北辺の星辰 50

 三月半ば、偵察に出していた間諜が、津軽より戻ってきた。薩長軍の軍艦五隻、及び輸送船二隻と亜米利加の飛脚船一隻、計八隻を品川から出帆させ、宮古湾に入港させるらしい、との知らせを携えての帰還だった。
 その薩長の軍艦五隻のうちの一隻が、例の甲鉄艦――旧幕府が、亜米利加に発注して建造させたものの、大政奉還後、その帰属が注視されていた――であると云うので、集まった箱館府の幹部たちの間からどよめきがわき起こった。
「甲鉄が……」
薩長の奴輩の手に渡ったのか……」
 それは、悔しさよりも脅威を感じさせる報であった。
 甲鉄艦は、その大きさこそ回天にも劣ってはいたのだが、船体すべてを鉄板で甲い、大砲も大小合わせて九門装備した、云ってみれば最新鋭の軍艦だったのだ。
 むろん開陽丸が健在ならば、恐るるに足らずとまではゆかぬにせよ、伍して戦うことも可能であっただろう。互角以上の戦いを繰り広げることすらできたに違いない。
 だが、開陽は江差の沖に沈み、その救出のために神速すらも座礁することになり――幕府海軍の戦力は大きく削られてしまっていた。
 そこに、甲鉄艦が投入されてくるとなれば、こちらは苦戦どころの話ではないのは明白だった。
「如何致しましょう」
 大鳥や永井玄蕃などは、蒼褪めた顔で榎本に問うた。二人とも、ひどく狼狽しているようだった。
 歳三も、かれらと同じように狼狽していた。
 むろん、歳三は海軍の戦力の何たるかなど知りはせぬ。ただ、幕府海軍の主力である開陽丸が既にないこと、そしてその開陽なしには甲鉄艦を退け得ないこと、これだけを、かろうじて認識していただけのことだ。
「うぅむ……」
 榎本はと云えば、こちらも事態を重く見ているもののようで、腕を組んでじっと考えこむそぶりだった。
 それはそうだろう、そもそも五稜郭首脳陣は、本格的な戦闘は雪融けまではないと踏んでいたのだ。
 それが、この時期に船団を派遣してきていると云うこと自体が問題であったし、そこに甲鉄が加わっていることも、また問題だっただろう。榎本は元々海軍畑であったから、そのあたりのことは、他のものたち以上に切実に感じられたに違いなかった。
 だが。
「そう難しい顔をなさることはありませんよ。いい案があるのです」
 そう云った、海軍奉行・荒井郁之助の表情は、いつものように明るかった。明る過ぎるほどだった、と云ってもいい。
 荒井は、うきうきとした表情のままで云った。
「実は、甲鉄の話を聞いてすぐ、甲賀さんと話をしていたのですが、面白い話を戴きましてね。甲鉄艦を乗っ取るのはどうだろうと云うのです」
「あ、いや、私は……」
 端の席で、困惑したように、回天艦長・甲賀源吾が手を上げる。
 が、荒井は一向構う様子はなかった。
「それは面白いし、できたなら開陽の穴も埋められると思いまして、ブリュネ殿やカズヌーヴ殿などに相談してみたのです。すると、あちらの方にも、そのような戦術があると云うのです。アボルダージュとやら云うようなのですが――つまりは、接舷して、そこから兵士を送り込み、白兵戦にて艦を奪取すると云う攻撃方法ですな」
「――義経の八艘飛びでもあるまいに」
 隣りに坐した中島三郎助が、皮肉に唇を歪め、小さく独りごちたのがわかった。
 そして、そのような感想を抱いたのは、中島一人と云うわけでもないようだった。
「海賊のようなやり口ですな。今の世に、軍記ものでもありますまいに」
 永井玄蕃も、やや賛同しかねると云いたげな口ぶりだった。
 だが、榎本は、荒井の案を深く考えているようなそぶりだった。
アボルダージュ、か……」
 砲術を専らとする中島や、文官である永井などとは異なり、海軍出身である榎本には、この案は一考の余地のあるものと映ったようだった。
「――確かに、甲鉄がこちらのものになれば、開陽の穴は埋められるな……」
「そうでしょう!」
 荒井は、我が意を得たりとばかりに、勢い込んで頷いた。
「我らの今の海軍力では、真っ向から甲鉄とやりあうのは不可能なこと。ですが、接舷の上、白兵にての戦いであれば、百戦錬磨の兵を持つ我らにこそ勝機はございます!」
「だが、船上での戦いとなれば、足場も不安定だし、狭い場所でのことで、銃器も使えるまい。それで我らに勝機があるだろうか?」
 大鳥が、学者らしい質問を投げかける。
 その問いかけにも、
「船上であればこそ!」
 荒井は胸をはるばかりだった。
「鳥羽伏見よりの薩長の軍装を憶えておいでか。奴らは、筒袖にだんぶくろの軽装で、武器と云えば腰のものより銃ばかりでございました。それに引きかえ、我らの陸軍兵は、銃も遣いますが、やはり剣を遣うものが多いのはご存知のとおりです。船の甲板と云う狭い場所で戦うとなれば、錬磨の兵持つ我らに軍配の上がるは必至でございましょうぞ!」
 意気揚々と云われても、海戦がわからぬ歳三は、曖昧に頷くしかない。
 中島はと云えば、やはり皮肉げに唇を歪めているが、さりとて荒井の案を無碍に扱おうと云うわけでもなさそうだ。もっとも、皮肉屋の中島のことだ、ただ否定の言葉を口にせぬというだけで、内心はどう考えているのか知れたものではなかったが。
 永井も門外漢であると云う意識からか、強いて止め立てしようと云う気配はない。だが、この人も海千山千の人物である、中島と同じく、肚の底でどう思っているのかは知れなかった。
 提案される作戦にいつも鋭く切りこむ松平も、やはり専門ではないとの思いからか、今度ばかりは沈黙を守っている。
「――まぁ、荒井さんの案でいくのがいいように思えるな」
 そして榎本は、元・軍艦奉行として、また箱館府総裁として、荒井の案を支持する言葉を呟いた。
「残念ながら、我らの海軍力は著しく削減されている。正直に云って、掴めるものなら藁をも掴む、と云うのが私の心情だ――まして、それが元々幕府の所有であった甲鉄であれば、なおのこと良し。我らのものを、我らの手に取り戻すだけではないか」
 榎本は云って、強いまなざしで一同を見まわした。
 居並ぶものたちからは、反論の言葉はない。だが、決して諸手を上げての賛同ではないことは、かれらの表情からも明らかだった。
 とは云え、確かに他に方策などありはしなかったのだ。
「では、異論がなければ、アボルダージュ作戦を行うと云うことで――宜しいか」
 榎本が全員の顔を見回して問うたが、異論反論を差し挟むものはなく。
 かくして、戊辰最大の海戦が決行されることとなったのだった。明治二年三月二十日のことであった。


† † † † †


鬼の北海行、続き。
いよいよ宮古湾、の手前。


相変わらず空気読まない荒井さん。
っつーか、うん、どうもやはりアボルダージュ立案は甲賀さんらしいのですが――甲賀さんかなァ……あんまりそう云うタイプじゃないような気がしてならない、のですが、まァ伝記にそう書いてあるからにはそうなんでしょう。
……やー、でも、何か違う様な気がするなー。うーん。
まァ、自分の勘を信じて、発案者は他の人、ってことにしよう。
ってわけで、甲賀さんがぽろっと云ったのを、荒井さんが捉まえて立案まで持ってった、ってことで。だって、甲賀さんが積極的にアボルダージュ、ってのは、どう考えてもキャラに合わないんだもん〜。


そうそう、「地虫鳴く」(木内昇 集英社文庫)が出ましたので、読んでみました。
うん、面白いのは面白かった。何と篠原泰之進がカッコよく、うっかり惚れそうになりました――史実の奴は、小狡くって好きじゃないんだけども。こういう篠原だったら、冥界阿呆話みたいに小松っとんに押し付けたりはしないんだけどねェ。
阿部十郎――すまん、この話のは嫌いじゃない、が、どうも何だかやっぱりよくわかってないんだなァっつーか(以下略)って思いました。
尾形俊太郎って、みんなあんな造形だけど、そんなんだっけ? 何かとぼけた奴だなァ、としか思わない感じなんですが。って云うか、何か奴にはそういう逸話でもあるの?
そう云えば、個別の隊士のエピソードはまったく調べてないので、どこまでが史実でどこからが創作なのか、その辺のアレコレがまったくわかんないや。調べて――みる暇があったら、多分源平関連の御家人とかを調べるなァ……まァいいや。


この項、終了。
でもって、次こそルネサンスコモ湖、見切り発車〜。怪しい記憶を掘り起こせ!