ルネサンス断章

神さまの左手 35

「……なぁ、俺が要るって、何があるのさ?」 大股で歩くレオナルドの横を小走りに行きながら、サライは当然の疑問を投げかけた。 レオナルドは、『最後の晩餐』のモデルを探していたはずで、実際、スケッチのための画帳も抱えている。 そうである以上、サライ…

神さまの左手 34

レオナルドは、ようやっとモデルの選定に入ったようだった。 ようだった、と云うのは、有体に云えば、画帳を持って、街中をほっつき歩いているだけ、のように見えなくもなかったからだ。 西に行っては道行く人の姿を画帳に納め、東に行っては気に入った人に…

神さまの左手 33

構図の問題を少々棚上げにして、レオナルドは、画中の人物のモデルを探すことにした。 と云っても、難しいことがわかりきっているキリストとユダは措いておいて、描けそうなあたりから物色していくのだが。 とにかく、劇中の一場面のように画面を構成しよう…

神さまの左手 32

「どう思うね、サライ」 そんな言葉とともに、レオナルドに画帳を示されて、サライは小首をかしげて見せた。 今年、サライは十四になった。まぁまぁ大人だ、と本人は思っていたが、身体つきもようよう意識に追いついてきた感がある。まだまだレオナルドには…

神さまの左手 31

ともかくレオナルドは、絵の構図を考え出すことにした。 磔刑図は、正直もう捻りようがないので措くとしても、最後の晩餐図に関しては、レオナルドも思うところがなくはなかったのだ。 レオナルドのかつての居所、フィレンツェには、ギルランダイオやカスタ…

神さまの左手 30

「サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院の食堂に、壁画を描かぬか」 年明けてすぐに、レオナルドは、イル・モーロから呼ばれ、そのように云われた。 「実は、前々から修道院長に、適任の画家を推してくれと云われていたのでな。むろん、例の“馬”の制…

神さまの左手 29

コモからミラノへ帰りついたのは、もう9月も末になってからだった。 もう“馬”を作りはじめなければ、11月の末に迫ったお披露目に間に合わなくなる。 「本当に間に合うのですか、マエストロ!」 イル・モーロの使いは、そう云って急かしてきた――おそらくは…

神さまの左手 28

コモ湖に注ぐ滝を見る、と云う希望が果たせなかったので、レオナルドは翌日、今度は湖上を北上することに決めた。 昨日は結局、東岸の途中までしか歩けないで終わってしまった。 どうも、コモ湖は思っていたよりもはるかに大きな面積の湖であるようだ。館に…

神さまの左手 27

コモ湖についた翌日から、レオナルドは精力的に湖畔を歩き回った。 サライとしては、せっかくの保養地であるのだし、少々のんびりしたい気分があったのだが――滞在期間が限られている上に短いときているのだから、一分一秒たりとも無駄にはできない、とレオナ…

神さまの左手 26

コモ湖までは、徒歩でほぼ一日の道のりだった。 なるほど、ミラノ貴族の保養地としては、絶妙な距離だ。すぐに呼び戻すには、使者の往復に二日を要する――もちろん、火急の使者となれば、馬で半日もあれば行きつくだろうが――が、さりとて遠過ぎて帰還が困難と…

神さまの左手 25

レオナルドは、いよいよ“馬”に手をつけはじめたようだった。 “ようだった”と云うのは、例によって例のごとく、レオナルドの移り気が、“馬”ばかりにその注意を留めておかなかったからだ。 もちろん、まったくほうりっ放しと云うわけではなかったのだが――元来…

神さまの左手 24

ともかくも、レオナルドは“馬”に取りかかりはじめた。 レオナルドの目指す騎馬像は、未だかつてないほど巨大で、誰も見たことのないほど躍動感にあふれた姿――ゆったり歩む姿などではない、今にも動き出しそうな馬の姿を作り出すことが、究極の野望だった。 …

神さまの左手 23

コルテ・ヴェッキアへ、小走りで行く。 ドゥオモのすこし先にある古い宮殿は、一部を当代のミラノ公であるジャン・ガレアッツォが住まいとしていたのだが、残りの部分は、イル・モーロの抱える画家や建築家に、工房として与えられていた。 円柱の立ち並ぶ回…

神さまの左手 22

レオナルドに元気がない。 コルテ・ヴェッキアからなかなか帰ってこようとしないし、帰ってきても、またすぐに出て行ってしまう――まるで、家に留まっていたくないのだとでも云うかのように。 つい先日までは、母親が来るのだと云って、浮き浮きと、珍しく部…

神さまの左手 21

彼女がやってきたのは、夏の盛りの七月十六日のことだった。 その日、レオナルドは、例の馬の彫像のために、コルテ・ヴェッキア宮殿の工房に出向いていたのだが、来訪者があると云う使いのものの知らせで、慌ててスフォルツェコとドゥオモの間にある、自身の…

神さまの左手 20

※若干性的に直截な表現がございます(ぬるいので畳みませんが)。閲覧の際は、自己責任でお願い致します。 レオナルドはそう好色な質ではないのだが、こればっかりは勘弁してほしい、とサライは思う。 何をと云えば、その最中に、急に思い立ってデッサン帳を取…

神さまの左手 19

その集落は、玩具のような家々が身を寄せ合うように建っている、ごく小さな村だった。 その集落の端にある、石工の家の戸を叩く。 「……誰だ」 ぶっきらぼうな声があって、扉の奥から、髭面の男が顔を覗かせた。 「マエストロ、私です、ミラノのレオナルドで…

神さまの左手 18

レオナルドは、石が好きだ。 美しい大理石の小片から、道端に転がっているような、サライから見ればがらくたにしか見えない石ころまで、とにかくあらゆる石を矯めつ眇めつし、撫でまわすのだ。まるで、それが同じ大きさのルビーかエメラルドだとでも云うかの…

神さまの左手 17

※かすかに女性向けの表現があります。畳みません(それほどでもないので)が、自己責任でお読み下さい。 やってしまった。 レオナルドは、頭をかかえていた。 サライと、肉体の関係を持ってしまった――相手は、まだ十二歳だというのに。 ――やってしまった…… 三…

神さまの左手 16

※若干女性向けの表現があります。畳みません(それほどでもないので)が、自己責任でお読み下さい。 レオナルドとそのような関係になったのは、本当に、ふとしたはずみからだった。 いつものように絵のモデルをしていたサライの肌を、レオナルドの手が滑ってい…

神さまの左手 15

リラ・ダ・ブラッチョの弦をひとつ爪弾いて。 「さて、本日は、いかなる歌をお聞かせ致しましょうか?」 レオナルドが問いかけると、居並ぶご婦人がたは、さわさわと囁きをかわし。 やがて、ひとりが口を開いた。 「例の“モルガンテ”をやって下さいな、マエ…

神さまの左手 14

サライは、ミラノでの二度目の新年を迎えていた。 この年、サライは十二歳になった。 ミラノでの暮らしにもすっかり慣れ、最近では――絵こそ描けないものの――レオナルドの弟子としての立ち振る舞いも、すっかり板についてきた。相変わらずの“大食らい”で、お…

神さまの左手 13

ミラノの市門を出、葡萄畑の中をとおって、その先へ。 すこし行くと、なだらかな丘陵に行きあたる。 この丘から見るミラノ一帯の風景はとても美しく、レオナルドは好んでここを訪れていた。 その上、この丘を駆け上がるように風が吹くことが多かったので、か…

神さまの左手 12

ともかくも、馬をどうにかせねばならぬ。 レオナルドの頭を悩ませていたのは、まったくこの一点に尽きた。 と云うよりも、馬がはかどらないので、それから逃避しようにかかっていた、と云ってもいいだろう。 騎馬像のバランスが問題なのだが、何をどう考えて…

神さまの左手 11

祝祭が終わってしばらくの間、レオナルドは、例の“騎馬像”に取り掛かるでもなく、ややだらけた日々を送っていた。 朝遅くなってから起きてきては、以前描いていたらしき素描を丹念に描き直してみたり――但し、依頼があってのものではないので、まったくのお遊…

神さまの左手 10

舞台の上は、光に満ちていた。 色鮮やかな衣に身を包んだ役者たち、それを照らす数知れぬ蝋燭の焔、その焔の光を跳ね返す数多の飾り―― 確かに、それは天国の写し絵と云っても良かっただろう。 ダナエ役の役者が細い声で、ユピテル役の役者が朗々と、台詞を曲…

神さまの左手 9

復活祭が過ぎて、しばらくが過ぎた一月の半ば、イル・モーロとベアトリーチェ・デステ、そしてアルフォンソ・デステとアンナ・スフォルッツァのふた組の婚礼の儀が、盛大に行われた。 サライは、画家の弟子と云う身分のため、公の式に出ることはできなかった…

神さまの左手 8

バルダッサーレ・タッコーネの戯曲は、題名を『ダナエ』と云い、その名のとおり、ギリシア神話のダナエに想を得た物語だった。 「娘の息子に殺される」と云う神託を受けたアルゴス王アクリシオスが、神託の成就を恐れ、娘ダナエを塔に閉じこめる。だが、黄金…

神さまの左手 7

スフォルツェコの城門へは、歩いてすぐに行きつける。 とは云え、大荷物のサライにとっては、その短い道のりも結構なものに感じられた。早足で歩くレオナルドに遅れぬよう、ほとんど小走りであったから、かかった時間はさほどではなかったはずだけれど。 レ…

神さまの左手 6

レオナルドにとって、絵を描くことの次に愉しいのは、実はお祭り騒ぎだった。 お祭り騒ぎと云っても、その騒ぎそのものが好きだと云うよりは、祭りの非日常性――例えば仮面をつけての華やかな舞踏会、人びとの衣の翻る艶やかな様、異形を模した仮面のかたち、…