北辺の星辰 69

「――おやおや珍しい。奉行御自ら、わざわざのお運びたァ」
 伊庭の声は、かすれてはいたものの、昔どおりの気の強さを思わせるものだった。
「昨日まで二股口でな。今日になって帰参したんだ」
 応えながら、歳三は、改めて旧友の顔をまじまじと見た。
 痩せた、わけではないが、ひどく窶れたようだった。発熱しているのだろう、美貌を謳われたその顔は紅潮し、瞳もぼんやりと潤んでいる。萎れた花のようなその様を、だが美しいとは思えなかった――それにしては、あまりにも面窶れし過ぎていたからだ。
 浅い息遣い、滲む汗、口を聞くのも怠そうな。
「おめェはいつ……」
「おいらが引き上げてきたのァ、二十二日のことさ」
 唇を歪めて、伊庭は云った。
「二十日の木古内の戦で、鉛玉ァくらっちまってねィ。いよいよ死ぬかと思ったってェのに、どうしたもんだか生き延びちまった。小太さんは、先に逝っちまったってェのにさぁ……」
 “小太”と云うのは、親しかったと云う本山小太郎のことだろうと察せられた。歳三は、一度簡単に顔を合わせただけだったが、中々気の良い男であったように記憶している。
 どう慰めるべきかわからずに、そっと話題を逸らしてみる。
「……随分悪いのか」
「良かァねェねィ、弾が入ったまんまだもの。だけど、抜いたら死ぬってんだから、それくらいなら、弾ァ残したまんまででも、南軍の連中に一太刀でも浴びせてやった方が、おいらの気も晴れるってもんさァ」
「……そうか」
 弾を抜けば死ぬと云うのなら、どんな名医でも手の施しようはあるまい。
 それならば、この伊庭のことだ、最後に敵に斬りこみでもして死にたい、とでも云い放ったのだろう。
「――そう云うあんたァ、どうなんだィ」
「あ?」
箱館府ァもうおしめェなんだろ。あんたァどうするつもりなんでィ、え、奉行?」
「……どうもこうも」
 何と答えたものかと思案しながら、歳三は肩をすくめた。
「俺ァ陸軍奉行並だ、釜さんや大鳥さんの云うに従うのみ、さ」
「嘘云いなよ」
 伊庭は、苦しい汗を滲ませながらも、にやりと笑ってきた。
「あんたがそんな、可愛いタマかィ。侍髷結ってやがった、バラガキのトシさんがよ」
「――懐かしいな」
 歳三は思わず笑った。
 伊庭と出逢ったころ――つまりは十五、六年も昔――には、ただの農民の子でしかなかった歳三は、試衛館のものたちや、伊庭などの遊び仲間に合わせるために、侍髷を結い、大小を腰に差して街中を歩いていたものだった。
 もちろん、多摩あたりの代官にでもばれれば大変なことになっただろうが――そのあたりは、多分にお目こぼしを頂戴していたような気がする。まぁ、咎めだてされたところで聞いたとも思われなかったし、それをよくわかってお目こぼし戴いていたのだろうけれど。
 伊庭は、そんな歳三を見て、“よくまぁそんなことおやりだねィ”などと、半ば呆れたように笑っていたものだった。
 そんな昔のことを引き合いに出されたことで、箱館で再会した時の、何とも云い難い距離が、ほんの少しだが縮まったような気がした。
「それでも俺ァ、全軍の上に立つような器じゃあねェよ」
「多摩の百姓の子が、陸軍奉行並にまで成り上がっといて、何云いやがるんでィ」
「おめェにそう云うことを云われると、面映ゆくてならねェぜ」
「はン」
 伊庭はかるく笑った。その拍子に傷が痛んだものか、小さく咳きこむ。
「おい、大丈夫か」
「……なァに、大したこたァねェよ」
 けほり、とひとつ咳をして、にっと笑う。
「ところで歳さんよ」
「何でェ」
「あんたァ、江戸を出る時に、勝安房から何ぞ申し含められたんだろィ? そいつァ、何なんでィ、おいらに教えてくんなよ」
 伊庭の言葉に、歳三の心臓は大きく脈打った。
 勝安房――勝海舟の申し含め。
 ――幕軍脱走兵を率いて江戸を脱し、そして……
 そして、北へと転戦し、時が来たれば幕軍を敗北させ、歳三もともに死ねと。
 江戸を、徳川家を守ることこそ大事と、それこそが百万の民草を救うのだと、信じて命じてきた勝の顔を思い出す。大の虫を生かすために小の虫を殺すことも厭わない、その心根に惚れこんで、歳三は頷き、この北辺の地まで転戦を重ねてきたのだ。
 ――どうぞ、存分にお使い下さいませ。
 勝の言葉に、そう応えて。
 だがそのことを、伊庭が知っていようはずはない。歳三が勝と会った去年の四月四日には、伊庭は寛永寺にて、謹慎中の将軍慶喜の警護にあたっていたはずだからだ。
 勝が、余人に歳三への密命を話して聞かせたとは思われないが――しかし、あの勝のことだ、思わせぶりなことを云って、南軍との交渉を有利に進めようとするようなことがなかったとは云い切れぬ。
 その話がひとり歩きして、めぐりめぐって伊庭の耳に入った、と云うのは、いかにもありそうな話ではあった。
「……俺ァ単に、戦をやるなら江戸の外でやれと、そう申しつけられただけさ」
 肩をすくめて云ってやると、伊庭は鋭く目を光らせた。
「それ以上のこたァなかったってェのかィ?」
「あんお人の考えを聞いたなァ、江戸の町をどう守るかってェことだけだ。おめェもよくわかってんだろうが」
「だが、相手はあの勝だ、そんなもんだなんて信じられるかィ」
 と云う伊庭は、よほど勝に対して不信感を持っているようだ。
「……どのみち、俺ァ投降したって斬首刑だ、そんならいくさ場で散ってやりてェって思うのァ、道理じゃねェのか?」
 新撰組局長だった近藤は、流山で別れた後で捕縛され、武士としては扱われず、一揆の領袖のごとくに扱われ、斬首されてその首を晒されたことは記憶に新しい。
 新撰組は、京の町で、不逞浪士どもから“壬生狼”などと呼ばれて忌み嫌われていた。主に長州や土佐のものの、かれらに対する恨みは深く、それ故の近藤の斬首であろうとは知れていたが――捕らえられれば、それが己の身にも降りかかってくるだろうことは、想像に難くなかった。
 伊庭はふっと笑った。力ない笑いだった。
「歳さんはいいねェ。おいらなんざァ、もう、臥して死を待つのみ、さ」
「そんなこたァ……」
「あるんだよ、わかってるんだろィ?」
 伊庭の言葉に、歳三は沈黙するよりなかった。
 高松凌雲医師に“手の施しようがない”と云われたのならば、確かに伊庭は、臥して死を待つのみであるのだろう。出撃もできず、ただ横臥して、迫りくる緩慢な死を待つ日々。それが、この男にとってどれだけ悔しいことであるのか。
「おいらァ、もう駄目さァ。だが、そいつァいいんだ、わかってることだからねィ。ただ、この戦が終わった後に、生き残っちまうのは厭だねィ」
 淋しい声。
 だが確かに、起き上がることすら厳しい伊庭は、流れ弾にあたることも期待できないのだ。もしも降伏――今すぐではないにせよ、いずれ箱館府はそうせざるを得ない――するまで生命ながらえるようなことになれば、どうすることもできぬまま、虜囚の辱めを受けることになるだろう。
「伊庭……」
「ま、それまで生きてられるとも限らねェんだがねィ」
 笑って、またけほりと咳きこむ。
「ま、あんたァどんどんやって、せいぜい南軍の奴らをきりきり舞いさしてくんな。そしたらおいらの気も晴れるってもんさァ」
「ああ、もちろんだ」
 実際、木古内で敗れたとは云え、幕軍の士気は底を打っているわけでもない。彰義隊や神木隊などの兵卒には、もはやこれまでと箱館府に見切りをつけて、隊を脱走するものもあると聞くが、陸軍の中核をなす諸隊からは、そこまでの話は聞こえていないのだ。士気は、完全には下がり切ってはいない。
 歳三のやるべきは、残っているものたちの士気を上げられるだけ上げて、その後に、己の死によって底まで落とすこと――それだけだ。
「……何ぞ、悪ィこと考えてるねィ、奉行?」
 伊庭の声に、はっと我に返る。
「い、いや、そんなこたァねェよ」
「嘘云いなよ、今のァ悪ィ顔だったよ、いかにも狐ってェ、ね」
「狐顔は元からだ!」
 思わず怒鳴ると、笑い声が返された。
 が、それはすぐに苦しげな咳に変わる。
「伊庭」
「……ッ、はは、情けねェ、この様ったら」
 けほっと咳きこみ、口許を拭う。痩せ我慢とわかる笑みが刻まれた。
「無理するな」
「なァに、どうしたって死ぬんならさ……恰好のひとつもつけてェじゃねェかィ」
 その言葉に、歳三は何と返したものかわからなかった。
 沈黙する歳三に、伊庭はにぃっと唇の端をつり上げた。
「そんな面ァすんねィ。あんたァ、悪狐の歳さんでいるのが一番さァ。何だか知らねェが、思うさまやりゃあいいじゃねェか」
 そう云われれば、歳三に云うべき言葉などありはしなかった。
「……また来る」
 そう云い置いて、立ち上がる。
「しけた面ァしてんじゃねェよ、奉行」
 部屋を出る歳三の背中に、伊庭のそんな声が投げかけられた。


† † † † †


『北辺』続き。伊庭の回。



うちの伊庭は、まァこんなカンジ。
って云うか、伊庭、こんな喋らせ方してたっけか……
勝さんは、まぁこだわりがと云うか、子母澤寛の書く感じで書いてるので結構やわらかめ(「〜かィ」→「〜かえ」とか)な仕上がりなんですけど、伊庭は真選組風味になってんな……実際に聞いた感じだと、真選組風味の方がそれっぽい(あ、江戸言葉がです)んだそうですが。まぁ、勝さんは勝好きとして! 子母澤寛がバイブルなので! (と云っても『父子鷹』『おとこ鷹』の方ですけどね――小吉パパ大好き!) こんな感じで行きたいと思います。っても、勝さんの出番ないんだけどね……



とりあえず話を書くことについては、うん、まぁ気分はアレなんですけども。
最近云われて川端康成を読んでます。まだそんなに読んでないんですが(『雪国』と『掌の小説』くらい)、流石ノーベル賞作家って云うか、凄い文章力だ! 知人のシロ(仮)の云うとおり、日本人作家最高の文章力ですね! 引き込まれるし、情景もはっきり浮かびます!
個人的には日本の文豪は芥川龍之介、だったのですが、間違ってた、川端康成も入れておきます! ……まぁ、構成はやっぱ芥川の方が上だとは思いますがね(苦笑)。
芥川の構成力と川端の文章力と司馬遼の資料の折りこみ方と、D.フランシスの冒頭とラストがあれば、もっとすごいものが書けるんだろうけどなァ……実際自分に書けるのは、頑張ってもオッさんくらいだもんな。頑張りたいです……
しかし川端康成って、ホントに最近の人なんですね、いや、亡くなったのは1972年だから、最近って云うほど最近でもないですが。でも、ホントに最近の人の本でもすぐ流通しなくなることを考えると、まだまだ流通しててありがたいですよ。芥川もそうですけど。
そう云えば、芥川と川端って、7つしか歳が離れてないんですよね。年表見ると交流がなかったわけでもないみたい(関東大震災後、川端が今東光と、芥川を見舞った記録あり)だし、ちょっと楽しいです。Dが第一回の芥川賞を取り損ねた時に、川端康成と論戦みたいになったそうなので、それも含めてちょっとによによ……(Dは好かぬ) 何かに昇華できたらいいなぁ……まぁ、文豪ナントカは難しいんですがね。



さてさて、次も鬼の話。
中島さん中島さん中島さん! (←え)

北辺の星辰 68

 五月一日、歳三たち二股口守備隊は、五稜郭に帰参した。
 負けなしの戦いを切り上げて退いてこざるを得なかった兵たちは、やや不満げな面持ちではあったのだが、歳三としては充分以上の成果はあったので、気分はまぁ上々と云えなくもなかったのだ。
「無事帰参がかないまして、何よりでございました」
 市村が箱館を去ってこの方、心配性に拍車のかかった感のある安富は、五稜郭の門をくぐるなり、そう云って安堵の息をついた。
「大袈裟だなァ」
 笑いながら云ってやるが、安富はきっとこちらを睨み返してきた。
「“南軍”のあれだけの猛攻を、わずかな人数で迎え撃たねばならなかったのです、どれほどの犠牲が出るか、知れたものではなかったのですよ。幸いにも、奉行が戦巧者であられたので、死傷者も少のうございましたが……」
「俺ァ、攻めより守るが得手なのさ」
 “戦巧者”と云うなら、今は亡き沖田こそがそれだっただろう。歳三には、守りを固めることはできても、相手の守りを突き崩すことは難しかった。囲碁や将棋でもそうだったが、攻め具合を考えると云うのが、どうにも不得手だったのだ。二股口の攻防などは、あくまでも守る側であったから乗り切れただけのことだ。
 とは云え、
「“戦巧者”なんぞと呼ばれんのも、まァここまでのことだろうなァ」
 箱館府の拠点は、もうここ五稜郭箱館市中、そして室蘭の三カ所のみとなってしまった。
 頼みの綱であった海軍も、無事な軍艦は回天、蟠龍、千代田形の三艦のみ、ことここに至っては、さしたる戦力になるとも思われなかった。
「何を弱気なことを」
 安富は云うが、しかし、箱館府の命運が、早晩尽きるものであることは、誰の目にも明らかだった。
「まァ、最後の花火ァ、派手派手しく上げてェもんだよなァ」
 恐らく、本土の旧幕派は、ことごとく南軍の軍門に下ったことだろう。自分たちこそが最後の幕軍であり、最後の抵抗者である――それならば、最後の最後に思い切り暴れてやって、幕臣の意地を見せてやるか。
 ――いや、そんな余力ももうねェな。
 現に、五稜郭へ帰参する途中の村々でも、幕軍の脱走者が方々を荒らしながら落ち延びようとしていると云う噂話を聞いた。
 それが事実であるかどうかはわからない、が、事実であると村人が認識するほどに、箱館府の威が落ちているのだと云うことはわかる。
「“最後”などとおっしゃらないで戴きたい」
 安富は激しい口調で云う、が、
「本当の話じゃねェか」
 孤立無援の箱館府に、この先などと云うものはない。ここで敗れればそれまでなのだ。
「それにしても」
 安富は、厳しい表情を崩さなかった。
「先生のお立場でおっしゃることではありません」
「わかってるさ。おめェが相手だからこそ云うんだよ」
「できれば、私の前でもお控え戴きたいものですね」
「そしたら俺ァ、誰に愚痴りゃあいいんだよ」
「そっと胸の裡にお収め戴くのが宜しいのです」
「は!」
 云われちまった、と頭を掻けば、安富は苦々しげな表情で押し黙った。
 総裁と副総裁への報告は簡単なものだった。
「いや、よく頑張ってくれたね、土方君!」
 榎本は、いつものように満面の笑みでそうねぎらってきた。
 対する松平太郎は、こちらも相変わらずの渋面だ。
「申し訳ない、踏み止まることがかないませぬで……」
「何、あのまま残れば挟撃されて、全滅するばかりだっただろう。君は、兵を戻して、来るべき決戦に備えてくれたのだ、何を云うことがあるだろうか」
「そうおっしゃって戴けますと、私も安堵致します」
 頭を下げる歳三に、流石の松平も厭味を投げかけてはこなかった。まぁ、大敗して戻った大鳥とは違い、歳三はともかく敗北はしなかったのだから、厭味を云われる筋合いはないはずなのだ。
 それに、幕軍はもはや、ここ箱館を戦場にするより他になくなっている。せめて無様を晒さぬようにと望むなら、使える兵卒は多いほど良いはずだ。そして、それを指揮する将官も。
「ともかくも、今日のところはゆるりと休んでくれたまえ。今後のことについては、また改めて相談したい」
「わかりました」
 そう応えて一礼し、二人の前を辞す。
 せっかくなので、弁天台場に顔を出し、いつもの丁サにでも逗留するかと思いながら、玄関へ向かって歩いてゆく。
 と、士官が数名、こちらへ歩いてくるのと行きあった。徽章を見れば遊撃隊隊士のようだ。
 そう云えば、遊撃隊は木古内方面へ出撃していたのだった。そちらで大敗を喫したために、歳三たち二股口守備隊も撤退を余儀なくされたのだった。
 ――伊庭の野郎ァ、さぞかし凹んでやがるんだろうなァ。
 負けず嫌いのあの男のことだ、もちろん、そうと顔に出すことなどあるまいが。
「おい、君」
 歳三が声をかけると、遊撃隊隊士たちは訝しげに足を止め、相手が誰であるかを認めると、慌てて姿勢をただしてきた。
「これは奉行」
堅苦しい挨拶はいい。君たちは遊撃隊のものだな?」
「はい、さようです」
「訊ねるが、隊長の伊庭はどこに?」
 問いかけると、かれらは困惑したように顔を見合わせた。
 やがて、中では年嵩のものが、ゆっくりと口を開いた。
「伊庭隊長は、木古内で負傷致しまして、今は箱館病院で療養致しております」
箱館病院に?」
 大鳥率いる陸軍本体が五稜郭へ撤退してきたのは、二股口守備隊のそれより幾日か早かったはずだ。もしもその日から今日までを、病院で療養していると云うのなら――伊庭の怪我は、かなり悪いと云うことになる。
「ひどく悪いのか」
 そう問いかけると、相手は力なく首を振った。
「凌雲先生も、手の施しようがないと」
「何」
 高松医師がそう云ったとなれば、伊庭はもう絶望的と云うことだ。
「伊庭は箱館病院なんだな?」
「は、はい」
「そうか……」
 であれば、伊庭はおそらく、最後の戦いで散ることもできず、畳の上で死を待つことになるのだろう。それは、恰好をつけたがるあの男にとって、どれほどの屈辱であるのだろうか。
 考えこんでいた歳三は、遊撃隊隊士たちが、言葉を待つように佇んでいることにややあって気がついた。
「あ、ああ、呼び止めてすまなかったな。お蔭で状況がわかった、助かったよ」
「宜しゅうございますか」
「ああ、世話ァかけた」
「いえ。それでは、これにて」
 そう云って、かれらは一礼し、その場を立ち去っていった。
 歳三も再び歩き出しながら、頭の中では伊庭のことを考えていた。
 伊庭は再び戦場に立つことは適うまい。となれば、下手をすると、歳三はかれと顔を合わせることもないままに、死ぬことになるかも知れないのだ。
 その前に、一度は顔を合わせておきたかった。とは云え、宮古湾海戦直前の伊庭の態度を思えば、向こうは顔を見たくもないのかも知れなかったが。
 五稜郭を出て、箱館市中に向かう。箱館病院は、一本木関門を過ぎて少し行ったところにある。弁天台場へ行く前に、少し寄り道するくらいのものだ、大した手間でもない。
 おりたばかりの愛馬の背に再びまたがって、歳三は、箱館市中へと続く道を行った。
 いつもは五稜郭から千代ヶ岱陣屋の脇を抜け、まっすぐ箱館奉行所へと続く道を行くのだが、箱館病院へ寄っていくとなると、大森方面に抜けなくてはならない。
 箱館病院は、傷病者でごった返していた。大鳥率いる本隊の兵卒で、負傷したものがどっと運びこまれたのだろう。玄関に立っただけでも、院内のざわめきや傷病者の呻き声が聞き取れるような気がした。
 看護人たちがせわしなく行きかっている、それに、歳三は声をかけた。
「すまないが、良いか」
 相手は怪訝そうな、そして若干の苛立ちを含んだ顔で振り返った。が、こちらが何ものであるかに気がつくと、面を改め、頭を下げてきた。
「これは奉行」
「ああ、構わん。教えてくれ、遊撃隊の伊庭が、こちらに入っていると聞いたのだが」
「伊庭先生ですか……」
 男は、その名を聞くなり、痛ましげに眉を寄せた。
「悪いと聞いたが、会えぬほどか」
「いえ……むしろ、今お越し戴いて良うございました」
そう云うと、男は歳三を促して、伊庭の病室へと案内してくれた。
 廊下から見える病室の中には、包帯で巻かれ、呻きを上げる傷病兵たちの姿がある。血のにおい、膿のにおい、そしてその中に、かすかに死臭めいたものが混じりこんでいる。
 軽傷者は、簡単な治療を施されると、すぐさま隊に戻されているようだったから、つまり、今ここに入院しているものたちは、病人と重傷者、それから、明日をも知れぬ重篤な傷病者のみと云うことになるだろう。
 そのせいでもあるのだろうか、院内のものたちの表情は一様に暗く、一足先に白旗を上げてしまったかのようであった。
 と、
「――こちらです」
 そう云って、男が奥まった一室の襖を引いた。
 途端に、強い血臭が漂ってくる。そして、それに混じって、かそやかな死のにおいも。
 案内してくれた男に頭を下げ、室内に入りこんでその枕元に坐る。
 布団から出ている伊庭の顔は青白く、生気も薄い。なるほど、確かに手の施しようがないようだ。
 眠る顔をよく見ようと、わずかに腰を浮かせた時。背後で襖の閉まる気配があった。
 そして――それにつられたかのように、伊庭がゆっくりとその瞼を開いたのだ。



† † † † †



はい、久々(前回の日付見たら、2012年10月6日になってた……)の『北辺』でございます。
箱館帰ってきたよ。



えー、年末に本気出したのですが、箸棒だったっぽいので、悔しいからさくさくUP。いや、そうでなくてもUPはするつもりでしたが。
何かこう、どっか拾ってくんねぇかなーと云うね――まぁ自費系は御免ですが。
本屋として、自費系の“全国の書店で!”の裏は見てる(それ用の棚があるが、まぁ目につきませんわな)し、ああ云うのって結局、版元が損しないように、書き手が持ち出しを迫られる(結構な額――100万出すくらいなら、薄い本にしたりとかした方がよくね?)ので、基本的には信用してません。
つか、それ系の編集だか営業、書店のビルん中のファストフード店とかでお客と打ち合わせすんのはお止め。商談の中身が耳に入って、何かもう切ないっつーかいたたまれないっつーか、そんな感じになったことがありますのでね。詐欺まがいだよホント。
そう云うので本出されるつもりのある方は、過剰に夢を見ないようお勧めいたしますわ。



さて。
そんなわけで、この話ももうじきオシマイです。あと5章!
ってことは、結局73で終了と云うことですね。
でもまぁ、実際の文字数は、意外にそんなでもなかった……最近は、1章7〜8000文字くらいで書いてるので、初期の1章3000文字ってのが短く感じます。
箱館戦争絡みは(前に出した薄い本とかで)大体網羅したかな、と思うので、とりあえずこれがUPし終わったら、没後500年に向けて先生の話を、ってのと、止めてる四郎たんの話を書きたいですね。
まぁ、ぴくしぶにもってかれたり何だりしてますが……
がががんばろう。



ってなわけで、次も鬼の話です。
伊庭とごたいめーん。うちの伊庭は可愛げがないんですけどね……

左手の聖母 22(完結)

 サライが死んだ。
 バッティスタからの手紙によれば、ミケランジェロが帰ってすぐ、サライはあの家の中で、銃で撃たれて死んだのだと云う。下手人は、まだ捕まってはいないと云うことだった。
 家中を逃げ回ったものか、家具は倒れ、ものは床に散乱して、ひどい有様だったのだそうだ。だが、奇跡的に、レオナルドの絵は傷ひとつなかったのだと云う。
 ――“奇跡的に”?
 いいや、違う。
 侵入者は、敢えてサライを追いまわし、レオナルドの絵に傷がつかないところを選んで、サライを撃ち殺したのだ。
 撃ち殺した――そう、殺されたのだ、サライは。誰に? レオナルドの絵を欲した連中に。
 ――あの絵は、死ぬまで俺のものだ。
 そう云って笑ったサライの顔を憶えている。昏く淫猥で、ひどく甘い、あの「洗礼者ヨハネ」と同じ笑顔を。
 “死ぬまで”、そう、確かに、絵は死ぬまでサライのものだった。
 サライは、多分この結末をわかっていたのだろう。わかっていたから、ミケランジェロを急きたてて、フィレンツェに帰ると云わせたのだろう。じきに、己の生命を奪いにやってくるものがあると、そう予感していたからこそ。
 ――馬鹿め……
 手紙を握りしめて、ミケランジェロは泣いた。ぼろぼろと涙をこぼした。
 サライは多分、死ぬことを選んだのだ。メルツィからの手紙に返事を書くと聞いたあの時に、ミケランジェロの感じた不吉な予感は正しかった。あの時既に、サライは、己の短い先行きを見据えていたのだ。
 サライの死顔は、きっと微笑みを浮かべていただろう――ようやっとレオナルドの許へ行けるのだと、その喜びに微笑んですらいただろう。
 サライは満足だったかも知れないが――だが、それでは、残された自分たちは、一体どうしたらいいと云うのだろう?
 サライが立ち直るのだと信じていた、自分やバッティスタのようなものたちは。
 ――大馬鹿野郎め……
 ミケランジェロは、泣きながら、作りかけだった“曙”と“黄昏”に鑿を入れた。
 不思議なことに、右手はすこぶる調子が良く、一年前にあれほど痛んだことが嘘だったかのようだった。
 ――俺の右手、あんたにやるよ。
 あの時、ミケランジェロの右腕を掴んで、サライの云った言葉が、耳朶に甦る。
 そんなことなどできるわけがないと思っていたが、この手はもしかすると、本当にサライの右手なのかも知れない。サライが死んだ今、“やる”と云われた右手がミケランジェロの右手に宿り、こうして自在に動いているのかも知れない。
 そう思うと、己の右手がサライの形見のように思えてきて、一層大事にしなければと心に誓う。サライが生きるはずだった未来の分まで、この右手とともに生きなくては――そうして、あの男が見たがっていた美しい彫刻を、一点でも多く彫り上げなくては。
 ミケランジェロは、夢中で木槌を振るった。
 “曙”と“黄昏”の粗彫りを終え、仕上がりが揃うようにと“夜”に手をつける。
 “夜”――一日の業に疲れきり、深く眠る壮年の女の姿を描こうとして、自分の描いた素描にはっとする。
 眠る“女”――だが、この横顔は、サライのものではないか。時折、そう、レオナルドの部屋で夜を過ごした翌日などに、長椅子にもたれて眠っていた、あのサライの姿そのものではないか。
 ――サライ……
 レオナルドの愛した、この美しい横顔のかたち。
 “クソがき”と思う以上に、ミケランジェロにとって、サライはかけがえのない友人だった。あの美しい顔を前にして、確かに陶然となることはあったけれど、不思議なことに、決して不埒な感情は、この胸にわき上がってはこなかった。
 そうして、サライもまた、ミケランジェロのことを、同じように考えていてくれるのだと思っていたと云うのに。
 ――この世と秤にかけてすら、そんなにも、レオナルドが大切だったのか。
 レオナルドの死後六年を、半ば死んだように生きたほどに――そうして、生命の力を取り戻したかと思った途端、レオナルドの後を追って逝くことを選ぶほどに。
 結局、二人の間を引き裂くことは、死によってすらできなかったと云うことなのか。
 レオナルドのよく描いた“魂の双生児”とは、あるいはあの二人のことだったのだろうか? 対である二人、ともに生き、ともに死ぬ、そのように密接で、二つ身でありながら魂はひとつの、そのようなものだったのだと――だからこそ、別れて後、ひとりは死に、ひとりは生きながら死んでいたと云うのか?
 ――お前たちは、大馬鹿野郎だ……
 ミケランジェロは、心の裡で叫びながら、“聖母子”の石材に鑿を入れた。
 何故、手を離したのだ、その後すぐに、あっという間に死んでしまうくらいなら。何故、戻らなかったのだ、その後六年間を、死んだように生きるくらいなら。
 そして何故、あの時自分は取って返さなかったのだ、不吉な運命を予感していながら。
 ――大馬鹿野郎だ……
 自分自身も。
 サライを止められたはずだと思いながら、しかし同時に、あの男は決してそれを許さなかっただろうともわかっていた。別れ際、最後に大きく手を振って、きっぱりと身を翻した姿を憶えている。
 ――行きなよ、ミケランジェロ
 そんな言葉で背を押して。
 ああ、そうとも、俺は往く――ミケランジェロは、木槌を振り上げながら、胸の裡で叫んだ。
 自分は独りだ。妻もなく、あの二人のような“魂の片割れ”もない。自分は、ただ独りだ――だがそれも、ひとつの“自由”と云えはすまいか?
 それならば、自分は独りのまま、この“自由”と連れ立って、どこまでも行こう。行けるところまで行き、生きられるところまで生きて、あの二人が見ることのできなかったものを見、作ることのできなかったものを作ろう。ああ、そうだ、それこそが、サライの右手を受け取った、自分に課せられた義務なのだから。
 気がつくと、四つの時の像のうち、女の姿をとったもの――“曙”と“夜”――はサライの顔に、男の姿に擬したもの――“昼”と“黄昏”――はレオナルドの顔に、それぞれ似てきてしまったようだった。
 そして、中心に据えるべき“聖母子”は――
 ――何だ、お前たち、そんなにもくっついていたいのか。
 ミケランジェロは、思わず微苦笑した。
 青年のような面差しの聖母が、膝の上にのせた幼児キリストに乳を与えている。上体を大きくひねった格好で、母親の胸に顔をうずめるキリストの頭は、細かい巻き毛に覆われている――ミケランジェロのものとは違う、丁度サライの髪のように。
 組んだ左足の上に息子をのせた聖母マリアは、右手で身体を支え、左手で幼児の身体を抱えている。その顔は、かつてメディチの館で見た、ヴェロッキオの「ダヴィデ」に良く似ていた――つまりは若かりしレオナルドの顔に。
 すこし、淋しい顔だ――だが、それも仕方のないことかも知れない。
 レオナルドは、フランスで独りで死んだ。サライも独り、ミラノの地で殺されてしまった。二人とも、淋しさを抱えたままで――だから、その姿を映したこの像が淋しげなのは、仕方のないことなのだ。
 そうして、だからこそ、この大理石の上だけでも、あの二人がともにあって、離れまいとする姿を作り上げてやりたかったのだ、そう、ミケランジェロこそが。
 ――お前たち、もう、天上で再会できたのか?
 神の国があるのかどうか、ミケランジェロにはわからない。けれど今は、あの二人のために、あってほしいと思っていた。
 神の国で、あの二人は再会するのだろう。もしかすると、ジュリアーノもそこにはいるのかも知れない。
 それならば、死は、それほど恐れるべきものでもなくなるだろう。彼らが待っていてくれるかも知れないのだと思えば、それだけで死の恐怖など消えてしまうだろう。
 だが、ミケランジェロが彼らのところへ行くのは、まだ先の話だ。
 この墓廟と、ユリウス二世の墓廟を仕上げたなら。そうしたらやっと、彼らの許へも逝けるだろう。胸を張って、レオナルドに、サライに、相対すこともできるだろう。
 それまでは、この彫像たちとともにあるとしよう。再びまみえる寸前まで、この像たちとともにあれるよう、ゆっくりと、丁寧に仕事をしよう。ジュリアーノの像は完成間近だが、正面の耳がまだ彫れてはいない。人の目に触れる側であれば、未完成だと云い逃れることもできるはずだ。
 そうして、すべてが収まるべきところに収まった直後に、この世を去ることができたなら、それは何と云う幸福だろうか。
 ミケランジェロは、半ば姿を現している聖母子を見上げ、その白い肌を撫でると、にっこりと笑みをこぼした。



 フィレンツェ中心部にほど近い、サン・ロレンツォ聖堂の一角に、ミケランジェロの未完の作品群はある。
 新聖具室――ブルネッレスキの手になる旧聖具室と対応して、このように呼ばれる――メディチ家礼拝堂とも呼ばれるその一室は、部屋ひとつすべてがミケランジェロの作品だ。
 青白いカッラーラ産の大理石に覆われたそこに足を踏み入れると、正面に祭壇が設けられているのが見える。ここでは、今でも毎日ミサがあげられている。
 だが、部屋の本当の中心は、その祭壇の真向かいにある墓廟の方だ。
 墓廟、と云っても、そこにあるべき壁龕などはない。つるりとした、二人のマニフィコの名だけが刻まれた大理石の台の上に、ただ「聖母子」が据えられている。両側には、弟子たちの手によって刻まれた、聖コスマスと聖ダミアヌス、どちらもメディチ家守護聖人だ。
 石柩もなく、二人のマニフィコ――ロレンツォ・イル・マニフィコと、その弟ジュリアーノ――の亡骸は、台の下に納められている。
 ミケランジェロは、二人のメディチのための墓廟を構想していたのだが、その全容は、今に残るデッサンを検証しても、未だに明らかにはされていない。「聖母子」を中心に考えていたことは確かなので、弟子たちが二聖人の像を彫り足し、今のようなかたちに配しただけなのだ。
 二人のメディチのための墓廟に向かって、左手の壁にはヌムール公ジュリアーノの、右側の壁にはウルビーノ公ロレンツォの墓廟が、それぞれ設けられている。
 こちらも未完成ではあるのだが、それでも二人のマニフィコたちの墓とは違い、すくなくとも壁龕は設けられ、石の柩がその前に据えられている――どちらの廟も、壁龕には空白ばかりが目立ったが。
 ウルビーノ公ロレンツォは、ローマの将軍の衣装をつけ、冑をかぶった姿で坐っている。口許に片手を当て、F.ハートの言に拠れば「悪意に蝕まれて」坐るその姿は、他の肖像で伝えられるよりも整っており、実際、当時のフィレンツェ市民からも、美化しすぎているとの批判の声が上がったと云う記録が残されている――ミケランジェロは、?百年経てば、誰にもわからなくなる?との言葉で、その声に応えたと云うが。
 ほとんど未完成なものばかりの彫像の中で、唯一ほぼ完成と云って良いのが、ヌムール公ジュリアーノ――その右耳を除いては、すべてが美しく彫りこまれ、仕上げの磨きも全体に施されている。右耳――壁龕に収められた時、人々に向けられる側の耳――を、何故ミケランジェロが未完成のままにしたのかはわからない。
 今、墓廟の中央に据えられたジュリアーノ像は、未完の耳を訪れる人々に向けて、静かに坐っている。
 二人の?将軍?の柩の上には、四つの時の寓意像――すなわち「昼」「夜」「曙」「黄昏」――も、そのすべてが未完成のままだ。
 中でも特に名高いのが、ジュリアーノの柩の上の「夜」――身を折り曲げて深く眠る壮年の女の像。悪夢の仮面を踏みつけて眠る女の像は、後の「レダ」――失われた、白鳥と交接する眠るレダ――の原型になったとも考えられている。
 そして、二人の“将軍”のまなざしの先――フィレンツェで最も美しい聖母は、静かに坐している。
 膝の上にのせられた幼児キリストは、母の左胸に取りすがり、乳を含んでいるようにも、ただしがみついているようにも見える。
 それを左手で抱き寄せる聖母マリアは、身体つきも面差しも、青年であるかのように見える。すこしかしげられた首、夢想するように見開かれた目、かすかな微笑みを浮かべる唇――粗彫りの段階であるからか、その貌は薄紗のヴェールをかけられたかのようで、それが一層、この聖母の美しさを際立たせているようだ。
 ミケランジェロの聖母子像の、ひとつの頂点と云われる「メディチ・マドンナ」――だが、その面差しが、現在ウフィッツィ美術館に納められている、ヴェロッキオの「ダヴィデ」像に似ていることを指摘するものはない。そして、この聖母子のモデルが何者であるかを問うものも、また。
 すべては、五百年の時の彼方に埋もれているのだ――



      ‡ ‡ ‡



 世界は昏い。
 わかっている、自分はそろそろ死ぬのだろう。
 長かった、と思う。生まれてこの方九十年を、ほとんどがむしゃらに駆け抜けてきた。
 ああ、だがその間に、何かひとつでも自分のなし遂げ得たことがあっただろうか?
 ヴァチカーノの「ピエタ」、フィレンツェの「ダヴィデ」、それだけではないか。
 システィーナの絵? あれは、彫刻家の仕事ではない、云わば余技のようなものだ。パオリーナ礼拝堂の二点のフレスコも同じこと。
 彫刻家として歩んできたはずの人生で、自分は何も、確たる仕事をなし得なかったではないか。
 ユリウス二世廟は、「モーゼ」のみを完成させ、他は余人の手に委ねた。メディチ礼拝堂も、数々の彫刻こそ納めはしたものの、すべてが未完のものばかりだったではないか。
 だが、もはや、それらに手を入れる力は、自分にはない。老いて盲い、槌を持つ力すらない今の自分には。
 すべては往き、すべては去った。愛しい人も、親しい友も、若さも、時も、すべてが自分を置いて過ぎ去ってゆく。
 もう、いいだろう。自分は充分に生きた。この世にあると云う苦行から、もうそろそろ解き放たれても良いはずだ。解放を望むことを許されたとしても。
 目が見えず、息も苦しい。そろそろだ、もうそろそろ――御使いが現れて、自分の運命を告げるのは。
 ふと――
 まわりの様が一変していることに気づき、首をかしげる
 あたりを満たす、灰色の霧――“灰色の”? 何故、見えぬはずの目に、色がわかると云うのだ。あるいは、自分は既に死んでいて、それ故に、肉体の目に頼らずとも良くなったと云うことなのか?
 だが、そうであるとするならば、この灰色の霧のたちこめる場所は一体、天国なのか、地獄なのか。
 ――天国なわけはないな。
 苦笑がこぼれ落ちる。
 神の摂理にも従わず、一生を独身で過ごしてきた。悪徳に手を染めはしなかったが、さりとて功徳を積んだとも云い難い。孤独と云う“自由”を謳歌した自分に、神の国への扉が開かれるとも思われぬ。
 きっと、ここは地獄への道の途上なのだろう――あるいは、魂を清める煉獄までの。
 と――
 ――ミケランジェロ
 遠くから、名を呼ぶ声が聞こえた、ような気がした。
 懐かしい――ああ、そうだ、これはサライの声ではないか?
 ――こっちだ、ミケランジェロ! あんたも来いよ!
 声のする方へ目をやれば、灰色の霧のたちこめる向こうに、淡く輝く何かが見えてきた。
 あれは何だろう? 天使か、単なる幻影か?
 それとも、
 ――お前なのか、サライ
 四十年も前に別れたはずの、あの男の声なのか――悪魔の囁く声でなく?
 ああ、だがそれならば、確かに自分は死んだのだ。死んで、サライの――あるいは、レオナルドも?――待つところへ、招かれてでもいると云うのだろうか。
 ――早く来いってば!
 笑いを含んで、声が云う。その、何と楽しげな声音であることか。
 ――今、行く!
 叫び返す、自分の声にも、不思議なほどに力が漲っている。
 ふと見下ろした手には、しわひとつない。一番充実していたあの頃――ちょうど、三十あたりの、力に満ちた手に戻っている。
 ――今、行くぞ!
 そう云って走り出す、その足もひどく軽い。
 霧の中を、全力で走っていると、光が徐々に近づいてくるのがわかる。
 ああ、あれは“光る何か”ではない。そうではない、洞窟の出口、館の扉のように、光あふれる場所へ続く門戸なのだ。
 そうしてその先で、見覚えのある影が、大きく手を振るのが見えた。
 サライだ、あの時と同じように手を振るサライ。お前か、お前なのか。
 あの光のあふれる場所がどこであれ、サライが――そして、おそらくはレオナルドも――いる世界ならば、そんなに酷い場所と云うこともないだろう。それが、天国であれ、地獄であれ。
 声を上げて笑いながら、ミケランジェロは、眩い光の中へと、その足を踏み入れた。


† † † † †


はい、みけの話、完結。
これでオシマイ(勝さん風に)。
“左手の聖母”=メディチ家礼拝堂の聖母子像は見てみたいんだけどなァ……(海外行くだけの休み取れねぇ!)



うむ、やはり最終章のアレの折りこみ方も拙いわ……今だとこう云う“ハァイ! いきなりですが作者です!”的な書き方はしないなァ。だって下手そうに見えるし(この時は実際に下手なわけですが)、司馬遼的考察挿入に長けているならともかく、結構普通の小説にこう云うの突っこむのって難しいし、ねェ。
ってわけなので、先生の話とか鬼の話とかはこう云う描写は入れてません。
近い書き方? なのは重盛の話ですが、あれは普通の処理で済んだもんな……
この話のそこらへんは書き直したい気がしないでもないのですが、実際やるとなるとどうしたらいいのかわからん……多分全部ばっさり切っておしまいにするなァ……
うまい処理がわかる方あったら教えて戴きたいですわ……



でもって、絶賛シュメル文化勉強中なのですが、何故か神話があんまり頭に入ってこない……都市文明云々は面白く読んだんですが、アレかな、日本神話に興味が(イマイチ)持てないのとおんなじなのかなァ……神社仏閣にはよく行くのですが、神様でピンとくるのが八幡系だけ(いや、世間的なイメージと自分のとがしっくりくると云うだけの意味ですが)だからかしら……『ギルガメシュ叙事詩』はものすごくわかるんですが、エンリルとかがな……あ、イナンナはものすごくよくわかりますがね。ウェヌスとかアプロディテとかフレイヤとか、まぁそう云うタイプだもんなー。
とりあえず、中公新書のを読み終わったら、一旦網野とか宮田登とかの対談『列島文化再考』(ちくま学芸文庫)を読もう……アタマリフレッシュ……



ってわけで、みけの話はおしまいです。
次はやっとこ! 鬼の話の続き〜ラストまで! 先生の話の続きは、それまでに覚悟完了できるだろうか……

左手の聖母 21

「あんた、そろそろフィレンツェに帰った方がいいぜ」
 唐突に、サライが云った――ようやく春の気配が感じられるようになった、とある日のこと。
 ミケランジェロは驚愕したが――同時に、何となく、そう云われる予感のあったことにも気づいていた。
「俺が、邪魔か」
 それでも素直に頷きかねて、そう問えば、サライは慌てて両手を振った。
「そ、そんなんじゃねぇよ! そんなんじゃねぇけど……」
 云って、溜息ひとつ。
「――ほら、あんたさ、こっちに来てからずっと、ほとんどどこにも連絡取ったりしてねぇだろ。右手も、もう痛まねぇみたいだしさ、一遍、フィレンツェに戻って、いろいろ連絡取ったりとか、した方がいいんじゃねぇの? 流石にヤバいだろ、そろそろ一年になるぜ」
 宥めるようなもの云いだった。
 ――こいつは、俺をフィレンツェに帰したがってる。
 ミケランジェロは確信した。
 サライは、自分を帰したがっている。それは確かだ――だが、何故?
 彼が、ミケランジェロのことを煩わしく思っているわけではないのはわかっている。
 暖かくなってきたので、またミラノ市中への散歩に出るようになっていたが、サライは何も云わずに付き合ってくれているし、冬枯れの葡萄園に、春の息吹を探しに出たときにも、楽しそうに枝々を見て回っていたのだ。
 この唐突なもの云いには、何かがある――だが、ミケランジェロには、その“何か”に踏みこむことはできなかった。サライが許さなかったからだ。
 もちろん、サライが言葉に出してそう云ったわけではない。そうではなく、そのまとう空気が拒むのだ。訊くな、知ろうとするなと、問いかけるまなざしを押し戻すかのように。
 だがまぁ、それは仕方のないことだ、とミケランジェロは思っていた。
 所詮、自分は闖入者だ。宿主であるサライが“行け”と云えば、出て行かざるを得ない立場でしかないのだ。
 それに――やってきた当初には、奇妙な不自然さのあったサライの日々も、今やすっかり普通のものになった。そろそろ、お互い手を離してもいい頃なのかも知れない――肩を寄せあって過ごす冬は、もう過ぎ去ってしまったのかも。
「――そう、だな……」
 やや暫くの沈黙の後、ミケランジェロは頷いた。
「俺も、いつまでもここでぬくぬくとしているわけにはいかんのだろうな――そうだな、俺も、フィレンツェへ戻ることにしよう」
 このまま、法王やその他の依頼人、父や兄弟たちから逃げ続けても、どのみち逃げ切れるわけなどないのだ。
 そうであれば、いっそすっきりと決着をつけるためにも、一度フィレンツェへ戻るべきなのだろう。
「そうしなよ」
 云ったサライは、どこかほっとしているようにも見えた。
「云ったろ、俺――あんたの作るものはすごいって。……そろそろ、手も大丈夫なはずだ。俺、あんたに、もっといろんなものを作って欲しいんだよ」
「そうか……そうだな――手が本当に大丈夫ならな」
 右手は――確かに痛まなくなってはいた。だが、まだものを掴むのが怖ろしく、ミケランジェロは、槌はおろかペンすらも、握ってみてもいなかったのだ。
 サライは、それにばかりはにっと笑った。
「大丈夫、俺の手当ては効くって、近所の年寄り連中にゃ評判なんだぜ?」
 確かに、サライの手当てを求めてやってくる近隣の老人は多かった、が、
「俺は年寄りじゃない!」
「先生みたいなこと云うなよ。五十過ぎりゃ、誰だって年寄りだろ、普通」
 サライは大きく笑って、ミケランジェロの背中をばしんと叩いてきた。
「ま、でも、あんたはまだまだいろいろやれるさ。大丈夫、俺が保障するよ」
「お前なんぞに保障されても、信じられるか!」
 噛みつけば、笑いが返る。
 昔に戻ったようだと、ミケランジェロは思った。
 フィレンツェで、ヴァチカーノのベルデヴェーレ宮殿で、自分たちはいつもこんな風だった。
 だがそれは、いつもともにあったのではなく、時折会っていたからこそで。
 そうだ、そろそろ別の道を歩みだすべき時が来たのだ。サライは己の往くべき道を見出し、ミケランジェロはこれまでの人生の始末をつけなければならぬ。
「――フィレンツェに帰る」
 ミケランジェロは、遂に、そう決意した。
「支度ができたら、すぐに発とう――お前の云うとおりだ、いつまでも逃げているわけにもいかん。けりは、きちんとつけなければな」
「そうだよ――だけど、淋しくなるな」
 自分で勧めておきながら、そんなことを云うのか。
 サライのもの云いに、ミケランジェロは思わず笑いをこぼした。
「お前、云ってることが矛盾しているぞ」
「五月蠅ぇな、淋しいもんは淋しいんだよ。仕方ねぇだろ」
 サライが唇を尖らせる。
 ああ、そうとも、ひどく淋しい――ここを去って、サライと別れねばならない、そのことが。
 だが、
「お前は、ここにいるんだろう?」
 この、レオナルドの思い出に満ちた家に。
 それならば――またミケランジェロが訪ねてくればいいだけの話だ。そうとも、フィレンツェとミラノは、決して地の端と端ほど離れているわけではない。また、来れる。その気になれば、いつであれ。
 それに、ここには、レオナルドの絵があるではないか。あの男の、あふれんばかりの愛の証が。
「……そうだな」
 サライが、かすかに笑う。
「よし。では、帰ろう」
 一度戻って、様々なことにけりをつけてしまおう。
 そう云ったミケランジェロを、サライは黙って、微笑みを浮かべて見つめていた。



 よく晴れた春の日、ミケランジェロはミラノを発つことにした。
 荷物などはほとんどない。来たときと同じに、ほとんど着の身着のままで、フィレンツェに戻るのだ。
 サライとバッティスタが手配をしてくれて、帰りは、フィレンツェまで行く商人の馬車に便乗させてもらえることになった。
「じゃあ、俺はそろそろ行く」
 小さな袋を担いで、ミケランジェロは戸口に立った。
「ああ、気をつけて行きなよな」
 サライは戸口まで出てきて、ミケランジェロを見送ってくれた。
「かたがついたら、また戻ってくるさ」
 右手の動かないことを皆に告げ、契約をすべて破棄し終わったなら。
 だが、サライはくすりと笑っただけだった。
「かたなんかつかねぇよ。あんたは、フィレンツェに戻ったら、溜まった仕事に追われて、てんてこ舞いすることになるさ」
「だが……」
「云ったろ、あんたの右手は大丈夫だって。――ま、でも、戻ってくるなとは云わねぇよ。仕事がひと段落ついたら、また来りゃいいだろ」
 そう、だろうか?
 確かに、右手はほとんど痛まなくなった。気候が良くなっただけではなく、確実に、ミラノへやってきた時よりも、格段に状態は良くなったと感じられる。
 だが、これですぐさま彫刻のための木槌を持つとなると――正直、ちゃんと仕事ができると云う自信は、かけらも持つことができなかった。
 ミケランジェロが逡巡していると、
「大丈夫だって。……しょうがねぇなぁ」
 溜息をひとつついて、サライは、自分の右手で、ミケランジェロの右手をぐっと掴んできた。
「そんなに心配なら、いいよ、俺の右手、持ってけよ」
「何?」
 サライの右手を? そんなことなどできるわけがない――言葉どおりの意味でも、そんなことは不可能だという意味でも。
「俺の右手、あんたにやるよ。――本当は、先生にあげられてたらよかったんだけど……」
 一瞬、その顔に、淋しげな色が浮かんだが――次の瞬間には、それは綺麗に拭い去られてしまっていた。
「だから、いいよ、あんたが持ってけよ。俺は、別に右手がどうなってたって、全然平気だからさ」
 その言葉とともに、サライの手に力がこめられた。
 ミケランジェロの右手を掴む、強い力――それとともに、熱が、力が、その掌から流れこんでくるような気がした。
 ――熱い……!
 焔に触れられたかのように、ぱりぱりと指先が痺れるようで、それがまた、腕をめぐって、身体全体にも及んでくる。
 だが、それは一瞬のこと。
「……ほら、もう平気だ。あんたの右手は大丈夫だよ」
 そう云って、サライは腕を離し、肩をぽんと叩いてきた。
 右手は、まだどこか痺れるようだ――だが、それは決して麻痺したと云うことではない。むしろ、自分のものではない強い力が、身のうちを巡っていったかのような、充足と虚脱の、奇妙な感覚があった。
「だから、あんたは、安心してフィレンツェに帰んなよ」
 どうあっても、サライは自分を帰したいらしい。
 だが、何故、こうまで急ぐのか。
 考えた瞬間、何か、不吉な予感が、身の裡を駆け抜けていった。
 ここでこのまま別れたら――サライとは、二度と会うことはないのではないか。
サライ、やっぱり俺は……」
 振り返って、口を開く。やはり、フィレンツェには帰らないと、そう言葉にしようとして。
「馬鹿なこと云ってんなよ」
 サライが、笑いながら云った。
 それは、心からのと云うよりも、ミケランジェロの言葉を封じようとするかのような、妙に力のこもった笑顔だった。
「あんたを待ってる人間は、フィレンツェにもローマにも山ほどいるんだろ。――それに、あんたには、養ってやんなきゃならない家族もあるはずだ。俺みたいなのなんかにかかずらわってないで、その人たちのところに戻んなよ」
 明るい、反駁を許さぬ強い声だった。
「行きなよ、ミケランジェロ。馬車が待ってるはずだぜ」
 その言葉に背を押され、ミケランジェロは歩き出した。
 新しい葉の芽吹いた葡萄の木々の間を、とぼとぼと歩き、すこし行って振り返る。
 サライは、戸口に立って、手を振っている。
 それを見て、また歩き、すこし行っては振り返る。
 帰ってはいけない、と、心のどこかで声がした。ここで別れたらこれっきりだ。帰ったら、きっと自分は後悔するだろう――だが、サライの笑顔が、戻ることを許さなかった。
 すこし歩いては止まって、振り返る。段々、サライの姿が小さくなる。もう、表情も読めぬほど。
 とって返そうか、サライがまだ立っていれば、やはり帰らぬと、あの家まで駆け戻ろうか。
 と――
 サライがふと背を伸ばし、大きく手を振って、踵を返すのが見えた。その姿が戸口から消え、扉が閉まる――何かを、未練を、断ち切るように。
 ――行きなよ、ミケランジェロ
 サライの呟きが聞こえたような気がした。
 そうだ、もう戻れない。自分は、フィレンツェへ帰らなければならない。
 ミケランジェロは肩を落とし、とぼとぼとミラノ市中へ――馬車の待つ商家の前へと歩き出した。



 商人の馬車に乗って、フィレンツェへ帰りついたのは、まだ新緑の季節のうちだった。
 ミケランジェロは、ひそやかにフィレンツェ市中に戻り、あちこちに連絡を取った。法王や依頼人、友人や家族たちに、長の不在を詫び、戻ってきたことを告げる手紙を書いて。
家を借り、放置していた石を見直し、友人知人の手紙に返事を返し――そうやって慌しくしているうちに、ミラノから、一通の手紙が届いた。
 差出人は、バッティスタ・デ・ヴィラニス――サライが死んだと知らせる手紙だった。


† † † † †


みけの話。さよならミラノ。
そしてさよならサライ



サラの死因等はまぁ次回に置いといて。
みけは行方くらまして、翌年には戻ってたそうですね。
と云っても、そもそも失踪してたと云うことが載ってるのが、ロマン・ロランの『ミケランジェロの生涯』くらいなので、詳細はまったくわからんのですが。コンディヴィとかトルナイとか田中英道とかは書いてなかったはず(一応その時期の記事だけチェックしたことが)。多分、手紙の日付の解釈によって、いろいろ出てきてるんだと思います。幕末だってそう云うのある(安富の手紙とか)んだから、もっと昔のルネサンスなんか、推して知るべし、ですよねー。
まぁ、みけもああ云う人なので、ぐあぁぁぁとなったら失踪くらいはしそうなんですけども。



しかしまぁ、はじめから読み直してみると、特に前半、歴史的事実やら何やらの折りこみ方が拙いわー。切なくなるほど拙いわー。
まぁもうかれこれ九年ぐらい前(このブログはじめる前)だから、もちろんものなれてないとこはあるんですけども!
とりあえず、多少なりとも進化はしてるんだなぁと思うと、ほっとはしますね。
人間、成長しなくなったらおしまいなんだと思うので。
あとは、小説としての面白さと、歴史としての面白さがうまく融合させられればいいんだけどな……要精進。



ってわけで、次はみけの話最終章!
終わったら鬼の話だ!

左手の聖母 20

 収穫祭が終わると、段々秋の気配が冬のそれへと変わっていくのが感じられるようになってきた。
 葡萄の木はすっかり葉を落とし、冬の眠りに入りはじめたようだ。
 ミケランジェロも、朝晩の冷えこみで、背中や腰が痛むようになってきていた。
「ミラノは寒いからな。あんた、冬場はしっかり着こまないと、身体中が痛んで大変なことになるぜ」
 サライは云いながら、膏薬を貼ったり、香油を使って身体を揉み解したりしてくれた。
 確かに、ミラノはフィレンツェよりも寒さが厳しいようだった。
 その上、ひどいことに、十一月あたりは雨や霧でじめじめとして、古傷持ちには良くない季節なのだと云う。
 ミケランジェロは、聞いただけでもうんざりだった。
「どうする? フィレンツェに帰るんだったら、今のうちだぜ」
 と云われても、右手の動かないこの状況では、帰ったところで仕方がないではないか。
「まだ、いても構わんのだろう?」
 そう問うと、サライはかるく吐息した。
「俺は全然構わねぇけどさ――覚悟しなよ、ミラノの冬は厳しいぜ?」
「云うほどかどうか、わかるものか」
 そう云って、ミケランジェロはにやりと笑ってやった。
 とは云え、日ごとに冷えこんでゆく朝などは、フィレンツェに戻れないことが、非常につらく感じられてならなかったのだが。
 しかもこれが、まだまだ先まで続いて、ますます厳しい寒さになっていくのだ。まったく、考えただけでも憂鬱なことだった。
 散歩も、よく晴れた日の、暖かい午後だけになり、それ以外は、家の中の、居間の暖炉の傍で過ごすことが多くなってきた。
 そんなある日、ミケランジェロはふと、サライが割合頻繁に、どこからかの手紙を受け取っていることに気がついた。しかも、その手紙を、封すら切らずに戸棚に放りこんでいることにも。
 サライ個人のことだ、構うべきでない――そんなことはわかっていたが、その手紙の数――思い返してみれば、ミケランジェロが訪ねてきたときから既にそうだったようだから、結構な数にのぼるはずだ――を思うと、何も云わずにいるのは、彼の性分として難しかった。
「――その手紙、読まんのか」
 遂に、サライが新たな手紙を受け取った日に、ミケランジェロはおずおずと問いかけた。
 サライは片頬を歪め、手紙をひらひらと振ってよこした。
「読まねぇよ。フランチからだ、書いてあることは、いっつも同じだからな」
 フランチ――それは、レオナルドの養子になったと云う男のことか。
「そ、そうか……」
 それでは、二人の間には、いろいろと複雑な感情があるだろう。片やはレオナルドの正統な後継であり、片やはレオナルドに最も愛された男である――片やはその死に水をとり、片やは傍にいることもできずに、ミラノへ帰った。
 ああ、そう云えば、あのベルナルディーノと云う男が云っていたか――レオナルドの絵を渡せと云ってきているのだと。
 では、その手紙は、そんな内容のものなのか。レオナルドの絵を渡せと云う?
 ミケランジェロが黙りこむと、サライはふと笑い、
「……まぁ、でも、もう読んでやってもいい頃かな」
 と云いながら、手紙の封を切った。
 そうして、長椅子に坐って読みはじめる。その顔に浮かぶ、かすかな苦笑――“やはり”とでも云いたげな、それとも、何かの諦観を含んだような?
 内容を教えてはくれまいと思いながら、ミケランジェロは、サライの様子をじっと窺っていた。
 やがて、サライはひとつ溜息をつき、苦笑しながら手紙を折った。
「……絵を寄越せとさ。お宮仕えも大変だよな、フランチの奴、向こうの陛下にせっつかれてるみたいだ。――だけど、渡さねぇよ。あの絵は、死ぬまで俺のものだ」
 その言葉を口にした瞬間のサライの表情に、ミケランジェロはどきりとした。
 何と云う表情だ――甘く、昏く、どこか淫猥な、あの「洗礼者ヨハネ」と同じ笑み。
 だがもちろん、その笑みはミケランジェロに向けられたものではない。レオナルドに――死んだあの男に向けられたもの。
 と――
 サライは、ふと息をつき、にやりと笑った。
「……ま、こんなこったろうと思ったけどさ。――だけど、そうだな、そろそろ返事を書いてやらないと、フランチの奴が大変そうだよな」
 返事を書いてやるのか――だが、“渡さない”と云う返事であれば、出すも出さぬも同じことではないのか。
 その問いかけを、ミケランジェロは口にすることができなかった。
 ペンを取って返事を書きはじめたサライの顔が、何か、不思議な幸福感に満ちていたので。
 多分、サライは肚を決めたのだ。
 ――あの絵は、死ぬまで俺のものだ。
 そう云わしめる何かを得、それを誇らかに宣言することができるようになったのだ。
 それは、サライが、レオナルドを抱えたままで歩き出そうとしている、その証のようにミケランジェロには思われた。
 良いことだ、それこそがミケランジェロの、そして他の人々の願っていたことなのだ。
 だが――
 胸の裡に、じわりと不安が忍びこんでくる。
 ?死ぬまで?――その言葉が、胸の奥に不安を呼び起こすのだ。
 絵を欲しがっているのは、メルツィの後ろにいる、フランス王フランソワ?世であるはずだ。彼は、レオナルドに惚れこんで、絵を描くこともままならなくなった“画家”を、己の所持する城館を与えて庇護しさえしたのだから。
 そうして――今や強大な権力を持ち、この半島にまで版図を拡げるかの王が、たかだか画家の従僕――弟子でなければ、そういうことになるだろう――ひとりに、ここまで逆らわれて、内心穏やかであろうはずがない。
 ――サライ、お前、本当は……
 生きる気など、とうに失せてしまっているのか? フランス王を挑発してみせることが平気なほどに、心底から生への執着を断ち切ってしまったのか?
 そこまで考えて、ミケランジェロはぶるぶると頭を振った。
 考え過ぎだ。まさか、いくら何でも、自ら死地を招くようなことなど、サライはするまい。
 それに、今から返事を出したとて、ヴァプリオ・ダッタにいると云うメルツィにはともかく、フランス王にはいつ届くものか――冬のアルプスに遮られることになれば、手紙が届くのは春のこと。それより先に届いたとて、フランスとミラノは遠いのだ。そうそう大事には至るまい、いや、至らないでくれ――
「――どうしたよ?」
 サライが、振り返ってくすりと笑った。
「変な顔してるぜ、あんた。まるで、うっかり食った鰯が、まだ生きてて胃袋で暴れてるみたいな顔だ」
「いや――」
 苦笑とともに首を振りながら、ミケランジェロは、本当に生きた鰯が腹の中で跳ねているのかもしれないと、胃の辺りに手をあてた。



 冬は、足早にやってきた。
 十一月に入って、ミラノは雨と霧の日々が続くようになった。雨は、時に霙まじりになって、ミケランジェロにとっては辛い、冬将軍の到来の先触れとなっていた。
 湿気と寒さとで、身体中が軋む。節々の痛みも酷く、眠る前にかなりの酒を入れなければ寝つけないほどだった。
 サライに云わせれば、一月二月はさらに寒さが厳しくなるのだそうだが、冗談ではなかった。これ以上の寒さであったなら、ミケランジェロは、夜中一睡もできなくなるのではないかと思われた。
 サライは、もちろんひどく気をつかってくれた。毛布を何枚もミケランジェロの寝台に重ね、眠る前に暖炉の前に坐らせて、身体が温まりきってから眠れるように計らってくれた。
 それでも、真の寒さの前には、それもあまり効き目はなく、ミケランジェロは、寝台の中で、身体の痛みと寒さとで眠れぬ夜を過ごしたり、あまりに耐え難い夜などには、起き出して、暖炉に再び火を入れたりしていた。
 サライは――大概、ミケランジェロがそうやってごそごそやっていると、気がついて階下へ下りてきて、葡萄酒を温めたり、火を掻き立てたりと、何くれとなく世話を焼いてくれた。
 あるいは、気がつくとサライはまた、蝋燭をひとつ灯しただけで、レオナルドの部屋で坐りこんでいたりもするのだ。白い布を被せた「婦人像」をじっと見つめ。
 それを見つけると、ミケランジェロは、戸口の外から声をかけるのだ。
「おい、寒くて敵わんのだ。何か、温かいものでも作れ」
 そんなことをするな、と云ったところで、サライが聞きはしないことなどわかっていたから――そうやって、自分の用にかこつけて、サライをそこから引きずり出すのだ。
 そうすると、彼は苦笑しながら、
「……まったく、しょうがねぇな、あんた」
 と云って、部屋を出てくる。
 もちろん、サライはわかっているはずだ。ミケランジェロが、そうやって、彼を絵の前から引き剥がそうとしていることなどは。
 それでも、文句ひとつ云わずに付き合ってくれる。不思議なことだ。
 ミケランジェロは、暖炉の前で丸くなり、毛布にくるまって震えながら、身体が温まるのを待つ。そのうちに、サライが、温めた葡萄酒に蜂蜜を落としたものを持ってやってくるのだ。
 そういう夜には、ミケランジェロは、眠れぬ時間を、サライととりとめのない話をして過ごすのだった。
 話題は、昔の話が多かった。フィレンツェで、ローマでの、レオナルドの話などが。
「――そう云やあんた、ローマで目許を蚤かなんかに食われなかったか? ……先生がさ、何かそんな絵描いててさ、顔があんたのだったから、おっかしいなぁって思ってたんだけど」
「ああ、いつぞやの夏に、そう云えば――確かに、お前らがローマにいた時だったが――レオナルドが? 会わなかったぞ?」
「でも、確かにあんたの顔だったぜ。遠目にでも見てたのかな?   ――その後でさ、先生、俺に、何とか云う僧院へ、蚤に食われた時の治療法を教えてこいとか云ってきたな。わけわかんねぇと思ったけど……もしかして、あんたのいた僧院だったのかな、あれ」
「確かに俺は、あの頃はドメニコ会の僧院に厄介になっていたが……」
「ドメニコ会! じゃあ、やっぱりそうだ! そんな話、聞かなかったか?」
「そう云えば、修道士から、食われたところをよく洗って、強い酒で拭いて清潔にしておけと云われたな。――まさか、あれがそれか?」
「そうだよ、それ! ……そうか、やっぱりあれ、あんただったんだなぁ……」
 長年の謎が解けたかのように、しみじみとサライが云う。
 ミケランジェロも、感慨に浸っていた。
「そうか、レオナルドが……」
 ずっと、ただ避けられ、嫌われているのだとばかり思っていた。昔、サンタ・トリニタ寺院の傍で投げかけた言葉を思い出し、それも仕方のないことかと思っていた。
 だが、案外そうではなかったのかも知れない。ミケランジェロが、レオナルドのことを気になって仕方がなかったように、向こうもこちらのことを気にしていたのかも。
 そうだったなら――本当に、レオナルドが生きているうちに、話をすることができていたら良かった。レオナルドの絵、レオナルドの理論、レオナルドの――何もかも。話して、聞いて、語らって、そうすればきっと、さらなる傑作を、お互い生み出し得ていたのだろうに。
 まこと、冬は追憶の季節だった。
 あるいは、サライミケランジェロを煩わしく思わないようであるのは、それ故であったのかも知れない。サライの追憶を、ただ傍で懐かしむだけのミケランジェロは、あれこれ云いたがる、あるいは腫れ物に触るように接してくる他の輩よりもずっと、ともにあって煩わしくないと感じていたのかも知れない。
 追憶に浸りながら、やがて来る春を待つ――冬はまた、まどろむ季節でもあった。
 だが、そうもあろう、冬は、木々も虫も動物ですら、すべてが眠りにつく季節ではないか。そうして春にはまた、彼らは眠りから醒めて、新しい季節を謳歌するではないか。
 この冬は、ミケランジェロにとっては、そのような刻だった――そして、おそらくはサライにも。
 だが、まどろむように過ごしても、時は確実に過ぎてゆく。
 そうするうちに、厳しい冬の向こうから、春の確かな足音が聞こえはじめていた。


† † † † †


みけの話、続き。
いんたーみっしょん。



えーと、先生によるみけ(?)のスケッチは、確か解剖手稿の中にあったような――都立図書館でファクシミリ版見た時に載っててコピーした記憶があるので、解剖手稿かパリ手稿のどっちかだったはず。マドリッド手稿や鳥の飛翔に関する手稿、トリヴルツィオ手稿とかは国会図書館だったけど、確か都立図書館だったと……解剖手稿だったかなー。タッシェンの全絵画集にも載ってたと思うんだけどなー。
見た瞬間、どう見てもみけ! (鼻のかたちは違ったけど)だったので、ものすごく笑った、憶えがあります。
みけの方も、トンド・ドーニのヨセフがまるっきり先生だったので、ものすごく可笑しかった……結局この二人、ものすごく意識し合ってたんだよね。ちゃんと話ができたら、結構いい友達になれたんじゃないのかなぁと思います。
だって、先生は阿闍梨と似てて、みけは橘逸勢と似てるんだもん、頑張れば仲良くなれたと思うんですよねー。コミュニケーション取る意思があればねー。
某F/Zの弓陣営見てても思うんですが、コミュニケーション取ろうと思わないと、どんなに相性良さそうでも意味ないなーと云うね……次があったら、頑張れみけ。



そうそう、『ピスメ鐵』買いました。鳥羽伏見で痛々しく。かっちゃんムカつくあたりなんですが、まぁこの話のかっちゃんはそう云うキャラでもないので(以下略)。
とりあえず、鈴がどっち寄りになったのかでものすごく違うんですが、前の巻見る限りでは拗れちゃった(本人の中で)カンジなのかなぁと……ここまで買ってきたからには、もう最後までつきあわせてもらいますけどね!
関係ないけど、迷ってた『薄桜鬼 真改』、Fateやりたいので多分Vita買うだろうから、ついでにやることになるかと思われます。相馬はカッコよすぎるが、野村はまぁまぁ、伊庭はアレとして、本山さんがサブキャラで出るらしいので、その辺とか。しかし、観柳斎と三木がイケメンになってて、それだけは許さん……! この二人が出てくるってことは、もうちょっとかっしー回りアレコレするってことなんでしょうが、それより鳥さんをもう少し出す感じでお願いします。
りょうま? りょうまはいらねーなー。勝さんが出てくるなら大歓迎ですが!



あと、もひとつは『阿吽』の二巻ですね。
最澄推しなので、もう雑誌は買ってないのですが、一応二巻も買った……桓武が大嫌いなので、二巻はホントにもう! なカンジでした。
これの阿闍梨のキャラがねー。ああ云う生硬なカンジって、どっちかって云うと最澄のがそれっぽいような気がするんですが。阿闍梨はやや不真面目ですよ。いや、真面目は真面目なのかも知れないですが。でも、真面目一辺倒の人間が「三教指帰」みたいなひとを小馬鹿にした話は書かないと思うんだ。亀毛先生なんて、まるっきり阿刀大足だし、蛭牙公子も阿闍梨だろうしな!
って云うか、「三教指帰」≒「聾瞽指帰」って、今見るとバ……いやいや(汗)。若さっつーか馬鹿さ故のアヤマチですわね。やれやれ。多分国宝のアレを取っといたのは阿刀大足だと思うのですが、後で見せてにやにやされたんじゃないかと思いますよ。恥かしいですね!
さてしかし『阿吽』……三巻どうすっかなー。ホントどうしよ。



さて、この話もあと二章! はやく上げて、鬼の話を最後までうpしたいですね。
そのあとは先生の話、かな? お仕置きだべぁ〜! か……あ〜……
ともかく、次もみけの話で!

左手の聖母 19

 九月も半ばになったころ、サライが唐突に云った。
「もうじき収穫祭だけど、あんたも出るよな?」
「収穫祭?」
「うん、葡萄のな」
 そう云えば、この間から空気が甘い匂いに満ちているなと、ミケランジェロは改めて思った。
 熟れた果実の甘さと、葡萄特有の渋さの混じった香りが、枯れつつある葉の香りと土のにおいにまじって、風に運ばれてくる。そう云えば心なしか、肌がべたつくように思ったが、それは葡萄の匂いの甘さのせいでもあったのか。
「もう、収穫自体ははじまってるから、そうだな、今月の末だか来月の頭には、祭りになると思うんだけど――あんた、その辺、まだここにいるんだよな?」
「う、む、まぁ、な……」
 特に、どこへ行くあてもないのだし、それは、いていいものならいるつもりではいたのだが。
 すると、サライはぽんと手を打ち、
「じゃあ、あんたも参加な、決まり!」
「お、おい、参加と云って――俺に何かしろということか」
「や、別に? 収穫祭つっても、アレだよ、うちとバッティスタんとこの葡萄が収穫された後に、世話してくれてる農家の皆を呼んで、どんちゃん騒ぎをするってだけさ。農家のおばちゃんと、バッティスタんとことで料理は作ってもらえるから、俺は専ら接待役なんだけどさ」
「俺に、接待役をやれと云うのか!」
「云ってねぇって。ま、あんたは飛び入りの客ってことにしとくからさ。――まぁ、愉しみにしてなよ。フィレンツェじゃ、絶対こんなことやりゃしねぇからさ」
「まぁ、それは――」
 確かに、フィレンツェの街中にいる限りは、こんな葡萄の熟れる匂いすら知らないままだったかも知れない。
 その葡萄の匂いは、日に日に強くなっていき、空気は蜜を溶かしたかのような甘さで、肌にまとわりつくようになった。
 サライは、宴のために、何かと忙しくしているようだったが、ある日、
「明日、収穫祭になるぜ、多分」
 と云ってきた。
「収穫の状況を見てたんだけど、明日の朝方には全部終わりそうなんだよな。昼ごろからはじめるから、あんたちょっと手伝ってくれよな」
「あ、ああ……」
 と頷きはしたものの、ミケランジェロは、何をどう手伝ったものやら、さっぱりわからずにいた。
 が、翌日、ありったけのテーブルや椅子を運び出した先で見たものは、
 ――桶……?
 ただの桶ではない、風呂桶よりも深くて大きい、足のついた桶が、テーブルの並べられた真ん中に据え置かれている。その向こうには、摘み取られた葡萄が山となり、甘い匂いを放っている。
 と、向こうから、収穫を終えたと思しき老若男女が、やはり葡萄でいっぱいの手桶を持ってやってきた。
「どうも、お疲れ様でございました」
 と、バッティスタとサライが云って、
「じゃあ、はじめますか」
 と老人の一人が云う。
 二人が頷きを返すと、人々は、手桶の中の葡萄を、大きな桶の中にどんどん入れだした。
 若い娘たちが足を拭い、スカートの裾をたくし上げて、桶の中へ入ってゆく。男たちが、葡萄を入れながら口笛を吹くと、娘たちは、笑いとも悲鳴ともつかぬ声を上げながら、中の果実を踏みだした。
 甘い香りが、一層強く空気の中に漂いだした。
「……何だ、あれは」
 ミケランジェロが呆然としながら云うと、サライは、隣りに坐りこんだ老婆に杯を渡し、葡萄酒を注いでやりながら云った。
「葡萄踏みだよ。これをやって、葡萄を発酵させると、立派な葡萄酒の出来上がりってわけさ。大事な仕事なんだぜ。なぁ、おばちゃん」
「そうだよ。――そちら、お客さんかい、サライ坊?」
「そうさ。けど、“坊”はねぇだろ、“坊”は。俺、もう結構いい歳よ?」
 サライの言葉に、女は笑った。
 が、よく見ると、女は思ったほどの歳ではなかったのかもしれない。日に焼け、皺に埋もれてはいたものの、その歯はまだかなりが揃っているようだったし、声にもまだ若々しさが残っている。ミケランジェロと同じくらいか――あるいは、サライよりも年下なのかも知れなかった。
 娘たちが、裾をからげて、その白い脚をさらしながら葡萄を踏み、歌を歌う。
 と、男たちが、合いの手を入れるように歌いだす――それでわかった、これは恋のかけ引きの歌だ。男が誘い、女が気のない素振りをする。それを、葡萄踏みに絡めて進めていく、そんな内容の歌なのだ。
 女が、つれない言葉を投げかける、そこを娘たちが歌うと、桶のまわりに群がる男たちが、口笛を吹いて気を引こうとする。本当の恋のかけ引きも、その中には混じっているようだ。
「――実際、この後本当に結婚しちまう連中もいるんだぜ」
 声をひそめてサライは云い、桶を指さしてくっくと笑った。
「腹ぽこになっちまったりな。……街じゃ、こんなことはねぇだろ?」
「ああ、面白いな……」
 フィレンツェにも、謝肉祭のような祭りはあったが――こんなに和気藹々とした風ではなかったし、その後に子供が、などと云うことも、皆無ではないにせよ、そう多い話でもなかったのだ。
 葡萄は徐々に踏みしだかれ、甘い匂いが充満してくる。老いた男女は、周りのテーブルで酒を飲み、料理を食べ、向こうでは、若い者たちの歌にあわせ、踊り出しているものもある。
 桶の中はどうなっているのだろう――興味を引かれてミケランジェロが立ち上がると、サライがすかさず、
「あんま桶の傍までいくなよ、危ねぇから!」
 と叫んでくる。
 何が危ないのかと首をかしげていると、
「あら、まぁ、お客人だよ!」
 と女たちに手を取られ、あれよあれよと云う間に脚を拭われ、桶の中に引きずりこまれてしまった。
 娘たちが、葡萄を踏みながら、きゃーっと笑う。
「うお、と、と、と、と……」
 足の下で、葡萄がぐじゃりと潰れ、汁が足を濡らす。熟れきった甘い匂いが、一層強く立ち上る。
 ミケランジェロは、娘たちに手を取られながら、よろめくように反対側へ辿りつくと、縁にへばりついて叫んだ。
「俺の靴!」
「あれまぁ、焼き栗みたいな爺さんだねぇ!」
 老女――あるいは、そこそこの歳なのかも知れぬ――は、笑いながら靴を置いてくれた。
 すこしべたべたする足をざっと洗い、靴をつっかけてひょこひょこと戻る。
「何だ、あれは!」
 サライに怒鳴ると、肩をすくめられた。
「だから云ったろ、危ねぇって。お嬢さんたちは、悪戯がお好きなんだ。若いのだろうと年寄りだろうと、気に入れば、ああやって桶ん中に引っ張りこんじまうのさ」
 と云う視線の先では、中年の男がひとり、桶の中に引きずりこまれるところだった。
「あれは、遊んでいるのか?」
「いいや、立派なお仕事さ。だけど、仕事だって楽しいに越したことはねぇもんな。――そう云や」
 と、サライは喉を鳴らして笑った。
「何だ」
「や、先生がさ、ああやって踏むのは手間だろうって、葡萄絞り機を考えたことがあったなぁって。――まぁ、不評で、結局作んなかっただけどさ」
 と云うと、隣りにいた老人が、
「ああ、マエストロのあの機械か!」
 と、にやにやと笑った。
「何で不評だったんだ」
 ミケランジェロは、首をひねった。
 レオナルドの考えた機械がどんなものかは知らないが、労力が省けるならそれに越したことはないではないか。
「はっはぁ、あんたも、マエストロと同じ類の唐変木だね?」
 老人は、歯のまばらな口を開けて、大きく笑った。
 サライもその横で、やや苦笑まじりににやにやと笑っている。
唐変木とは何だ!」
「だって、考えてもみなせぇよ。機械で絞ったりしちゃあ、娘っ子の脚を拝めなくなるじゃあねぇですかい、なぁ!」
「まったくだ!」
 男たちが、どっと笑った。
「……なるほど」
 そんなものかも知れぬ。
 ミケランジェロは、女には興味がないが、例えばあれが、若々しい美少年であったなら――いやいやいや。
 サライも、くっくっと笑っている。
「やー、男連中にそう云われてさ、先生、憮然としてたもんなぁ。“絶対に、こっちの方が、楽に、無駄なく仕事ができるのに”ってさ。しばらく拗ねてて、ご機嫌取るの大変だったんだぜ?」
「そりゃ、悪いことしたな、サライ坊!」
「儂らだって、ちっとの楽しみは必要だでな!」
 男たちは笑い、「娘っ子の脚に!」と云って乾杯した。
「先生の、日の目を見なかった葡萄絞り機に!」
 サライが云って、杯を合わせてくる。
 ミケランジェロは杯を干し、またあたりを見回した。
 ほとんど葡萄を潰し終わったのか、娘たちは桶から上がり、杯を片手に、若者たちと語り合っている。あるいは、年のいった男女の踊りの輪に加わって、坐っている男をその中に引きずりこんでいる。
 リラ・ダ・ブラッチョの奏でる陽気な音、笑い崩れる女たちの声、男たちの手拍子と口笛の音。
「――これは、毎年こんなか」
 まだ陽も高いというのに、酒を呑んで、歌って、踊って。
「そうさ。だけど、年に一度、この時期だけのお祭りだ」
 サライが、杯の縁を舐めながら答えた。
「年に一度だけの馬鹿騒ぎさ。――いいだろ、これがミラノだ。俺たちのミラノなんだよ」
 “俺たちの”。
 そこにはきっと、レオナルドも含まれているのだろう。
 レオナルドとサライの、ミラノ。
「――いいところだな」
「いいところだろ」
 サライの言葉に頷きながら、杯を重ねる。
 レオナルドも、毎年ここで、この馬鹿騒ぎに加わっていたのだろうか。リラ・ダ・ブラッチョの名手として知られたレオナルドのことだ、きっと、求められるままに弾いてやり、時にはあの美声を披露しもしたのだろう。葡萄酒と、歌と踊りと。宮廷での取り澄ました顔でなく、ここではきっと、心からの笑いを見せてもいたのだろう。
 これが、レオナルドのミラノか――この、眩暈のするような開放感が。
 レオナルドがそうであったように、ミケランジェロも自由だ――今、この瞬間だけは。
 この自由を享受していれば、いつか、レオナルドと同じ高みへ行き着くことができるのだろうか?
 考えこんでいると、
「ほらほら、お客人、難しい顔してなさんなよ」
 踊っていた女たちが近づいてきて、ミケランジェロの手を引いた。
「こういう時は踊んなきゃ。ほら、来た来た、一緒においでなさいよ」
 立ち上がって、サライをちらりと見やると、にこにこしながら手を振ってくる。ああやって、レオナルドが引きずられていくのを見守ってもいたのだろうか――子供を見守る母親のように?
「――よし、行くか」
 ミケランジェロが頷くと、女たちは、きゃーっと声を上げて、彼を踊りの輪の中に導いてゆく。
 リラ・ダ・ブラッチョの音色、男と女の歌う声、杯のかち合う音、歓声、口笛――
 ミケランジェロも、その中に加わって、踊り、歌った。
 年に一度の馬鹿騒ぎ、一夜限りの祭り――その熱気にあてられたのかも知れない。小さい祭りであったからこそ、なおのこと。
 ミケランジェロは踊った。踊って、歌って、酒盃を干して、強かに酔って。
 気がつくと、夜は明けかけていて、あちこちに、自分と同じように行き倒れている男女の姿があった。サライは、テーブルに伏して眠っているようだった。
 白い朝靄の中に、収穫の終わった葡萄畑がぼんやりと霞んでいる。
 祭りは、終わったのだ。


† † † † †


みけの話、続き。
収穫祭と先生の葡萄搾り機。



イタリアの収穫祭が現在どんなものかは知りませんが、まぁ想像的なアレコレで。
確か、ワイン作るのに、こういうやり方してたような……何かのイラストで見たと思うんですが、記憶曖昧。
が、葡萄搾り機は、同じようなのが確か山梨の古い葡萄農園にあるのをTVで見たような。ワイナリーとかではなく、自分たちで消費する用に作ってると云ってたので、古いのを使ってたんだと思いますが。あの、昔々の脱水機(木製で、ぐるぐる回して水気を取るアレ)を転用してたのかな? 先生のもそんなだと思います。うん。



さて、別項立てるほどではないので、高野山のこと。
開創1200年の法要中で、今回の高野山行はものすごく人まみれでした。行きのケーブルカーなんか、ラッシュのバスみたいだった! 奥の院も混んでたし、秘仏御開帳見たさに行きましたが、うんまぁ、イベントごとは今回だけでいいかな……もっと静かな方が好き。
あと、今回は報恩院と云う宿坊にお世話になったのですが、日本人ほぼ私だけと云う状況で、他はともかく風呂が厳しかった……何で皆さん着衣! その中まっぱで入るのは、もうほぼ意地でしたね。郷に入れば郷に従えって云うもんね! いいの! 日本だから!
まぁそれはともかく、奥の院から遠かったので、それがアレでした。今回あの辺だったら、五月蠅くて仕方なかったかも知れませんが。
報恩院自体は、真雅の弟子、と云うことは阿闍梨の孫弟子の立てた割と由緒あるお寺で、珍しく本尊が大日如来なのは、高野聖大活躍の中世にも、その傘下に入らなかったところだから(五来重高野聖』にはまったく名前が出てこない)かと思われます。まぁ、小ぢんまりしたお寺ですけどね、高野聖関わってないと云うことは、宿坊になったのは遅かったんだろうなと思いますし。逆に云えば、聖が手を出せないくらいの寺だった、のかも知れません。
奥の院からは遠いですが、根本伽藍と大門には近いです。でも、西南院よりは中央寄り。
外国人率がものすごく高いので、国際交流したい方にはいいかも。私はonly Japanese! 英語できない! ので、次は日本人率高いとこにします……



あと、高野山行く前に、今回は四天王寺にも行きました。
本当は槇尾山施福寺に行きたかったんですが、アクセスがアレで、実質一泊二日の今回は無理そうなのと、現在天台の寺だと云うことで、「危ねぇから、俺と一緒の時にしなせェよ」と沖田番に云われたからです(←日蓮宗ともそうですが、天台ともあんま相性よくない)。
が、行ってみたらば、四天王寺も天台の寺……! 後で沖田番に、「実は大丈夫かな、って思ってました」とか云われました。はは。
大丈夫でしたが、何か、イマイチどうもよそよそしい感じで……何でしょうね、アレは。同じくらい古い寺でも、広隆寺(太秦の)はそうでもなかったんですが。まぁ、あそこは古いと云っても阿闍梨の弟子が再興したと云うことだから、平安初期の寺、なんでしょうが……でも、建物は割と新しかったですよ、四天王寺。あんま萌えなかった……
ざらっとお参りして、そこから、距離的にはいけたので、なんば駅まで歩く。途中一心寺とか云うとこに差しかかったら、何かお祭りやってるだかで凄い人出でした。が、建物新し過ぎて、新興宗教かと思っちゃった――やぐらの上で、女の人たちが謎の舞を舞ってたしな。検索してみたら浄土宗の寺だと云うことでしたが、何だろあれ、あのカンジ……何か、うん、やっぱ新興宗教っぽかった。それとも、大阪の寺のお祭りがあんなんなんか? どうもよくわからん……とりあえず、私東の人間なんだなぁと思いました。



今回はアベノハルカス見て(時間がないので中は探検せず)、通天閣見て(時間がないので以下略)、なんばでたこ焼き食べて、帰りにも食べて、ついでに日本橋で薄い本をあさって(だって! 行きにKブとか見ちゃったから……! 掘り出し物はありました)、かなり満喫してきましたよ。
だけど、高野山はもっと人のいない時期に行こう……いずれ二月に! 寒いから、一人で行きますよ〜。



後は、ちょっとF.a.t.e/Z.e.r.oとかにはまったせいで、古代シュメル文明にも手を出してみたり。と云っても、『ギルガメシュ叙事詩』読んだり、中公新書のシュメル関係読んだりですが。
そう云えば、シュメル関係の文学とかの資料のかなりのものが、ニネヴェのアッシュル・バニパルの図書館で発見されたものだそうなので、結構繋がりが? ギルガメシュとエンキドゥの関係が、どっかで見た感があって面白いです。ふふ。



さてさて、次もみけですね、あと3章!
頑張って早く上げたいです……

左手の聖母 18

 季節は、あっという間に過ぎていった。
 秋のはじめ、サライを訪ねてきたものがあった。
「スイスへ行くんだ。……一緒に行かないか、サライ
 明るい青の瞳の、がっしりとした身体つきの男は、来るなりサライにそう切り出してきた。
「いつまでもここに閉じこもっていたって、仕方がないだろう。スイスへ、一緒に行かないか。私は、そこで祭壇画を描くことになっているんだ。その時に、お前が隣りにいてくれたら嬉しいんだけれど」
 祭壇画――では、この男は画家なのか。
 サライが、レオナルド以外の画家と?
 ミケランジェロは、肚の底に、もやもやとした不快感が溜まっていくのを感じていた。おかしな話だ、自分には関わりのないことであるのに――だが、気にくわないものは、気にくわないのだ、サライには、レオナルドでなければ。
 と、
「――ありがとな、ベル」
 サライは、穏やかな声で云った。
 ベル、と呼ばれた男は、声に喜色を滲ませた。
サライ、それじゃあ……」
「本当にありがたいけど、俺は行かねぇよ。俺は、死ぬまであの絵と一緒にいたい。お前とは行けねぇよ」
「一生? この先、どれだけ長い人生があると思っているんだ!」
 男は激昂した。
「この先の人生全部を、マエストロに捧げるつもりなのか! それでは、お前の人生はどうするんだ!」
「俺の人生は皆、先生のためだったんだよ、ベルナルディーノ」
 サライの声は、あくまでも穏やかだった。
「考えてもみろよ、十歳からずっと、俺の人生は先生のためで回ってたんだ。先生が死んでからだって、そうだった――わかるか、三十四年だ、三十四年間、俺は先生のために生きてきたんだ。……今さら、俺のための人生なんてないんだよ」
「――あの絵が、お前を縛るのか」
 ベルナルディーノの声は、低くなった。
「あの絵がなければ、お前は自分のために生きられるのか。――確か、メルツィから、絵を渡せと云ってきていたな? あいつにやってしまえよ、サライ。フランス王が欲しがっているなら、渡してしまえばいいんだ。あの絵がなければ、お前は、マエストロの鳥籠から出ていくことができる、そうだろう」
「俺の前で、二度とそんな口をきくな」
 サライの声は、氷の刃のようだった。
 あれは、いつかの夜――レオナルドの部屋の入口に立ったミケランジェロに、“入るな”と云った、あの時と同じ声音。
「あの絵は、俺のものだ――俺が生きている限りは、誰のものにもさせやしない。あれは、俺の先生そのものだ。渡すもんか、フランス王だろうが、法王だろうがな。――二度と、俺にそんなことを云うなよ。云ったら、ただじゃおかないぞ」
「……そうして、ずっと鳥籠の中にいるつもりか。マエストロは、もう戻りはしないのに!」
「先生、鳥籠の鍵を開けてくれなかったからな。――だけど、もういい。俺にもわかった、鳥籠だって愛だったんだ。俺は、そのことと、あの絵があれば、それでいいんだよ」
「――私は、それでは駄目なんだ」
 男が、席を立った気配があった。
「諦めないぞ、サライ――また、来る。今度は、春になったらな」
「ああ、気をつけて行けよ」
 穏やかになったサライの声に送られて、男はつかつかと戸口まで歩み――
 戸口を出たところで、ミケランジェロに気がついた。
「立ち聞きとは、品のない――」
 云いかけて、こちらが誰なのかに気づいたようだった。
「マエストロ・ミケランジェロ……何故、あなたがここに……?」
「俺を、知っているのか」
 ミケランジェロは、相手のことを知らないが。
「ええ、私も一時、フィレンツェにいたことがありますからね。――私はベルナルディーノ・ルイーニ、マエストロ・レオナルドの工房にご厄介になっていたことがあるのです。……サライの友人ですよ」
「ほう」
 だが、ただの友人にしては、今までサライに投げかけていた言葉は、別種の愛情を示していたように聞こえたが。
サライが、ミラノへ戻ってから、この家に閉じこもりっぱなしなので、気になっていましてね。丁度、私がスイスへ行くことになりましたので、一緒にどうかと誘いにきたんですですが――」
「レオナルドを捨てて生きろとは、随分乱暴なことを云う」
 もやもやとした不快感を抱えながら、ミケランジェロは云った。
 友人だか何だか知らないが、あのサライからレオナルドを取り上げようなどと――そんなことなど、できようはずもないのに。
「だが、それくらいのことができなくて、どうやってこの先を生きていくと云うんです」
 ベルナルディーノは、強い口調で云い返してきた。
「あいつは、この先も生きていかなけりゃならない――いつまでも、死んだ人間に囚われていていいはずはありません。多少乱暴だろうと何だろうと、あいつが生きていくためなら、云ってやらなけりゃならないんだ、違いますか」
「――お前は、大切な誰かを亡くしたことがないのか」
 ミケランジェロは、ジュリアーノのことを思いながら、云った。
 ジュリアーノが死んで十一年、もう思い出して悲しみに涙することもなくなった。
 ただ、その不在がたまらなく淋しい。
 その淋しさを、抱いて歩いてゆくことはできても、捨てたり、忘れたりすることは決してできない。他人がさせようとしても、できるわけがないのだ。
 ベルナルディーノは、首を振った。
「両親は、もう亡くなりましたが」
「では、そのことを捨てて生きろと云われたら、お前、できるか」
「……それは」
「できるか。できないだろう。――お前が奴に云ったのは、それと同じことじゃないのか」
 十歳からずっと、とサライは云った。十歳から44の今まで、サライの人生がレオナルドのためだったとしたら、それは、あるいは両親に対するよりも強い結びつきであったのかも知れない。
 そして、そうであれば――それだけの絆が断ち切られてしまったことへの悲しみは、どれほどのものであるだろう。その悲しみを抱えて歩いていけるようになるまでには、どれほどの時間が必要とされることだろう。
「――お前が、やつの友人だと云うのなら、待っていてやるべきだ。やつが、レオナルドのことを抱えて歩き出せるようになるまで、じっと……それこそが、本当の友情というやつじゃないのか。違うか」
 徒に、サライが閉じこもっていることを非難するのではなく、その抱える悲しみをわかち合うこと――そうしながら、彼が歩き出すのを待つことこそが、結局は早道になるのだろう。
「……あなたに云われる筋じゃない。――だが、肝に銘じておきますよ。それでは」
 男は云って、かるく頭を下げ、身を翻して出ていった。
 その後姿を見送って、ミケランジェロは、サライのいる居間へ入った。
「……あの男、帰っていったぞ」
 そう声をかけると、絵を見ていたらしきサライは、こちらへ向き直り、ふと苦笑した。
「ああ。――あいつと、話したのか?」
「すこしな。レオナルドの工房にいたと云っていたが」
「ああ、うん。あいつね、ベルナルディーノ・ルイーニって云って、この辺じゃ結構有名なんだぜ。サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ聖堂の祭壇画とか描いたりしてさ。俺と同い年で、昔っから仲良くしてたんだけど――何だかな、時々妙なんだよな、あいつ」
「……お前のことが、好きなんじゃないのか」
 友人としてではなく、もっと違う――例えば恋に似た感情で。
 サライは頷いた。
「うん、俺も、大事な友だちだって思ってるよ」
「いや、だから、そうではなくてだな……」
 云いかけて、サライのきょとんとした顔に、言葉を呑んだ。
 この男はわかっていない。本当に、ベルナルディーノの向けてくる感情を、ただの“友情”だと信じこんでいるのか。
「――あの男も、報われんなぁ……」
 ミケランジェロが、溜息とともに呟くと、サライは唇を尖らせた。
「何だよ、わけのわからねぇこと云ってさ」
「あの男の不運は、お前に好意を寄せたことなのだろうな」
「変なこと云うなよ。ちゃんと、友だちらしくしてるってのにさ」
「……もういい」
 これ以上云ったところで、サライはきっと、わかろうとすらしないのだろう。
「何だよ、失礼だな」
「お前はきっと、云ってもわからんさ」
 そう云ってやると、サライはぶうぶうと文句を云った。
 それを適当にいなしながら、ミケランジェロは、すこし口許が緩むのを覚えていた。
 ――そうか、あの男のことは、何でもないのか。
 サライには、やはりレオナルドなのか。そうとも、そうでなくてはならぬ。
「……あんた、何でそんなにこにこしてんだよ」
 サライが、不気味そうに云ってくるが、ミケランジェロは構わなかった。
「何でもない、何でもない」
「何でもないって顔じゃねぇよ。――変だぜ、あんた」
 ただ、嬉しいだけだ。サライが、レオナルドのことを抱えて生きていくと決めているらしいことが――レオナルドを捨てないという、そのことが。
「やっぱ、変だよあんた」
 云い続けるサライに笑みかけて、ミケランジェロは、晴れやかな声で云った。
「それで、今日はどこへ散歩にいくのだ、サライ?」


† † † † †


みけの話、続き。
ルイーニ登場!



ご存知ない方のために一応書いときますと、ベルナルディーノ・ルイーニは、確かヴィンチェンチオ・フォッパとかの弟子(うぃきには書いてなかったけど、確かそう)で、先生の工房にもいたことがあります。ある時期を境にして、ルイーニの描く女性の顔は大体サライ! 聖母子像とか、先生の『聖アンナと聖母子』の聖アンナの顔に似てますよ(大笑)。面白いから較べてみてください。まさにサライ
ちなみにルイーニ、アマレットと云う酒は、ルイーニに惚れた宿屋の女主人が、奴のために作った酒と云う話。そんなイケメンだっけ? まぁ飲んだくれですからね、ルイーニ。死因はきっと肝硬変か肝癌だと思います。
ルイーニ→サライでサラレオですね。みけはまぁ、黙って見てる、がサラレオ押しかな。みけにとっては、ルイーニはぽっと出だし、自分とじゃ勝負にもならない(みけのライバルは先生だけ!)のでねー。



さて、だんだんラストに近くなってきたぞ。22でおしまいなので、あと4回か。そしたら、『北辺』上げて、それから『神さま〜』の続きにそろそろ取りかかりたい……
あと、凍結してる四郎たんの話とかね。泰範とか逸勢の話とかも!
先は長いですのぅ……



とりあえず、来週は高野山なので! その後は海辺の狩りとかなので! まぁアレですが、そう間をおかずに次の章上げたいです。
ってことで、次もみけの話〜。