前は若いではないか。まだ、鄙や遠国を廻って精進を重ねれば、道が拓けるはずではないか。己と……己とともに、新しい観世四郎の座を担ってはくれまいか……」
「三郎従兄者、それはできぬ」
 五郎の声は、きっぱりとしていた。
「それでは、十郎が目の前から消えたとて、今度は従兄者が己の前に立ちはだかることになる――己はもう、そうして越えられぬ壁を見上げて、恨み辛みを呑み続けとうはない……悶えた挙句に従兄者を恨むようなことにはなりとうないのじゃ。すべてを捨てて御仏の御慈悲にすがり、妬み嫉む心を捨て去りたい。だが、叔父貴の座に入れば、己は間違いなく、従兄者を妬むことになるだろう。ともにあることはできぬのだ、従兄者」
「五郎……」
 引きとめる三郎の方が、今にも落涙せんばかりの顔になった。
 己も十郎と引き較べられたのだと云うことを思い出し、引きとめるとなればその苦悩を五郎に味わい続けさせることになるのだと、やっと思うに至ったのだろう。そしてまた、己自身も五郎の苦悩のもとであったのだと、改めて思い知らされもしたのだろう。
 そのような三郎をみやる五郎の方はと云えば、こちらはいっそ晴れやかな面持ちであった。
「従兄者、嘆かんで下され」
 五郎は、気遣いの滲む声で云って、三郎の肩にそっと触れた。
「己は、世を捨て申楽を捨てて、やっと自由に生きられるのじゃ。もう、従兄者を妬むことも恨むこともない――しがらみに足をとられて鬱々とすることものうなるのじゃ。……のう、従兄者、この愚かもののおとうとの首途を、言祝いで下されよ」
「五郎、五郎……」
 三郎は、面を掌で覆い隠してしまった。
 二人を、暫そっとしておいてやろう――そう思って席を立ち、隣室で硯箱を取り出す。
 墨を磨り、認めるは、興福寺別坊の老師への書状。五郎が無事に出家できるようにと、心づけの金子も包んでやる。あまり気にかけてやれなかった甥のために、せめてこれくらいのことは、叔父として、してやりたかったのだ。
 書状に封をし、宛名を書き入れ、元の部屋に戻る。
 三郎と五郎は、未だ手を握り合っていたものの、どちらも落ち着いた表情で、ぽつぽつと言葉をかわしていた。
「五郎」
 呼びかけると、甥ははっと顔を上げた。そのまなざしは穏やかで、来たばかりの時の激情は、すっかりなりを潜めてしまっていた。
 それへ、書き上げたばかりの書状を差し出す。
「これを。――興福寺別坊の潭信様にお渡しすれば、良いようにはからって下さるはずじゃ」
「――叔父貴、これは……」
 “書状”の重さに、内に同封したものに気づいたものと見えて、五郎が目を見開く。
 それへ、鷹揚な笑みを返してやる。
「なに、己にすがってきた甥のためよ、ひと肌脱いでやらずばなるまいと思うたまでのこと。……それに、そもそもそれは、親父殿の稼いだ金じゃ、となれば、親父殿の孫であるお前のために使うも、また親父殿の本意であろうと思うてな」
 そしてまた、ことここに至るまで、甥に何もしてやれなかった自分の罪滅ぼしのためにも。
 五郎は、“書状”を押し戴いて、はじめて落涙した。
「――まこと……まことに、かたじけなく……」
「良い、己とて、お前には何もしてやれなんだのだ、せめてこれくらいのことは、の」
「有難く……!」
 もう一度、深く頭を垂れて、“書状”を懐にしまう。
 そして、居ずまいを正し、再び深く礼をする。
「――では、これにて」
 立ち上がりかけた五郎に、
「待て」
 声をかけたは三郎であった。
「出家遁世する前に、己とひとさし舞うてはくれぬか。申楽者としての、最後の舞じゃ」
「従兄者……」
 五郎は、一瞬躊躇うそぶりであったが、やがて、力強く頷いた。
「何を舞う、お前の好きに致そうぞ」
「ならば……『二人静』の序の舞は如何か」
「おお、それは良い」
 『二人静』は、昔から伝わる古い演目で、吉野で菜摘みに出た女が、里女、実は静御前の霊、に供養を頼まれ、その旨を勝手神社の神職の前で語るうち、静御前の霊に憑かれてその身の上を語り、乞われるままに舞を舞う、と云う筋のものである。
 この曲を兄が改変し、静御前の現れたところからを、静と菜摘み女の相舞としたのだが――静御前である仕手と、菜摘み女の連れとの実力が伯仲して、なおかつ息がぴたりと合っていなくてはならぬと云う、大変な難曲なのだった。正直に云えば、自分と兄とで演じたとしても――先だっての諍いを措いたとしても――、巧く演じられるかどうか心許ない、それほどのものだったのだ。
 だが、幼いころよりともに過ごしてきた三郎と五郎であれば、多少の力量差はあるとしても、息はぴたりと合うに違いない。
 そしてまた、舞い終えてのち、静御前が往生する――すなわち、俗世と切れていくと云う筋の物語であればこそ、これから出家遁世する五郎にとっては、これ以上相応しい曲などありはしないのではないか。
「で、どちらが仕手じゃ、五郎は如何か」
「いえ、やはり仕手は従兄者が宜しかろうと」
「――そうか」
 あまり強く云うのも憚られて、簡単に頷く。
「で、面はどうする、装束は。いくら何でも、その姿で舞うと云うのは拙かろう」
 と云うと、ふたりは顔を見合わせた。
 三郎も五郎も、質素な苧麻の小袖と小袴、頭には折烏帽子をつけた姿である。まさか、そのままで鬘物である『二人静』を舞うわけにもゆくまい。
「いや、面をつけるほどは……」
 改まった装束で舞うつもりはないと、五郎は云う。
「最後の稽古のようなもの、わざわざそのような……」
「では、せめて長絹と静烏帽子だけでもつけてはどうじゃ」
「それは、何やら珍妙な恰好じゃな」
「己には相応しい恰好じゃろう」
「ふふ、それは己も同じことよな」
 五郎と三郎は顔を見合わせ、ふふと微笑をこぼし合った。
 ともあれ、簡単にとは云うものの、小鼓と笛、地謡は必要だ。
 地謡と脇方――勝手神社の神職の役――は自分がやるとしても、小鼓方と笛方は呼ばねばなるまい。
 それぞれに声をかけてやると、何と大鼓と地謡のものたちもやってきた。
 いずれも兄の座にいたことのあるものたちで、もちろん、五郎のことも子どものころから知っている。
「五郎殿が、これを最後に出家遁世されるとあっては、参じぬわけがありますまいよ」
 年配の小鼓方の男――小弥太はそう云って、鼓の胴をぽんと叩いた。
「儂も同じじゃ――坊、いやさ五郎殿、最後の舞の大鼓は、是非とも打たせてもらいまするぞ」
 老いたる大鼓方の男も、頷いて破顔する。
「小弥太、源次、皆……」
 声を震わせ、それだけを云う五郎の背を、かるく叩いて押し出してやる。
「さ、皆がこう云うておるのだ。――まこと、長絹と静烏帽子のみで構わぬのか?」
 問うと、ふたりは慌てて、きちんとした装束に着替えると云い出した。
 座のものたちに助けられながら、摺箔を着付け、長絹を羽織る。鬘と鬘帯をつけて静烏帽子を被り、若女の面をつける。差し出された中啓の扇を、袖の中の指が握る。
 やがて――
 板間には、瓜ふたつの“静御前”たちが、姿を現した。
「おお……」
 元より歳が近いこともあって、背格好もよく似たふたりではあったのだが――こうして同じ装束をつけてみると、まことに鏡映しのように似通っているのがわかる。
 このふたりの、このように揃った姿を見るのは、これが最後になってしまうのか。
 惜しい、と思わずにはいられぬが、さりながら、五郎の出家の決意はかたく、翻意させるのはかなわぬことだろう――
 目尻に滲むものを感じながら、ふたりの姿を見つめていると、
「さぁさぁ、太夫も、“静御前”にばかり気をとられておってはなりませぬぞ」
 地謡のものたちに云われてみれば、脇の装束である長絹や厚板、白大口の袴などが、きっちりと揃えて置かれていた。
 囃子方地謡方は平服であると云うのに――と口にしようとしたが、かれらの顔に浮かぶ笑みを見て、気持が変わった。
 そうだ、自分にとっては稽古に毛の生えたようなものでも、五郎にとっては最後の晴れ舞台だ。舞台が己が荒屋の一間であろうとも、見物が座のものたちのみであれ、それは動かぬことなのだ。
 そうである以上、自分もまた、相応の意を払って、この甥の最後の舞台を飾ってやらねばなるまい。
 ひとつ吐息して直垂を脱ぐと、座のものたちが飛びつくように、装束をこの身に着せかけてきた。


† † † † †


世阿弥の話っつーか四郎たんの話、続き。
五郎が出家!


ってことで、おわかりのとおり、この話の最大のネックがこの後に……
何がネックかって、あれですよ、『二人静』って確かに相舞がある演目なのですが、その相舞が、力量の同じ程度の人間ふたりで、まったく同じ所作をすると云う演出のため、明治時代か何かに観世流の宗家か何かが「難しすぎる」って封印しちゃった、とか云う話があるくらいの演目でしてね……要するに、DVDとかにもなってない(仕舞のDVDで、『二人静』のクセが入ってるのはあるのですが、他に『淡路』『兼平』『野宮』『鵺』なんかも入ってて、¥7,350-なんですよね……高い)ので、どうよと云う。
でもって、頼みの綱のNHKアーカイブスは、公開画像の中に『二人静』は入ってないのでした……(涙)
図書館にあった『観世謡曲百番集』の『二人静』は借りたのですが、これって謡は入ってても囃子はないんだね! 迂闊!
なので、仕舞のDVDを涙を呑んで買うか、似た曲じゃないかと思われる(もっと一般的な)演目の囃子のCDで妥協するか、で悩んでるとこです。
や、ぶっちゃけ映像いらないからねー。欲しいのは音だけなのですよ。
……と思ったら、『観世流 舞の囃子』と云うCD4枚組のが出てる! しかし、4枚で¥13,000-くらいだな……
能楽囃子体系』と云う8枚組のが、練馬と港区の図書館に入ってる、が、どっちも借りられねェ……
1枚のだと『能楽囃子名曲集』ってのが出てるのですが、これ、『〜体系』の“秘曲の類”が中心の選曲で、普通の序ノ舞とか中ノ舞とか、が入ってないんですよね……
ううう、どうしたもんかのぅ……


ってわけで、四郎たんの話は、音源どうするかの問題が解決するまでちょっとお休みで(汗)。
世阿弥関連の話をどんどん書くって云うんなら、『〜体系』買ってもいいけど(でも、『観世〜』で足りるような気もします)、ちょっと踏ん切りがつかん……
とりあえず、空海の話を書き出してるので、こっち書きながら考えたいと思います(ええ、音源の問題を)。
所作がいらないってのは、ぶっちゃけ室町の能って大衆芸能なので、世阿弥以降のお高く留まった“お能”の所作はやりたくないんですよね。所詮は猿楽、なんですよ。むしろ、今の歌舞伎のイメージで。で書きたいので、できればCDがいいのですが……まぁまぁね。


あ、すっかりアレしてましたが、五郎と三郎、それから十郎(七郎次郎抜かしちゃう)の力量差と云うのは、男子フィギュア的に云うと、十郎が高橋、三郎が小塚、で、五郎は国内戦万年5位くらいの選手、って考えて戴ければOKなのではないかと。
国内ではそこそこ巧い(1.5流くらい)けど、一流や超一流にはどうしても及ばなくて、皆には「巧いよ」って云われるけど、自分的には限界を感じちゃった、みたいなカンジですかね。十郎と五郎だけなら『アマデウス』的なカンジなのですが、三郎がいたから、逆に逃げ道がなくなった、みたいなところがあるのではないかと。そう云うのって、逆に辛いよね――二流の連中からは「何で辞めるんだ」って云われるけど、自分的にはもう駄目って云うのはね……


そうそう、先日、元の職場の後輩(元、ですが)ばーにゃの個展に行ってきたのですが。
相変わらず、天使の羽根の見えそうな、やさしいやさしいイラストが並んでいるのをみて、頑張んなきゃなァと思った次第。いや、彼女の方が後から創作活動はじめたのに、何か全然先を行かれてるカンジでね……
こないだのアレコレじゃありませんが、うん、頑張らなくっちゃと思いました。
っても、まァこう云うとこに書き散らすだけなんだけどね、ふふふふふ……
とりあえずは、(どの話も)完結目指していきますよ。


この項、終了。
次は先生の話、かな?