神さまの左手 17

※かすかに女性向けの表現があります。畳みません(それほどでもないので)が、自己責任でお読み下さい。


 やってしまった。
 レオナルドは、頭をかかえていた。
 サライと、肉体の関係を持ってしまった――相手は、まだ十二歳だというのに。
 ――やってしまった……
 三十近くも年長の自分が、まだ男女のことも知らぬいたいけな子どもに手を出してしまった――何と云うことだ。
 もちろん、画家とその徒弟の間で、そのような関係を持つことは――教会に知れれば極刑になり得る大罪ではあるのだが――、特段珍しいことではない。現にレオナルド自身も、師であるヴェロッキオと、十六で入門してほどないころに、そのような関係を結んでいた。
 が、自分の時は、もうある程度の分別もついていたし、父親も同じフィレンツェ市内、しかも歩いてすぐのあたりに住まっていたわけだから、“強要された”と云うわけではなかったのだが――サライの場合は、レオナルドが、その強い立場を利用したとなじられても、仕方のない事態だった。
 レオナルドは、もう一度頭を抱え、そっと眠るサライにまなざしを向けた。
 いつもは早起きの少年は、昨夜の行為で疲れているのか、まだ寝台の中だ。その顔は、呑気と云っても良いくらいに穏やかではあったのだが――レオナルドは、罪悪感で、胸に痛みを覚えた。
 そうだ、レオナルドとヴェロッキオ師の時には、師が“女役”だったのだが、今回は違う。完全にレオナルドが主導権を握ってことに及んだのだから――その罪深さは、師を大きく上回るだろう。
 ――どうしよう……
 うろたえるしかない。年端もいかない子ども相手に、己の欲望を押し付けるほど、それほど自制心のない人間だとは思ってもみなかった。
 いや、確かに自分はいろいろと自制心にかけているのは確かだが――しかし、倫理的なあれこれを忘れて、子どもに手を出すことなどないと、そう思っていたと云うのに。
 実際、レオナルドはここしばらく――有体に云えば、フィレンツェを離れてこの方、誰かと肉体の関係を持ったことなどなかったのだ。
 フィレンツェ時代の後半、“真実の穴”に投げ込まれた告発の引き起こした事件――それには、レオナルドと、金工師ヤコポ・サルタレッリの、ありもしない関係を云々する言葉が書き連ねられていた――以来、レオナルドは、誰ともそのような関係にならぬよう、細心の注意を払って行動してきた。ヴェロッキオ師の元からも独立し、普通の親しい友人以上の相手は作らぬように――それでも、レオナルドに対する不穏な噂は、後を絶たなかったのだが。
 最初の密告により告発された時の、“夜の役人たち”の取り調べとその後の拘禁が、あまりにも酷いものだったので、レオナルドは、男色を行ってそのような扱いを受ける危険を冒す気には、とてもなれはしなかったのだ。
 レオナルドは、どちらかと云えば性的には淡白な方であったので、ここしばらくの“清い”生活にも、さほど不満を感じなかったのだが――あるいは、それは精神の表面の方だけのことで、心の奥底では、我慢も限界に来ていたとでも云うのだろうか? いたいけな子どもに手を出してしまうほどに?
 ――そんなはずはない、はずだ……
 そもそも、レオナルドに男色の手ほどきをしたヴェロッキオ師は、肉欲が強い方で、なおかつ悋気持ちだった。
 それに対してレオナルドは、どちらかと云えば、実際に身体を重ねるよりも、見目の良い青少年をまなざしで愛玩することを好んでいた――美しい顔や身体そのものが、レオナルドの愛情の対象であって、そこに肉体関係が介在せずとも、それはそれで構わなかったのだ。
 束縛の強いヴェロッキオ師との性癖の違いが、関係のもつれをもたらし――それでレオナルドは、フィレンツェを捨てて、このミラノへ逃れてきたのだ。
 だから、正直、ミラノへやってきたときには、男色――肉体関係の方の――はもうこりごり、と云う気分であったのだが。
 ――よもや、こんなことになろうとは……
 確かに、レオナルドは、サライの顔がとても好きだ。
 レオナルドはもともと、「岩窟の聖母」で描いた大天使ウリエルのような、中性的な美貌の少年を好んでいた。それは、何も男色の相手と云うわけではなく、ただ単に鑑賞するにふさわしい貌、と云う意味においてだったのだが。
 だが、あのような貌と云うのは、それこそ天上のもので――であるからこそ、レオナルドは、モデルを使いつつも、それを天上のものにするために、モデルの不完全な部分を極力削ぎ落とし、その代わりに、神秘的に見えるだろう幽かな微笑を、絵画の中で与えたのだ。
 サライの顔は、厳密に云うなら、そのような“天上の”美貌とは異なっていたが、しかし、一層地上的であるが故に、もっと旧い神々の末裔でもあるかのような、一種独特な秘密めいた風を漂わせていたのだ。
 レオナルドは、サライのその異教的な雰囲気をこそ、もっとも愛していたのかも知れぬ。
 そうだ、レオナルドはいつでも、この教会の支配する世界においては異端者だった。正嫡の生まれではなく、知識階級に生まれながら、その属する階級の中では生きていくことを阻まれていた。
 否、そもそも、レオナルドは、教会の教義を信じてはいなかったのだ。それはそうだろう、いったい、人格――と、神に対して云ってもいいものかはわからないが――を持つ“唯一絶対の神”など、果たして存在し得るのだろうか。聖書の神は“妬む神”だと云うが、“唯一絶対”である神が、誰に対して、何を“妬む”と云うのか――それは、その呼称そのものが欺瞞に満ちてはいるまいか。
 それならば、胡乱な錬金術師たちの唱える世界観の方が、何倍もましだ――そこには、“人格”を持つ神などない。ただ、流転する“力”によって構成された世界があるばかりだ――すこしばかり異教のにおいのする。
 サライは、その世界と同じにおいを漂わせていた。異教的な、教会の枠の外にある生きもののにおい。教会の支配下にある人びととは明らかに異なる、例えば、世界のからくりの裏を知っているかのようなにおいがしたのだ。
 あるいは、それこそが、レオナルドを惹きつけた最大の理由であったのかも知れぬ。教会の枠の中に、どうにかこうにか身を置こうと汲々としていたレオナルドを、もっと広い世界へ解き放ってくれそうな、その異教的な雰囲気こそが。
 だが――
 ――それが、子どもに手を出す理由にはなるまい!
 くだくだと考えても、結局のところは同じことだ。
 レオナルドは、罪を犯した――それだけのこと。
 溜息をついて、またうなだれる。
 若いころの過ちとは違う。今度は、自分が主として、まだ幼い少年を罪に誘った。
 それを思うと、震えがくる。
 サライは――そんなレオナルドを、何と思っただろう? 大人であることを笠に着て、無理を強いた酷い人間だと思っただろうか、レオナルドのことを、恐ろしく、忌まわしい人間だと思っただろうか?
 と――
「――レオ?」
 問いかけてくる声。
 はっとして振り返れば、そこには、昨日肌をあわせた少年が、いつもよりも寝ぼけた顔で佇んでいた。
 いつもの朝と同じように、もつれた巻毛を手櫛でとかしながら、ふわとひとつ欠伸して。
「おはよう、レオ。……腹へったよ」
 向けられてくる、笑顔。いつもと同じように鮮やかな、そのくせどこかに小狡さを滲ませた、その笑い。
 サライのその変わらぬ態度に、レオナルドは心底ほっとした。
「あ、ああ、すまんすまん。今、朝食にしよう」
 そう云って、ばたばたと椅子から立ちながら。
 レオナルドは胸のうちで、そっと安堵の息をこぼした。


† † † † †


ルネサンス話、続き。
今度は先生視点。


やー、やっちまった感満載の先生です。
っつーか、冒頭で“かずかに女性向”とか書いてるけど、先生sideの方が、結構生々しい話なような……(汗) ま、まァ、この程度なら大丈夫ですよ、ね……? (汗々)
ヴェロッキオ先生のアレコレに関しては、先生の肖像画(と云われている木版画?)を見ていて、多分こうだったはず、と云うカンジ。ついでに、有名な“サルタレッリ事件”についてのアレコレな疑惑も、ヴェロッキオ先生に対しては持ち上がってきてるのですが――まァ、証明する手立てはもうないからな。
っつーか、ヴェロッキオ×レオナルドって結構ある(と思う)けど、逆って見ないよね……まァ、いくら年齢差十五くらいったって、三十路の男が十代の少年には乗らねェだろ(失礼)とは思うだろうなァ、ってカンジなんですけども。
先生、(男の子らしい)美少年(バルジェッロ美術館収蔵の、ヴェロッキオ作ダヴィデ像参照のこと)だったらしいので、世間的には受なんだろうけどなァ……ははははは(苦笑)。
っつーか、何だこの腐女子っぽいようで腐女子っぽくない話。
男性諸氏にはすみません〜(苦笑)。


サライの顔に関しては、「最期の晩餐」のピリポ→「洗礼者ヨハネ」のヨハネ、と云うカンジの歳の食い方なので、まァあんな顔ってことで。あ、「聖アンナと聖母子」の聖アンナもそうですね。あの笑い方が、特に。
綺麗、かも知んないけど、とりあえずふてぶてしいよね〜。「ヨハネ」だって、“誘惑者の微笑”とか云うけど、あれはどう見ても誘惑してねェだろ、って云う。
が、これがみけらにょろのスケッチ(髯なし先生と一緒のヤツ)になると、どっかの女子高生っぽい髪型に描かれてたりと、女性っぽく描かれてるから面白いのですよ。
ちなみに、ベルナルディーノ・ルイーニや、フランチ=メルツィの絵の女性陣(マリアとか)も、モデルはサライだと思いますよ。だって、あの笑い方! あんな笑い方する奴、他にいるか!
それこそ、先生の“弟子”たちの絵には、あの顔よく出てるから、見てみると面白いですよ、ふふふふふ。


えーと、古本屋で出てたので、「建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ」(長尾重武 中公新書)と、「天才論」(茂木健一郎 朝日選書)をGET。
どっちも結構面白かったのですが、茂木さんの方、いいとこ突いてるなーと思いました。や、先生の描きたかったものについてのくだりですが。
世界を描くと云うこと、描く対象のすべてをうつしとること、これが先生の終生の野望で、まァある程度は、先生はそれに成功したと思います。チェチリア・ガッレラーニの肖像(例の「白貂を抱く女」)を見れば、生きていたころの彼女の性格が、何となくわかるような気がすると思うんですけれど、先生の描きたかったのは、そう云う絵なんだと思う――絵の中の人間が、今にも動き出すような、そう云う絵が。あるいは、我々に見えるすべてを封じ込めたような絵が。
写真やムービーのせいで、写実的に描く絵の価値がなくなった、と云われて久しいですが――やっぱり、写真やムービーでは表せないものってあると思うのです。そのためにも、具象絵画にはまだできることがあると思うんだけど――それをするための“基礎”が、今の絵をやる人たちには足りないのかもね。ま、それは、小説を書く人にしてもそうなんだけどね。
もったいないよなァ、世界って、こんなに面白いのに。


さて、この項終了。
次は阿呆話――杉のアレコレで。